左腕に咲いた 紫陽花に

文字数 1,816文字

 あたいはもう、普通の恋愛はできない。

 以前つきあっていた男が、ちょっとした勘違いで私の浮気を疑い、かんかんに怒って私の体に入れ墨を彫らせた。
 左肩から二の腕、そして手首近くまで、びっしりと紫陽花が彫られている。腕に咲いた紫陽花は薄桃色で、自分では直接見えない肩の大輪は、薄紫だ。

 三回目の施術が終わり、彫り師が帰った後。
 紫陽花の花言葉を『移り気、浮気』だと男は吐き捨てるように言った。

 普段、その和堀りを隠すために真夏でも長袖のシャツを着ている。
 恋愛はおろか、温泉に行くことも銭湯に行くことも、プールに行くこともできない。

 つきあっていた男は、いわゆるその筋の人間で、幹部一歩手前まで出世したが、チンピラの喧嘩に巻き込まれ、命を落とした。
 今は自由の身だが、この華やかな色彩が、あたいを地獄に縛り続けている。

 男が遺した金で軽トラックを買い、運送の仕事を始めた。作業服をちゃんと着ていれば、入れ墨のことはあまり気にせずに仕事ができる。

「おはようございます! 今日もよろしくお願いします。」
 あたいが荷を積む配送センターの担当者は、いつも明るく声をかけてくれる。帽子のつばで顔を隠し気味にしながら、小声でその挨拶に応える。

 その男性とコンビニでばったりと出会った。陳列棚からバナナロールを取ろうとして、あたいの手を彼の手がぶつかった。

 反射的に手を引っ込めた。
「すみません、痛かったですか?」

 彼が心配そうにあたいの左手を見る。半身になってそれを隠す。
「いえ、違うんです。全然大丈夫です。」
 バナナロールは、譲ってもらった。

 彼とは家が近いらしく、その後もコンビニで度々出くわした。
 常に、にこやかで飾らず、今まであたいの周りにいないタイプの男性だったので、だんだん打ち解けてきて、コンビニの駐車場脇で緑茶とバナナロールをいただきながら、世間話をするようになった。

「僕とつきあってくれませんか?」
 ある日、二人でコンビニの駐車場から出ようとしたとき。彼はいつになく真剣な表情でそう言った。

 こうなってはいけなかったのだ。
「ごめん。それはできない。」

「・・・僕のこと、嫌いですか?」
「そんなことない。むしろ・・・」ここから先は言ってはいけない。

 早いほうがいい。それがお互いのためだ。
「あたいは、こんな人間なの。関わらない方がいいよ。」
 長袖Tシャツの左腕をまくってみせた。

 彼は呆然と見つめる。
 私は、無言でその場を立ち去った。

「おはようございます! 今日もよろしくお願いします。」
 翌朝、配送センターで軽トラを降りると、彼が笑顔を声をかけてくれた。いつもと変わらない。
 あたいは、コンビニに行く時間を以前より遅らせるようになった。

 あれから約二週間後。
 飲み物とバナナロールと翌日の朝食を買おうとコンビニに寄ったら、彼が自動ドアの横に立っていた。
 あたいは店に入ったが、彼はついてこなかった。私は買い物を淡々と済ませ、店を出た。

 彼はまだそこにいた。一メートルほど間をおいて、あたいと向き合った。
「僕は、あきらめきれません。」
 そう言って近寄って来る。

 こんなこと、したくなかった。でも、しないと分かってくれないだろう。私は、レジ袋を地面に置き、シャツを脱ぎ、タンクトップ姿になった。入れ墨が肩まで丸出しだ。

「ねえ、もうこれで勘弁して。」

 彼は信じられない行動に出た。
 すぐ側まで寄ると、ぐるりとあたいの体を半回転させ、腕を回した。

 そのまま彼は自分の左腕の袖をまくった。
「僕も彫ってみたんです。」

「!」

 何と、カタツムリのタトゥーが彫られている。
「そ、それ、タトゥーシールじゃないの?」
「違います。」

 あたいの左腕の紫陽花にカタツムリが載っている格好だ。

「ば、ばっかじゃないの? ・・・だいたいね。毒があるから、カタツムリは紫陽花は苦手だって聞いたことあるよ?」
「毒があってもいいんです。それにカタツムリだけじゃないです。」
 彼はそういうと左腕をくるりと回転させた。
 そこには、鮮やかな黄緑色のアマガエルのタトゥーが彫られていた。

 負けた。あんなコミカルなイラスト調のカタツムリとアマガエルのタトゥーなら、温泉でもプールでも入場させてくれそうだが、その努力と熱意は認めるしかあるまい。
 あたいは自分の右手を彼の左腕に置く。

 いつしか降ってきた雨の中。
 コンビニのネオンサインに照らされ、紫陽花もカエルも淡い光彩を放っていた。
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