第22話

文字数 2,138文字

 リコリスは馬を止め、木立の間から覗く城を眺めた。足元には開けた谷。そこに城下町が広がっている。城があるのは反対側の高台だ。傍らでナヴァドが頷いた。

「移動続きで疲れただろう。今夜はしっかりした寝台でゆっくり眠れるぞ」

 促され、ふたたび馬を進める。粛々と進む軍列にも、故郷に戻ってきたという思いが自然とあふれている。傾き始めた午後のやわらかな陽射しが、フォリーシュの谷全体を包んでいた。

 リコリスという名前をナヴァドに貰ってから、もう一週間ほどになる。記憶を失った状態で拾われた旧ジャリード王国からシャルの旧領を抜け、フォリーシュの領内に入った。移動の間に自分を取り巻く人たちのことが少しずつわかってきた。

 彼らはフォリーシュの王軍だった。ナヴァドはその総司令官。ジャリード王国を攻略する目的で進軍してきたのだ。経緯はよくわからないがジャリードは滅び、その領土はフォリーシュに組み込まれたそうである。

 そのような説明をナヴァドにしてもらっても、今ひとつピンと来なかった。それぞれの国の名前も、聞き覚えはあるような気がするのだが、どうも曖昧だ。自分がジャリードの民なのかどうかもわからないし、ナヴァドの命を狙ったということも全然思い出せない。むしろ自分が人を殺そうとしたなんて、とても信じられない気分だ。

 相変わらず記憶は戻らないものの、今の状況にはだんだんと慣れてきた。自分がナヴァドの愛妾と見做されていることには、やっぱり戸惑ってしまうけれど。

(だって、そんなんじゃないんだし……)

 確かに同衾はしているが、それだけだ。ナヴァドは手出しするそぶりすら見せなかった。もしかしたら野良猫を拾ったくらいにしか思っていないのかもしれない。一緒に食事をして、同じ天幕で眠って、移動の時はすぐ側で連れ歩く。本当は捕虜──らしいのだが、それでは愛人と見做されるのも無理はない。

 少なくとも、彼に対してある種の信頼を持ち始めているのは確かだ。毎晩必ず悪夢を見てうなされる。そのせいで眠りを妨げられてもナヴァドは厭な顔ひとつせず、リコリスが落ち着くまで静かに背中をさすってくれた。

 最初は警戒と羞恥心から寝台の端ギリギリに寄って寝ていたが、うなされた時に何度か落ちて恥ずかしい思いをしたのに加え、だんだん彼を信頼するようになって距離は次第に縮まった。今ではうなされ始めるとすぐに抱き寄せられるくらいの位置だ。

 悪夢はいつも同じだった。美しい女性の生首が何かを告げようとしているのに、言葉が聞こえない。床一面に広がった赤い水たまり。こちらに背を向けて立っている誰か。白いマント。金色の髪。その人が振り向こうと横顔を向けた途端、いつも夢は破綻する。

 リコリスは、斜め前を行く馬上のナヴァドを眺めた。銀の甲冑。白いマント。ゆるい巻き毛の金髪──。よく似ている。夢の『誰か』は彼なのだろうか。

 手綱をぎゅっと握る。そうであってほしくなかった。今では別の意味で悪夢が怖い。

「……リコリス?」

 名を呼ばれてハッと顔を上げると、振り向いたナヴァドが眉をひそめていた。いつのまにか距離が開いていた。無意識に手綱を引いてしまったらしい。急いで馬を進めて隣に並んだ。

「疲れたか。もう少しの辛抱だ」
「ごめんなさい、大丈夫」

 笑ってみせるとナヴァドは穏やかに微笑んだ。いつのまにか、その静かな表情がとても好きになっていることに気付いて胸がズキンとした。



 フォリーシュ城に着いたリコリスは、留守居役の従僕に預けられた。片目の潰れた無口な老人で、杖をついている。老人はじろじろとリコリスを眺め回し、フンと鼻息をつくと『ついてこい』と言う代わりに顎をしゃくった。

 広々とした立派な部屋に置き去りにされて戸惑っていると、どやどやと女性陣がやってきて連れ出された。わけがわからないまま風呂に突っ込まれて磨き立てられ、上等なドレスを着せられた。

 女性たちはひっきりなしに喋っていたが、何を言っているのかほとんどわからなかった。言葉が通じないなら、少なくとも自分はフォリーシュの人間ではないはずだ、と考えてふと気付いた。自分が話しているのは何語なのだろう? そういえばナヴァドが老人に指示した時も言葉がわからなかった。彼は何語で自分に話しかけていたのだろう。

 家具調度は立派だが、生活感のない部屋でぽつねんと座って待っていると、ようやくナヴァドが戻ってきた。彼は感心したような顔でリコリスを眺めた。

「翠の服を着ると、まさしく曼珠沙華(リコリス)だな」

 有無を言わさず着せられたドレスをリコリスは見下ろした。ボリュームのある緋色の髪は女性たちが丁寧に鏝を当てて巻いてくれたおかげで、肩にふんわりとうまく乗っている。

 一緒に食事をしながら言葉について尋ねてみた。

「今喋っているのは公用語だよ。元々は帝都ラァルで使われている言葉だ。各国の王族や中級以上の貴族なら、大抵自国語同様に喋れる。あとは交易商人とか、学者とか。俺のような傭兵にも必須だな」

「ナヴァドはフォリーシュの将軍でしょ?」
「雇われ将軍さ。元は単なる傭兵隊長だ」
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登場人物紹介

キリアス

・18歳

・ヴァストの第3王子

・武術においては天才なのに自覚なし・執着なし

・極楽トンボ

・口癖「面倒くさい」「どうでもいい」(なげやりではなく、こだわりがなさすぎ)

・家族が殺されてから性格激変する

・黒髪

・黒瞳


アーシファ

・17歳

・皇家最後の姫

・活発、おてんば、じゃじゃ馬

・弓が得意

・キリアスに淡い想いを抱いているが、野心やこだわりのなさに失望を感じている。

・燃えるような赤い髪

・翠の瞳


【幼時の設定】

アーシファは五歳から十三歳までの八年間、ヴァストの王城で暮らした。アーシファ出生時、父は数多いる王子のひとりにすぎなかった。アーシファの祖父は漁色家で、正妻をふたり持ったうえ数えきれないほどの側妃がいた。


父は祖父が気まぐれで手をつけた女官が側妃となって産んだ子で、ほとんど忘れられた存在だった。学究肌の物静かな人物で、平和な世の中であったなら案外名君となったかもしれない。


だが皇家はすでに神竜の加護を失っていた。己の権勢欲を満たすためだけに皇族同士相争い、宮城は陰謀と策略の伏魔殿と化した。そんな中、思いがけず父に帝位が回ってきたのだ。


父は祖父と違ってアーシファの母だけを愛し、慈しんでいた。一介の王子であった時はそれでよかったが、皇帝となればそうもいかない。文官や武官たち宮廷貴族から女を押しつけられ、拒否すれば母が危うくなる。拒否しなくても有力な後ろ楯のない母は正妃といっても甚だ不安定な立場だ。いつ暗殺されてもおかしくない。


そこで妻と娘をヴァスト王アルフレートの下に避難させることにした。当時アルフレートは戦死した父王の後を継いで王になったばかりだったが、少年の頃、宮城に出仕していて父と固い友情を結んだのである。


母娘は侍女をひとり伴ってヴァストに逃れた。この侍女は母より身分の高い武官の娘だったが大変人柄がよく、忠義に母に仕えた。この侍女をアルフレートが見初めて妻とした。


そういうこともあってヴァストでアーシファはのびのびと暮らすことができた。アルフレートの末弟で一つ年長のキリアスが遊び相手を仰せつかり、アーシファは十三歳になるまで自由闊達に育った。


その間、父はおおかたの予想に反してしたたかに生き延び、地歩を固めた。そして妻と娘を呼び戻したのだが、幸せも束の間、半年と経たぬうちに夫妻はともに毒殺されてしまう。犯人も毒を投入した手口も、未だに不明。


残されたアーシファは後宮の一角に閉じ込められた。後を継いだ皇帝はライバルを葬りつつ三年間帝位を保持し、ついに彼を脅かす存在は地上からすべて抹消された。


しかし安堵の矢先、彼は暑い日に冷水を一気飲みしたのが祟って呆気なく死んでしまった。待ち構えていたかのように乗り込んできたシャルの王軍によって帝都はさしたる抵抗もできないまま屈した。気がつけばアーシファは最後にただひとり生き残った皇族の姫になっていたのである。

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