第29話

文字数 3,629文字

 ギーゼラの亡骸は神殿の敷地内にある墓地に葬られた。死餓鬼が乳香の香りを嫌うこと、オリバナにも同じような効能があることを伝え、種を渡した。

 一時期よりは数を減らしたものの、今でも死餓鬼はそこらじゅうを徘徊している。退治しても新たな犠牲者がどこかで必ず出て、一定の数より減らないのだ。農村は荒れ果て、都市は難民の流入を警戒して門を閉ざしがちになる。

 いざという時逃げ込める安全な場所といえば堅固な城壁を持つ都市や領主の城、香を嫌って入れない神殿に限られるため、それらの周りには次第に難民村が形成されていった。避難民たちはそこらを勝手に掘り返して畑を作ったり家畜を飼ったりし始める。人が集まれば市が立ち、飲み屋ができる。掏摸や泥棒、娼婦が集まってくる。治安は悪化する一方で、取り締まる者はいない。まったくの無法地帯だ。

 キリアスは世界の惨状を改めて目の当たりにして茫然となった。復讐の一念に取り憑かれた頃にはただ目についた死餓鬼を片端から始末するだけで、それ以外のものは何も見えていなかった。皮肉なことに、ナヴァド・ラガルに大敗して殺されかけたことで、頭から冷たい水をぶちまけられたように目が覚めたのだ。ふと見回せば、世界はあまりにも悲惨だった。

「いったいナヴァドは何を考えてるんでしょうね」

 ナイトハルトが溜息混じりに呟いた。

「こんな世の中にして、どう後始末をつけるつもりなんだか。フォリーシュ王を帝位に就けることを請け負ったのだとしても、ずいぶん後先考えないやり方だとは思いませんか」

「少なくともフォリーシュ軍に損害はほとんど出ていない。逆に他国は総大将たる国王たちが血族もろとも滅び、求心力を失ってしまった。統率が取れた軍隊はフォリーシュ軍だけだ。ナヴァドは目的を達した。まさしく手段を選ばずにな」

「しかし彼は宝珠を全部集められなかった。三つはこちらにありますからね」

「承知の上だよ、きっと。いずれ俺がふたたび目の前に現れると奴はわかってるんだ。それまで俺に預けておくつもりなんだろう。まったく頭にくる」

 厭な野郎だとキリアスは心の内で毒づいた。今は反対方向を向いていようと、いずれまた必ず出会う。出会わずには済まされないことを、あの時互いに思い知らされた。

「不倶戴天の宿敵って奴ですか」

 かすかに苦笑をにじませてナイトハルトが呟く。キリアスは憮然と唇をゆがめた。

「〈始祖の剣〉を手に入れて奴をぶっ倒す。神剣に頼りたくなんかないが、奴の〈さかしま〉に対抗できる武器がそれだけなら仕方がない。──行くぞ」
「御意」

 こぼれる笑みを押し殺し、ナイトハルトは恭しく頭を下げた。

 イシュカの神殿にも何人かの兵を預け、キリアスたちは出発した。隣国のダロムに入り、進みながら各神殿に少しずつ兵を配置していった。ダロムの状況も似たようなもので、無政府状態と化している。イシュカの神官長が書いてくれた紹介状のおかげで、ダロムの神殿に兵を預けるにあたって苦労せずに済んだ。

 ジャリードから連れてきた兵たちのほとんどを各神殿に置き、残ったのは騎兵のみで三十人。数は少ないが、いずれも腕に覚えのある強者揃いだ。最も人数が多いのはヴァスト人だが、それでも三分の一ほど。ジャリードからダロムまで、すべての国出身の兵がいた。ナイトハルトが故意にそのように編成したのである。

 キリアスがヴァストの王子であることを必要以上に意識させないよう、ナイトハルトは気を配った。彼が目指すのは──目指してほしいとナイトハルトが願っているのは──すでにヴァストの王位ではない。彼は素直に認めないだろうが、八つの王座の上にあるもの──八葉州の帝位だ。事実、この時の三十人はのちにキリアス軍の指揮官として大いに活躍することになる。

 〈始祖の剣〉があるという廃墟にたどり着くまでの道程は容易ではなかった。大地震で地形が変わり、寸断された街道は放置されたまま別の場所に新たな街道が造られた。近在の住民はすべてよその土地に移っていた。道案内のためにダロムの神殿がつけてくれた騎士によれば、地震で山崩れがあり、塞き止められた川の水が溢れて大規模な土石流が発生したという。今ではこの地方はほとんど無人地帯となっているそうだ。

 野宿しながら道なき道を進み、山を越え、大きな石の転がる川を渡ってようやく目指す廃墟についた。かつてはかなり大きな神殿だったが、地震で大きく崩れて今では見るかげもない。すでに日が暮れかけていたので、探索は明日にして早々に夜営の準備をした。

 ランタンの灯の元でナイトハルトが図面を広げる。

「剣を発見した者に描かせたものです。ここが入り口、剣があったのはこっちの奥。かなり崩れている箇所です。元々地震で崩れていたところに剣が降ってきて、さらに壊れたようですね」

「光り輝く星が降ってきたという、農夫の目撃証言があります」

 ダロムの神殿騎士が生真面目な顔で言い添えた。「まさかそれが〈始祖の剣〉とは」

「皇家は〈始祖の剣〉が消えたことを長い間伏せていましたからね。模造品を飾って誤魔化していた」

 それが暴かれた時、皇家の権威は失墜した。その頃神殿の多くは領主化しており、表立って皇帝不支持を表明することはなかったものの、あからさまに皇家を軽んじ始めたのである。それが諸王の覇権争いに拍車をかけた。

 王たちが新たな皇帝として立つことを目指していることがわかっていても、皇家にはもはやなすすべはなかった。お飾りとして留め置かれた帝都ラァルで醜く虚しい内輪揉めを続けた挙げ句、皇女アーシファひとりを残して全滅した。

「……もし、アーシファの父上が〈始祖の剣〉を取り戻していたら、皇家は滅びることなく混乱を収められたんだろうか」

 キリアスの呟きにナイトハルトは眉根を寄せた。

「さぁどうでしょうね。あの方は我々が見つけ出す前に亡くなってしまわれましたから。あの方が人格的に優れた人物だったとしても、神剣は自ら皇家に別れを告げたわけですし、戻ってきたかどうか……。言い伝えによれば〈始祖の剣〉は持ち主だけにしか触れられなかったそうです。ここで剣を見つけた者も、持って帰ろうとして危うく死にかけたとか。それで本物だと確信したわけですが」

「──死にかけた?」

「何でも床に突き刺さっているのを抜こうとしたら、雷に打たれたような衝撃を感じて気絶したそうです。丸一昼夜経ってようやく意識を取り戻して、恐ろしくなって逃げ帰ってきたと言っていました」

 キリアスは絶句した。その場に居合わせた全員が無言で彼を見る。

「もし俺が気絶したら……?」
「資格なし、と撥ねつけられたことになっちゃいますね。ま、頑張ってください」

「何をどう頑張りゃいいんだ!?
「ビリビリ来て気絶しても放さなきゃいいんじゃないんですか?」

「そのまま死んだらどうすんだッ」
「残念ながら私の見込み違いだったということになりますねぇ。がっかりさせないでくださいよ? 最後に残した三十名の騎士たちがあなたに期待してるのはヴァスト王位ではなく八葉州の帝位です」

 ナイトハルトが横目で見ると、騎士たちは揃って大きく頷いた。キリアスは頭を抱えたくなった。いつのまにそうなったのか、唖然としてしまう。確かに〈始祖の剣〉を手に入れようと決意はしたが、皇帝になろうとかなりたいとか考えたことは一度もない。

 だがそういうことなのだ。〈始祖の剣〉を手に入れるということは、すなわち八葉州全土を背負って立つということ。この世界を統治する責任を負うことになる。単なる復讐者ではいられないし、そうであったなら神器を手に入れることなどできない。

 キリアスは嘆息し、頭を掻いた。

「……ま、やってみるよ。どうせ逃げ道はない。生きるか死ぬかだ」

 ナイトハルトはにっこりした。

「そう、単純なことです」
「簡単じゃないけどな」
「私は信じていますよ」

 珍しく皮肉のない真剣なまなざしでナイトハルトはキリアスを見つめた。淀みのない口調で彼は繰り返した。

「私は、あなたを信じています」
「……ああ」

 キリアスは頷いた。自信はない。だが、決意は確固としていた。何があろうと必ず〈始祖の剣〉を手に入れる。どんな犠牲を払っても、必ず。



 その夜更け、キリアスはふと目を覚ました。起き上がってみると、焚き火の側で交替で不寝番を務めていたはずの騎士たちが全員眠り込んでいる。傍らで休んでいるナイトハルトを揺すっても起きない。ぱちぱちと火の爆ぜる音だけが闇に響いている。

 キリアスは剣を掴んで歩きだした。天井が崩れて月明かりが射している。見上げれば夜空に真円の月が浮かんでいた。ふと、水音が聞こえた気がして中庭へ足を向けた。
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登場人物紹介

キリアス

・18歳

・ヴァストの第3王子

・武術においては天才なのに自覚なし・執着なし

・極楽トンボ

・口癖「面倒くさい」「どうでもいい」(なげやりではなく、こだわりがなさすぎ)

・家族が殺されてから性格激変する

・黒髪

・黒瞳


アーシファ

・17歳

・皇家最後の姫

・活発、おてんば、じゃじゃ馬

・弓が得意

・キリアスに淡い想いを抱いているが、野心やこだわりのなさに失望を感じている。

・燃えるような赤い髪

・翠の瞳


【幼時の設定】

アーシファは五歳から十三歳までの八年間、ヴァストの王城で暮らした。アーシファ出生時、父は数多いる王子のひとりにすぎなかった。アーシファの祖父は漁色家で、正妻をふたり持ったうえ数えきれないほどの側妃がいた。


父は祖父が気まぐれで手をつけた女官が側妃となって産んだ子で、ほとんど忘れられた存在だった。学究肌の物静かな人物で、平和な世の中であったなら案外名君となったかもしれない。


だが皇家はすでに神竜の加護を失っていた。己の権勢欲を満たすためだけに皇族同士相争い、宮城は陰謀と策略の伏魔殿と化した。そんな中、思いがけず父に帝位が回ってきたのだ。


父は祖父と違ってアーシファの母だけを愛し、慈しんでいた。一介の王子であった時はそれでよかったが、皇帝となればそうもいかない。文官や武官たち宮廷貴族から女を押しつけられ、拒否すれば母が危うくなる。拒否しなくても有力な後ろ楯のない母は正妃といっても甚だ不安定な立場だ。いつ暗殺されてもおかしくない。


そこで妻と娘をヴァスト王アルフレートの下に避難させることにした。当時アルフレートは戦死した父王の後を継いで王になったばかりだったが、少年の頃、宮城に出仕していて父と固い友情を結んだのである。


母娘は侍女をひとり伴ってヴァストに逃れた。この侍女は母より身分の高い武官の娘だったが大変人柄がよく、忠義に母に仕えた。この侍女をアルフレートが見初めて妻とした。


そういうこともあってヴァストでアーシファはのびのびと暮らすことができた。アルフレートの末弟で一つ年長のキリアスが遊び相手を仰せつかり、アーシファは十三歳になるまで自由闊達に育った。


その間、父はおおかたの予想に反してしたたかに生き延び、地歩を固めた。そして妻と娘を呼び戻したのだが、幸せも束の間、半年と経たぬうちに夫妻はともに毒殺されてしまう。犯人も毒を投入した手口も、未だに不明。


残されたアーシファは後宮の一角に閉じ込められた。後を継いだ皇帝はライバルを葬りつつ三年間帝位を保持し、ついに彼を脅かす存在は地上からすべて抹消された。


しかし安堵の矢先、彼は暑い日に冷水を一気飲みしたのが祟って呆気なく死んでしまった。待ち構えていたかのように乗り込んできたシャルの王軍によって帝都はさしたる抵抗もできないまま屈した。気がつけばアーシファは最後にただひとり生き残った皇族の姫になっていたのである。

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