第40話

文字数 3,615文字

 騎士の問いをキリアスは言下に否定した。

「出ないさ。カドルーの話では、奴は六人の副官のうち四人を連れてきている。堤道での戦いの指揮はそいつらに任せて自分は連絡の取りやすい宮殿に残るはずだ。……いや、これが陽動だってことくらい、奴はとっくに気付いてるだろうな。おまえたち、宮殿の近衛兵と出くわしてもなるべく傷つけるなよ。今はフォリーシュ軍の指揮下に入っているが、本来近衛軍は敵じゃない」

「できるだけ防御に徹しますよ」

 ひとりが頷き、ひとりが気がかりそうに言う。

「カドルーはうまく抜け出せたでしょうか。傭兵部隊は最前線に投入されるものですが」

「あいつなら切り抜けられるさ。もし合流地点に来てなかったら自分でダリオンを探す。宮殿内部の配置はだいたい覚えてる。昔ここで何年か小姓をやってたからな」

 上陸地点を探しながら波打ち際の城壁を回り込んだところで、キリアスは立ち止まった。湖面には幾つかの桟橋というか渡り廊下があり、先端には瀟洒な亭がある。

 そのひとつで灯が瞬いていた。キリアスは下げていた眼帯を急いで上げ、目を凝らした。

「アーシファ……!」

 白いガウン姿のアーシファが、悄然と座り込んでいるのがはっきりと見えた。



 ダリオンを追って部屋を飛び出したアーシファは、警護兵によって部屋に連れ戻された。ただならぬ気配を察して問い詰めると、山際に陣を敷いていたキリアス軍が夜襲をかけてきたという。

 キリアスと殺し合いなどしないでくれと何とかダリオンを説得したかったが、危ないから引っ込んでいるようにと自室に押し込められてしまった。

 いても立ってもいられず、アーシファはバルコニーから宮殿の外へ抜け出した。だが、そうなると今度は逆に中へ入れなくなってしまった。

 どの通路にも兵士が立っている。見つかれば問答無用で部屋に連れ戻されてしまう。ダリオンがいそうな場所は見当がついたが、そこまで誰にも見つからずに行けそうにない。

 かといって部屋に戻る気にもなれず、アーシファは湖に突き出した渡り廊下へ足を向けた。

 突端の亭にランタンを置いて座る。ダリオンが気付いて来てくれないかと淡い期待を抱いたが、この状況では無理だろう。もしかしたら兵を差し向けられ、部屋に連れ戻されてしまうかもしれない。

 夏に入ったとはいえ、標高の高い帝都では湖面を渡る風はかなり涼しい。足元で水音が寂しげに鳴っている。時折夜風に乗って争い合う剣戈の音がこちらまで響いてきた。

 何だかひどく現実離れした気分だった。宮殿の反対側では軍隊が衝突しているのに、こちら側は真っ暗な湖面が静かに広がるばかりだ。それだけを見ていたら、いつもの静かな夜と何も変わらない。反対側では人が殺し合っているというのに。

 ふと、誰かの足音が聞こえた気がしてアーシファは顔を上げた。渡り廊下を歩いてくる人影がぼんやりと見えた。

(ダリオン……?)

 来てくれた、と胸が高鳴る。彼がキリアスと和解してくれるなら、どんなことでもしよう。難しいことはわかってるけど、どちらか一方を犠牲にするなんてできない。

 キリアスは自分にとって本当の兄弟みたいな人。ダリオンは生まれて初めて愛した人。どちらも心から大切に思う人たちだ。ふたりともに生きて平和に暮せる方法を探したい。

「ダリ……」

 ランタンの投げかける光の輪に人影が入ってくる。勇んで立ち上がったアーシファは、現れた人物を見てぽかんとした。それはまるで予想もしなかった人物だった。

「パジーズ……?」

 それはアーシファがかつて結婚を強いられそうになったシャルの王子だった。彼はフォリーシュ軍の先遣隊によって捕えられ、どこかに監禁されていたはず。

 召使からそのことを聞いた時には記憶がまだ曖昧だったので、彼が今どうしているのかきちんと聞かなかった。

 こうして見れば、彼は囚人としては破格の待遇を受けていたように思える。身なりはきちんとしているし、牢獄に押し込められていたわけではないようだ。宮殿のどこかに軟禁されたまま、今日まで忘れられていたのだ。

 彼にとっては屈辱であろうが、今まで生きて来られたのもそのお蔭に違いない。ダリオンが彼の生存を部下から聞いていたら、たぶん命はなかったはず。

「アーシファぁぁぁ……」

 パジーズは呪詛めいた低い嗄れ声で呻き、猛禽が獲物を掴むように腕を伸ばしてきた。

 ようやく我に返り、パジーズの眼の色が尋常でないことに気付いた。薄暗いランプの光でも見て取れるほど、血走ってギラギラしている。

「よくも俺に恥をかかせやがったな……!」

 本能的に逃げようとしたが、腕を掴まれ突き飛ばされてしまう。ベンチに囲まれたテーブルに倒れかかり、身を起こそうとするといきなり頬を張られた。

 二度、三度と容赦なく平手を浴びせられ、頭がグラグラしてアーシファはテーブルの上に倒れた。

 その上にのしかかり、パジーズは黄ばんだ歯を剥きだして哄笑した。

「聞いたぞ。あの男の愛人なんだってなぁ、おまえ。フォリーシュの王だか王子だか知らないが、おまえに先に目をつけたのは俺だ! いいか、おまえは俺の妻なんだぞ! それを、あっさり他の男のものになりやがって。おまえのせいだ、おまえの! おまえが逃げたりしなければ、こんなことにはならなかった……!」

 逆恨みも甚だしい。パジーズの怒りは常軌を逸するほどに激しく、彼は哄笑しながらアーシファの髪を掴み、テーブルに頭を何度も打ちつけながら唾を飛ばしてわめいた。

「殺してやる! 皇家などもはや有名無実。生きている価値などおまえにはないんだ!」

 力任せに髪を掴んだ手が、急に離れる。押さえつけられていた重みが消えて、どこかで激しい物音とひしゃげた悲鳴が上がった。

「リコリス! 大丈夫か!?

 真剣に覗き込んでくる男に、アーシファは弱々しく微笑んだ。

「来て……くれた……」

 ダリオンが答える暇もなく、背後で猛獣のような雄叫びが上がった。投げ飛ばされたパジーズが、剣を振りかざして飛びかかってくる。

 すかさず腰の剣を引き抜こうとして、ダリオンは呆気に取られた。

 鞘だけを残して、〈さかしま〉は消えていた。

「ダリオンっ」

 アーシファの悲鳴にハッと顔を上げる。迫り来るパジーズが振りかざしている剣──それこそが彼の元から消えた〈さかしま〉だった。

 漆黒の剣が深々とダリオンの胸を貫く。切っ先が背中から飛び出すのを、茫然とアーシファは見つめていた。

 血飛沫を上げて刃が引き抜かれ、ダリオンの身体がテーブルにぶつかって倒れる。

「ダリオン――――!!

 絶叫し、アーシファは崩れ落ちたダリオンに取りすがった。彼はテーブルの太い脚に寄りかかって咳き込むように笑った。口許から血が噴き出し、青ざめた唇を赤く染めた。

「は……、ついに見限られた、か……」

「ダリオン! しっかりして!!
「〈さかしま〉は俺を主とするのをやめたようだ。あれの方がマシと思われたのは、少し悔しいが……」

 あれ呼ばわりされたパジーズは漆黒の剣を握りしめ、血走った目を見開いて腑抜けたように硬直している。

「リコリス……、残念だがこれでお別れだ。おまえに出会えて……嬉しかった……」
「やめて! そんなこと言わないで! 行かないでダリオンっ」

「死んだ心で生きるために……おまえを殺さなくてよかった……。俺は……おまえの中で生きることにするよ……。もう会えないが……いつでも側にいる……。だから……間違うなよ……、惑わされるな……。おまえの前に現れる俺は……もう……俺じゃ、ない……」

 微笑んで頬を辿った指が、力を失ってぱたりと落ちる。

「ダリオン……!」

 涙にくれて男の身体を掻き抱いたアーシファは、いきなり髪を掴まれ乱暴に引き立たされた。片手に黒い剣を下げたパジーズがぞっとするような顔でけたたましく嗤った。

「来い! おまえを影の供物に捧げてやる」
「は、放してっ」

 無理やり引きずられながらアーシファは死に物狂いで抗った。

 いよいよ激昂したパジーズがアーシファを柄頭で殴りつけようと剣を振り上げた瞬間、ざっと水音がして飛沫が降り注ぐ。

 湖面から現れた何者かに蹴りを食らわされ、パジーズは渡り廊下の欄干に激しく叩きつけられた。

「……キリアス!」

 茫然と見上げたアーシファの目に映ったのは、闇よりもなお黒く、不思議な輝きをおびて佇む姿。黒い衣服と黒髪から大量の雫が滴っている。左目を覆う眼帯だけが見慣れない。

 キリアスは背中に背負っていた剣をすらりと引き抜いた。それは黒い彼の姿とは対照的に、月光のように晧く輝いた。
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登場人物紹介

キリアス

・18歳

・ヴァストの第3王子

・武術においては天才なのに自覚なし・執着なし

・極楽トンボ

・口癖「面倒くさい」「どうでもいい」(なげやりではなく、こだわりがなさすぎ)

・家族が殺されてから性格激変する

・黒髪

・黒瞳


アーシファ

・17歳

・皇家最後の姫

・活発、おてんば、じゃじゃ馬

・弓が得意

・キリアスに淡い想いを抱いているが、野心やこだわりのなさに失望を感じている。

・燃えるような赤い髪

・翠の瞳


【幼時の設定】

アーシファは五歳から十三歳までの八年間、ヴァストの王城で暮らした。アーシファ出生時、父は数多いる王子のひとりにすぎなかった。アーシファの祖父は漁色家で、正妻をふたり持ったうえ数えきれないほどの側妃がいた。


父は祖父が気まぐれで手をつけた女官が側妃となって産んだ子で、ほとんど忘れられた存在だった。学究肌の物静かな人物で、平和な世の中であったなら案外名君となったかもしれない。


だが皇家はすでに神竜の加護を失っていた。己の権勢欲を満たすためだけに皇族同士相争い、宮城は陰謀と策略の伏魔殿と化した。そんな中、思いがけず父に帝位が回ってきたのだ。


父は祖父と違ってアーシファの母だけを愛し、慈しんでいた。一介の王子であった時はそれでよかったが、皇帝となればそうもいかない。文官や武官たち宮廷貴族から女を押しつけられ、拒否すれば母が危うくなる。拒否しなくても有力な後ろ楯のない母は正妃といっても甚だ不安定な立場だ。いつ暗殺されてもおかしくない。


そこで妻と娘をヴァスト王アルフレートの下に避難させることにした。当時アルフレートは戦死した父王の後を継いで王になったばかりだったが、少年の頃、宮城に出仕していて父と固い友情を結んだのである。


母娘は侍女をひとり伴ってヴァストに逃れた。この侍女は母より身分の高い武官の娘だったが大変人柄がよく、忠義に母に仕えた。この侍女をアルフレートが見初めて妻とした。


そういうこともあってヴァストでアーシファはのびのびと暮らすことができた。アルフレートの末弟で一つ年長のキリアスが遊び相手を仰せつかり、アーシファは十三歳になるまで自由闊達に育った。


その間、父はおおかたの予想に反してしたたかに生き延び、地歩を固めた。そして妻と娘を呼び戻したのだが、幸せも束の間、半年と経たぬうちに夫妻はともに毒殺されてしまう。犯人も毒を投入した手口も、未だに不明。


残されたアーシファは後宮の一角に閉じ込められた。後を継いだ皇帝はライバルを葬りつつ三年間帝位を保持し、ついに彼を脅かす存在は地上からすべて抹消された。


しかし安堵の矢先、彼は暑い日に冷水を一気飲みしたのが祟って呆気なく死んでしまった。待ち構えていたかのように乗り込んできたシャルの王軍によって帝都はさしたる抵抗もできないまま屈した。気がつけばアーシファは最後にただひとり生き残った皇族の姫になっていたのである。

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