第33話

文字数 3,590文字

 冷たい水をぶちまけられてキリアスは目覚めた。飛び上がるように身を起こすと、一つ目の女が桶を抱えて立っていた。ふたたび水を頭から浴びせられる。

「オキロ。ニンゲン」
「起きてるだろうがッ」

 一つ目は桶を放り出し、嬉しそうに飛び跳ねた。とても付いて行かれないテンションだ。

「オキタ! オキタ! メガミサマ、オトコ、オキマシタヨ。イイオトコー!」

「……確かに水は滴っているが、まだほんのコドモではないか」

 物憂げな声にぎょっとして振り向くと、階の上に玉座のような立派な椅子があり、女がひとり退屈そうに肘をついて凭れかかっていた。

 凄まじいほどの美人だ。美しいだけでなく、何とも言い難い凄味がある。黒い瞳に金色の瞳孔。それも、縦に長くて猫──いや、蛇のようだ。呑まれそうになるのをかろうじて首を振って正気を保つ。

「俺は十八だ。子どもじゃない」
「人類なんぞ、妾にすれば皆コドモだ。永遠にな」

 つまらなそうに鼻を鳴らし、美女は目を細めた。

「……ま、それを持てたからには、多少は見どころがあるらしいが」

 ふと気付けば右手に剣を掴んだままだ。キリアスは茫然と剣を眺めた。

「これが……、〈始祖の剣〉なのか……?」
「おめでとう、少年。よくもまぁ好き好んで重い荷物を背負ったものだ。せいぜい頑張ってくれたまへ」

 女神は足を組み換え、玉座に座り直した。キリアスは凄艶なる女神を疑惑の目で眺めた。

「もらっていいのか?」
「剣が拒否権を発動しないなら、そなたの所有物になることを承諾したのであろう。持っていくがよい」
「……そりゃどーも」

 拍子抜けしつつ、立ち上がった。全身ずぶ濡れで髪からも服からも雫がボタボタ滴っているが、それは不問に付すことにする。

 見回せばキリアスがいるのは四方が吹き抜けになった大広間のような場所だった。屋根を支える列柱の間から青空が覗いている。何だかわからないがとにかく剣を貰ったのだから退散しようと適当に柱の間を抜けて、絶句した。

 柱の外側は一段下がった通路のようになっているのだが、その外側には何もなかった。文字どおり、何もない虚空である。覗き込めば蒼い空が延々と続いていて、空を見上げているような錯覚に陥る。キリアスは慌てて広間に引き返した。

「なっ、何なんだここは!?

「『ここは何』とは面白い言い方だな、少年。言いたいことはわかるが。ここは妾の住まいだ。そなたはミルアが持ってきた貢ぎ物、オミヤゲだ」

 土産。そういえば一つ目女は盛んに『ミヤゲ、ミヤゲ』と騒いでいた。ミルアというのがこの化け物の名前らしい。

「メガミサマ、オミヤゲキニイッタ? モットミズカケヨウカ?」
「よい。これ以上水をかけても見目麗しくはならぬ」

「元の場所に戻してくれ!」
「ではその剣を置いて行け。剣を持って行きたければ自力で帰ることだ」

 美女は平然と顎で外を示す。

「飛び下りろってのか」
「死ぬのがいやなら剣を置いて行くのだな。命か剣か、どちらかくれてやるから選べ」

「俺には両方必要だ」

 女神は冷ややかに笑った。

「そなたの都合など誰も訊いてはおらぬ」

 ぐっと剣を掴み、キリアスは女神を睨み付けた。ふ、と女神が紅唇を吊り上げる。

「なかなかよき面構えだな。よし。そなたの将来性を見込んで、ひとつ遊んでやろう。妾の退屈しのぎになれば、剣を持たせたうえで地上まで送ってやる。どうだ?」

「遊ぶって何すんだ?」
「簡単な遊戯さ。妾を(たお)してみるがよい」

 優雅な仕種で立ち上がった女神の美貌が凄まじさを増す。瞳が金色に輝き、息を呑む間にもその姿が変わって竜が出現した。

 キリアスは馬鹿みたいにぽかんと口を開けて見上げていた。これほどまでに美しいものを見たことがなかった。これほどまでに恐ろしいもの、力強いもの、神々しいもの、圧倒的なものを見たことがなかった。

 オパールのようなきらめきを発する鱗が全身を覆っている。青く透ける長大な翼。いつのまにか天井は消え、雲ひとつない蒼穹に囲まれていた。

 すんなりと長い首を優雅に伸ばし、竜の女神は微笑んだ。それは慈愛と残酷さのありえない混在だった。

「自由にその剣を使うがよい。妾の身体に引っかき傷でもひとつつけられたらそなたの勝ちだ」

 頭の中に直接声が響く。その朗々たる響きは清冽で底知れぬ深みをおびていた。

 キリアスは剣の柄を握りしめた。腰も抜かさずこうして立っていられること自体、すでに奇跡のような気がした。少し前の自分だったら腑抜けたように見上げるだけで精一杯だったことだろう。少なくともナヴァドとのギリギリの攻防によってくそ度胸はついたらしい。単に生存本能が壊れただけかもしれないが。

「ふ……ん。だったら遠慮なく使わせてもらうぜ……っ!」

 キリアスは剣を背中に届くほど大きく振りかぶって走った。全身全霊の力を載せて叩き斬る。竜の前肢に剣が当たった刹那、撥ね飛ばされた。

 柱に叩きつけられ、一瞬息が詰まった。床に崩れ落ちたキリアスは剣を突き立てて立ち上がった。竜は平然として剣の当たった前肢を示した。頭の中に涼やかな声が響いた。

「傷はついておらぬぞ?」

 竜が憫笑する。力の差はあまりにも歴然としていた。ナヴァドと闘った時の比ではない。

(そりゃそうか。何たって神様だもんな……)

 太陽の如く輝く瞳で、竜はキリアスを見つめた。本能的に目を逸らした。直視したら目が潰れる。どんなに勇猛であろうと、神の目を凝視できる者などいない。

「……狡いぞ。俺は単なる人間なんだ、ハンデくらいくれたっていいだろ」
「確かに」

 竜は荘厳な笑い声を上げ、ふたたび人の姿になった。美しい女神は面白そうにキリアスを眺めた。

「若い割になかなか肝が据わっているではないか。ミルアが地上から持ってくる土産は、いつも大したことなくて、がっかりさせられることが多いのだが」

「サイキンイイオトコスクナイデスヨ、メガミサマ!」

 一つ目女がむくれた様子で叫ぶ。女神はさもあろうと頷いた。

「ファイの男がろくでなし揃いになってしまっては、まぁ当然だな」

「ファイの男? ──ああ、皇家のことか」
「初代は大変にいい男だったのに、世代が下るにつれて質が落ちた。やむを得ぬことだが」

「皇家の男は滅んだよ。残ってるのは姫がひとりだ」
「真のファイはとっくに滅んでいたさ。〈目覚め〉に触れられぬ者など〈竜の申し子〉たる資格はない」

「〈目覚め〉?」

「そなたの持っているその剣だ。人間は〈始祖の剣〉と呼ぶ。本来それは、持ち主を妾の代理者として目覚めさせるもの。皇帝などと奉られていても、要は妾の代官にすぎぬ。ところがファイの男どもはそれを忘れ、剣に拒否されるようになった。〈目覚め〉は持ち主を選ぶのでな。そのように、妾が造った」

「つまりは皇帝──というかあんたの代官として相応しいかどうかの判定装置か」

「そのようなものだ。ファイの男は失格続き。それでも〈目覚め〉は百年近く辛抱した。ついに見切りをつけて出奔したというわけだ」

 女神は傲然と魅惑的に微笑んだ。

「とりあえず〈目覚め〉はそなたを気に入ったらしい。おまえがファイの男ならそれで判定は終わりだが、新たな系譜を始めるにあたってはそうもいかぬ。妾が自らとくと判定してやらねば」

 女神は腕を組んで軽く顎を上げた。

「剣の切っ先がわずかでも妾の身体に触れたらおまえの勝ちにしてやる。髪の毛の先だけでもよいぞ。妾は武器を使わぬ。手も使わぬ。どうだ、文句のないハンデであろう?」

「ものすごくナメられてるということが、よーくわかったよ!」

 キリアスは女神に飛びかかりざま、剣を振るった。フンと鼻であしらわれ、軽く躱されてしまう。続く連撃を女神は紙一重の差で躱し続けた。わざとそうしているのは見え見えだ。女神は確かに『遊んで』いた。

 あと半歩のところで届かない。もどかしさに歯噛みする。完全に間合いに入っているにも拘らず、どういうわけか躱されてしまう。まるで幻影を相手にしているかのようだ。

「──おい! あんた実体あるんだろうな!?

 怒鳴ると答えの代わりに蹴りが飛んできた。凄まじい衝撃に目から火花が散る。

「くだらないことを訊くな」

 よろけて床に剣を突きたてると、女神は柳眉を逆立てた。斧でも打ち込まれたような衝撃で息が詰まる。剣にすがって立つキリアスを、女神は小馬鹿にした顔で眺めた。

「念のため言っておくが、これでも相当加減してやっているのだぞ? そなたが死ぬるとようやく主を定めた〈目覚め〉が気の毒だからな」
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登場人物紹介

キリアス

・18歳

・ヴァストの第3王子

・武術においては天才なのに自覚なし・執着なし

・極楽トンボ

・口癖「面倒くさい」「どうでもいい」(なげやりではなく、こだわりがなさすぎ)

・家族が殺されてから性格激変する

・黒髪

・黒瞳


アーシファ

・17歳

・皇家最後の姫

・活発、おてんば、じゃじゃ馬

・弓が得意

・キリアスに淡い想いを抱いているが、野心やこだわりのなさに失望を感じている。

・燃えるような赤い髪

・翠の瞳


【幼時の設定】

アーシファは五歳から十三歳までの八年間、ヴァストの王城で暮らした。アーシファ出生時、父は数多いる王子のひとりにすぎなかった。アーシファの祖父は漁色家で、正妻をふたり持ったうえ数えきれないほどの側妃がいた。


父は祖父が気まぐれで手をつけた女官が側妃となって産んだ子で、ほとんど忘れられた存在だった。学究肌の物静かな人物で、平和な世の中であったなら案外名君となったかもしれない。


だが皇家はすでに神竜の加護を失っていた。己の権勢欲を満たすためだけに皇族同士相争い、宮城は陰謀と策略の伏魔殿と化した。そんな中、思いがけず父に帝位が回ってきたのだ。


父は祖父と違ってアーシファの母だけを愛し、慈しんでいた。一介の王子であった時はそれでよかったが、皇帝となればそうもいかない。文官や武官たち宮廷貴族から女を押しつけられ、拒否すれば母が危うくなる。拒否しなくても有力な後ろ楯のない母は正妃といっても甚だ不安定な立場だ。いつ暗殺されてもおかしくない。


そこで妻と娘をヴァスト王アルフレートの下に避難させることにした。当時アルフレートは戦死した父王の後を継いで王になったばかりだったが、少年の頃、宮城に出仕していて父と固い友情を結んだのである。


母娘は侍女をひとり伴ってヴァストに逃れた。この侍女は母より身分の高い武官の娘だったが大変人柄がよく、忠義に母に仕えた。この侍女をアルフレートが見初めて妻とした。


そういうこともあってヴァストでアーシファはのびのびと暮らすことができた。アルフレートの末弟で一つ年長のキリアスが遊び相手を仰せつかり、アーシファは十三歳になるまで自由闊達に育った。


その間、父はおおかたの予想に反してしたたかに生き延び、地歩を固めた。そして妻と娘を呼び戻したのだが、幸せも束の間、半年と経たぬうちに夫妻はともに毒殺されてしまう。犯人も毒を投入した手口も、未だに不明。


残されたアーシファは後宮の一角に閉じ込められた。後を継いだ皇帝はライバルを葬りつつ三年間帝位を保持し、ついに彼を脅かす存在は地上からすべて抹消された。


しかし安堵の矢先、彼は暑い日に冷水を一気飲みしたのが祟って呆気なく死んでしまった。待ち構えていたかのように乗り込んできたシャルの王軍によって帝都はさしたる抵抗もできないまま屈した。気がつけばアーシファは最後にただひとり生き残った皇族の姫になっていたのである。

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