ずぶ濡れの相合傘

文字数 7,097文字

 「このことは、絶対秘密よ。」

 みなみ先生に夕ご飯をごちそうになった。
 部屋を出るとき、閉めかけのドアの向こうで、先生はやや冗談めかして笑いながらそう言い、お願いポーズをした。学校では薄い銀のフレームの眼鏡をかけている。今日、初めて、先生は長いまつ毛、髪色と同じ栗色の綺麗な瞳の持ち主であることを知った。

 もちろん、わかってますと僕は答え、マンションのエレベーターのボタンを押す。ドアが開くと、そこには先客がいた。水色のフーディと七分袖のデニム姿のショートヘアの女の子。
 同じクラスの珠美だった。
 お互いの顔を凝視し、三秒ほど固まっていたが、ドアが閉まりそうになったので、慌てて乗り込んだ。いや、あのままエレベーターをやり過ごすのが正解だったかもしれない。

「武田君、このマンションに住んでるの?」
「い、いや、たまたま親の知り合いに用事があって。」
「ふーん。」
 珠美は既に疑いの目を向けている。だいたい僕はウソをつくのが下手だ。すぐ態度に出る。

「珠美の家は、ここなんだ。」
「うん、高校に合格した後、親が転勤で引っ越しちゃったから、部屋を借りてもらって一人で住んでるの。」
 一階でエレベーターを降り、エントランスに出ると、アタシはコンビニに行くからと、珠美は僕と反対方向に歩き始めた。
 数歩も進まないうちに、背後から珠美が大きめの声で呼びかけてきた。
「ねえ知ってる? 担任のみなみ先生もここに住んでるんだよ。」
「へ、へえ、そうなんだ。」
 珠美は、十メートルほど先で、振り返ったままの姿勢で僕の反応をうかがっている。それから「じゃあね」と言って再び夜道を歩き始めた。


「一年B組の皆様、入学おめでとうございます。私は皆さんのクラスを受け持つ、高鳥みなみと言います。」
 みなみ先生は自分の名前を板書し、
「 “たかしま” じゃなくて “たかとり” ですからね。」と言って、いや、おっしゃって、僕の方をチラ見したような気がする。慌てて僕は下を向く。

 実は、みなみ先生は僕が中学三年の時の担任の先生で、たまたま僕の入学と一緒に、この高校に赴任してきた。 
 しかもクラスの担任。
 一応、この県立高校は、県下随一の進学校で、母校の中学から入学したのは僕を入れて五人。そのうちの一人が珠美だ。

「では、早速出席をとります。出席番号順に呼びますので、呼ばれたら一言二言、自己紹介をお願いします。 では、一番、足立早紀さん・・・」

 どうやら五十音順らしく、ボクの出席番号は十八番。まだまだ先だが、近づくにつれ、動悸が強まる。

「十八番、武田壮介君。」
「は、はい。」
 僕は立ち上がり、自己紹介のスピーチをしたが、何を言ったのか覚えていない。
 みなみ先生は、少しだけニコリとした、ような気がする。

 学校生活などのガイダンスを終え、初日は午前中で解放された。
 玄関で靴を履き替えていると、背後から声がかかる。
「武田君。」

 珠美だ。
「同じクラスになったね。これからよろしくね。」
「ああ、よろしく、っていうか、僕のこと覚えてたの?」
「あったり前じゃない。武田君、勉強できたし。」
 珠美とは、中学生の時もほとんど会話したことがない。
「でもさ、担任の先生まで同じとは、びっくりしちゃうよね。」
「ほ、ほんとだね。」

「それからさ、ちょっと頭にきてんだけどさー」
「何?」
「みなみ先生、出席とったじゃん。その時、名前を読み上げて、返事した方に顔を向けてたんだけどさ、先生、武田君の時は、名前を呼ぶ前からじっと見てたのよね。アタシを呼んだときは、みんなと同じだった。存在を忘れられてたのかねー?」
「・・・そ、そう? たまたまそう見えただけじゃない?」
「いやー、そうとは思えないけどねえ。」
 玄関口で珠美とは別れた。つくづく女の子の勘は恐ろしいと思った。

 入学してから一か月弱。学校での生活や勉強に慣れるのが大変だったが、何とかGWまでは乗り切れそうだ。

 ある日の下校途中、僕は家の近くのショッピングモールで時間を夕方まで潰し、本屋で参考書とマンガを買い、家まで待ちきれずにマンガ本を開いて歩き読みしていた。

 ドシン!

 誰かにぶつかった。
「す、すみません!」

 歩き読みしていた僕が全面的に悪い。
 転んだ女性は眼鏡を飛ばし、その周りには食品などが散乱している。慌ててそれを拾い集め、女性を助け起こす。

 眼鏡をかけなおしたその女性は、みなみ先生だった。
「せ、せんせい! 怪我はありませんか?・・・本当にすみません。」
「大丈夫、なんともないわ。それよりソースケ君、子供じゃないんだから、歩き読みなんかしないのよ。私だからよかったものの・・・」

 先生、こんな公衆の面前で「ソースケ君」呼びはまずいんじゃないですか? と思ったけど、今はそんなことを言っている場合ではない。レジ袋は破れてしまったようで、買った商品を両手に抱えて先生は困っている。

「あ、持ちます。」
 いくつか僕の手に渡してもらう。まとめ買いしたのか、結構数が多い。
「ありがとう。でも、このままこうやって歩いていくの?」
「はい、構いません。」
「じゃあ、お言葉に甘えて。すぐ近くだから、家まで一緒に持っていってもらおうかしら。」
「えっ! あっ! はい、わかりました。」

 先生と僕は、両手に荷物をかかえ、徒歩三分の距離を歩いた。こんなところを同級生に見られたら、なんて言われるんだろう。

 洗練された佇まいのマンションに入ると、先生は苦心してカードキーを取り出し、住民用のエントランスを開け、入るように促す。エレベーターに乗り、四階で降りる。先生が先導して通路を歩き、カードキーでドアを開けた。ようやくこれでお役御免だ。

「高鳥先生、今日は本当にすみませんでした。ではこれで失礼します。」
「ううん、ここまで手伝ってもらって助かった・・・それから、みなみ先生でいいわよ。」
「はい、・・・みなみ先生。では、さようなら。」

「ちょっと待って、せっかく食材買ってきたんだから、夕ご飯ごちそうするわ、それともお家でも支度しちゃってるかしら。」
「え! いや、そんな悪いです。」
「ほんのお礼。ちょっとだけ寄っていって。」

 お言葉に甘えて、先生の家に入り、きれいに整理された居間に通された。
 ちょっと待っててねと言って先生はすぐに料理にとりかかる。僕は家族のLINEグループで、今日は友達とファミレスに寄るから夕ご飯は要らないとメッセージを送った。

 みなみ先生はあっという間にオムライスとオニオンスープをつくり、テーブルの上に二組乗せた。僕と先生は向かい合って座り、夕食をいただく。オムライスはデミグラスソースがかかっていて美味しい。
「ああ、これはレトルトのハヤシライス使ってるんだけどね。一人分だと多いから、ちょうどよかったわ。」

 みなみ先生の手料理を美味しくいただき、コーヒーも出してもらった。先生からいろいろと話を振ってもらって何とか会話を成立させているが、それが途切れてしまうのが気まずい。

「みなみ先生は、あの、お一人なんですか?」
「それは、どういう意味かな?」
「あ、いや、なんかすみません、聞き方間違えました。」
 先生は意地悪っぽく微笑む。
「実家は仙台だから、家族とは離れて暮らしてるわ。あとこの通り、独身。これでいいかしら?」

 その後、もう少しだけ会話をして、先生の部屋を出た。
 そしてエレベーターで珠美に遭遇したのだ。


 GWが終わり、季節は夏に近づいている。でもその前にうっとおしいものが二つある。中間テストと梅雨だ。さすがに進学校だけあって、みんな勉強ができるし、授業は難しいし、うかうかしていると、あっという間に置いていかれる。
 その後、みなみ先生は週一くらいでご飯に誘ってくれた。主に土曜の昼。流石に外食は気が引けるので、専ら、先生部屋で先生の手料理をいただくことになる。
 少しずつ、僕と先生は、お互いの気持ちを意思表示するようになっていた。
 でも、僕には大きな疑問が心の中に浮かんだままだ。
 ある日の土曜ランチ会の後、そのことを思い切って単刀直入に先生に聞いてみた。

「そもそも、みなみ先生はどうして僕のことを好きになってくれたんですか?」
 中学生の時、僕はいわゆる陰キャで、友達もいなくて、男子からも女子からも敬遠されていた。先生は唐突な質問に驚いていたが、少し考え、話し始めた。

「そうね、昔、実家で飼っていた雑種の小型犬がいたんだけどね。夜、一匹で寝るのがいやなのか、すごく寂しそうで情けない顔をして、耳を垂らして、くぅん、くぅんて鳴くの。だからクーって名前をつけたんだけどね。その時の表情がソースケ君にそっくりでね・・・もう死んじゃったけどね。」
「そ、それで僕のことを気に入ったんですか⁉」
 どうせロクな理由ではないだろうと思ってはいたが、正直ショックだった。

「ウフフ、半分本当で、半分冗談。でも、何でそんなこと聞くの?」
「・・・先生も知っている通り、中学の時から暗い性格で、同級生からも相手にされてなかったし。」

「そんなことないわよ。」
 僕が中学時代の自分のことを話すと、先生はいつも否定する。
「男子はともかく、女子の間では、わりと評判よかったよ。」
「そんなはずは・・・」
「そうやって自分を落とすところが、ソースケ君の悪い所。」
 先生は少しほっぺたを膨らます。
「ソースケ君、普段は無口だけど、勉強でわからないところを丁寧に教えてくれたり、女子が重い体育器具を片づけていると、さりげなく手伝ってくれたり。私も中学校にいた時、そういう場面を実際に見てたから、よく知ってるよ。だから、こうして君といっしょにいたいの。」

 先生は、誰とでも生徒に明るく接し、クラスのムードメーカーのような存在だけど、こうやって二人で会っていると、時々寂しそうな表情を見せる。大人の女の人だから、今まで色々あったのかもしれないけど、少しでも寂しさが和らげられれば、とガキのくせに生意気に思う。


 梅雨に入り、やや強めの雨が降る放課後。
 図書室にいた僕はLINEで、みなみ先生に呼ばれた。教室に来て欲しいと。

 電気のついていない薄暗い教室の真ん中に、先生はひとり佇んでいた。顔色や表情は伺えない。

 ぼくに気がついた先生は、ゆっくりと視線を黒板に移した。
 僕はそれを眼で追う。
 黒板に何か描かれている。

  /| 高鳥みなみ
 ーーーーーーーーー
  \| 武田 壮介

 僕は、暗がりの中の先生の表情を読み取ろうとした。

「ひどいよね。まさか、ソースケ君が自分で書くわけないよね・・・あの時みたいに。」
「も、もちろんです。」
 僕は、あわてて黒板消しを手にとり、ゴシゴシと強く消した。
 高校生にもなって、しかも進学校だというのに、こんなガキっぽいことする奴いるのか?
 まさか、珠美? ・・・いや、彼女はこういうことはしない。

「ねえ、ソースケ君、やっぱりやめた方がいいよね・・・今までのこと、無かったことにしよう。」
 みなみ先生はそうつぶやいて、教壇にもたれかかり、俯いた。

「先生、それ、僕は約束できません。このまま、先生とのことを無かったことになんてしたくありません。」
「別に私はどうなってもいいの。でも、みんなに知られたら、きっとソースケ君が傷つくわ。」
「このまま先生が離れていってしまう方が、ずっと傷つきます。僕たちのこと、みんなに知られたって、何ひとつやましいことなんかしていません。」
「確かにそうなんだけど、生徒と先生ってだけで、厳しい目で見られるのはわかっているでしょう。」

 すごく悔しく苛立たしかった。なんの悔しさなのか、誰に向けての苛立ちなのかもわからず、僕は、それを先生に向けてしまった。

「そんなこと、今さら言われたって・・・こんなことなら、みなみ先生を好きになるんじゃなかった・・・なんであの時、僕のことをを認めてくれたんですか?・・・ そんなこと、しなくてもよかったのに!」

 遂に言ってしまった。先生が一番悲しむ言葉を。取り返しのつかない一言を。

 みなみ先生は放心し、感情を失ってしまったような表情で窓の外を見ながらつぶやいた。
「そうよね・・・ごめんね。だから・・・今までのこと、ぜんぶ忘れちゃうのがお互い、一番いいよね。」
「先生、ごめん。僕、ひどいこと言った・・・・・・いやだ、そんなこと言わないで。」

「ソースケ君、ほんと、ゴメン。さようなら。」
 みなみ先生は、僕をギュッとハグすると、もう一度サヨナラと言って、足早に教室から立ち去った。 

 誰もいなくなった教室。
 僕が消した相合傘。

 目を閉じる。
 僕たちの恋が始まった時のことを昨日のことのように思い出す。

★ ★ ★

 卒業式を終え、この生徒玄関から出入りするのも今日までだ。

 結局。
 中学三年間ずっと、僕は陰キャとして過ごしてきた。
 クラスでは、男女のグループが愉しく話していたり、カップルが誕生して冷やかされるのを指をくわえて見ていた。
 学び舎に向かい、拳を握り、誓う。ここでの黒歴史は闇に葬り去り、絶対、高校では華々しくデビューしてやる。

 そう決心した、まさにその時。
「武田君、ちょっといい?」
 僕を呼び止めたのは、担任の、みなみ先生だ。

 そのまま教室まで連れ戻される。
 もう、そこには、誰もいない。
 そして二人。教壇に立ち、向かい合う。

「武田君、ずっと言いたかったけど・・・言えなかったことがあるの。」

 ま、まさか?

卒業式の前、先生方の離任式があった。
みなみ先生も、この春、中学を去る。

愛の告白か?
・・・禁断の愛。

みなみ先生は、黒板を指差す。
「このことなんだけど。」

黒板には、

         ★\♢/★
      ∴∥∴ ─♢祝♢─
     ∴\∨/∴☆/♢\☆
 *│* =>祝卒業<= ☆│☆
*\※/*∵/∧\∵
─※祝※─ ∵∥∵ ♥♡♥
*/※\* ・
 *│* 
。★*゚゚*★∵★*゚゚*★。
☆゚   ☆    ゚☆
☆。 ずっ友♥  。☆゚
 *★。♡  ♡。★*
    '*★。★*'

など、クラスメイトによるたくさんのメッセージが、チョークでカラフルに描かれている。

先生が指差したのは、その中のひとつの、小さな書き込み。

あ、ヤバ。

  /| 高島みなみ
♥←ーーーーーーーー
  \| 武田 壮介

相合い傘に挟まれ、僕たち二人の名前が、書いてある。どさくさに紛れて僕が書いたものだ。

「これ書いたの、武田君でしょう?」
「は、はい。すみません。」
・・・ムチャ怒ってる。

みなみ先生は黒板消しを手に取り、僕に渡す。

「さあ、今すぐ!」
「はい、すぐ消します!」

「そうじゃなくって!」
「え?」

「前にも言ったけど、私の苗字は、高島じゃなくて、『高鳥(たかとり)』よ!」
「す、すみません!」

「・・・今すぐ、書き直して。」
「ええっ!」

先生の頬が、いくぶん赤い。
僕は言われるがままに書き直した。

それを見届けた高鳥みなみ先生は、サヨナラと言って、足早に教室から立ち去った。

そして、その春の高校の入学式。
一年B組。僕のクラスの担任が紹介された。

壇上に立ったのは、みなみ先生だった。

先生は僕にチラッと視線を合わせ、微笑んだ。

★ ★ ★

 映画のワンシーンのように、この時の映像がボクの記憶の大事なところに保存されている。幾分、画像は粗くてぼやけているが、ずっと消えることはない。

 陳腐なシナリオだ。僕以外、誰も共感してくれない、三流ストーリー。
 多分みなみ先生は忘れてしまうだろう。いや、もう先生のメモリーから削除されているかも知れない。

 僕は動けずに教室の自分の席にいた。
 長い時間、頭の中で思い出の映像を何度もリフレインさせて、座りこんでいた。

 LINEのメッセ―ジが入った時のリズムでスマホが震える。
 ぼくは少し期待して発信元を見た。

 珠美からだ。
 『ちょっとマンションに来てくんない? エントランスまで。』

 校舎の外に出ると、遠雷が聞こえる。

 傘をさすのがうっとおしい。そのまま雨に打たれながら走る。

 マンションの入口が見えると、エントランスで珠美が手をあげた。

「帰ってきたらさ、みなみ先生と一緒になって。なんかずぶ濡れだったし、リアクションおかしかったし、心配になって、そっと四階に降りて様子見に行ったの。」

 珠美はカードキーでドアを開け、エレベーターに僕を乗せ四階のボタンを押した。
「珠美は乗らないのか?」
「うん、ソースケ君が行ってあげな。・・・アタシはね。二人のこと好きだし、応援してるから。もし変なこと言う奴がいても、ぶっ飛ばして、アタシが守ってあげるから。」
 なぜか、珠美の瞳から涙がこぼれ落ちている。

「ありがとう。珠美」

 エレベーターを降りると、通路の先、ドアの前で、その部屋の主が膝をかかえてうずくまっていた。白いブラウスも黒いタイトスカートも、バッグも、そして長い栗色の髪も、びしょ濡れのまま。座ってる先生の周りは水たまりができている。

「みなみ先生。」

 先生はゆっくり顔をあげ、こちらを向く。無表情だ。
「ソースケ君、あなたはここに来ちゃだめ。」

 僕は強引に先生の両腕をつかみ、引き起こす。
「ちょっ、ちょっと!」

「先生。そんな寂しそうで、情けない顔をしていたら、天国のクーに笑われますよ。」
 先生は、少し顔の赤みを取り戻し、僕の顔を両手ではさんだ。
「いいえ、今のあなたの顔の方が、クーにそっくりよ。」

 ずぶ濡れのバッグからカードキーを取り出し、みなみ先生はドアを開ける。
「なんであなたまで、ずぶ濡れなの? タオル貸すから、おいで。」

 遥か彼方。空が微かに光り、遠雷が鳴った。
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