みんなの日常 〜おくりもの〜 (後編)

文字数 3,007文字

「大丈夫です。大丈夫ですよ、それはきっと、大事な(こと)だと思うから」

「でも、あの、ハンカチ汚しちゃうといけないので」

コートの袖で無造作に目元を拭うものの、拭い切れていない水気を彼女のハンカチが綺麗にしてくれた。

「ハンカチって、自分のためだけじゃなく、そばにいる人の涙を受け止めることも大事な役目のひとつなんです。それに、こうしてご縁を運んでくれることもあるみたいで」

弱さの雫が結んだ縁。不思議と背中を支えてもらった心地がして振り返す涙。ありがとうを伝えながらハンカチをそっと受け取った。

「よくわかります。私も、辛いとき、たくさんあります。もう大人なのに、いくら学んでもまだまだあって。けれどある人が教えてくれました。涙と出会うたび、人生が豊かになるのだと。どこにいても、ひとりでも、感謝を身近に感じ触れやすくなる体を引き寄せているのだと、そう教えてもらいました」


自分にとっての涙の意味。それは考えずとも直感的にわかるから、考えたくはなかった。

大人として、余裕がほしい。パトリックみたいに、常に落ち着いていたい。ずっとそう願っていた。なのに自分の心は忙しい。些細な失敗に動揺し、拙い後悔で自分を責め、重なる間違いで自信を失くし、決めきれない姿から目を背けて。弱い自分が流す涙に価値はなく、それは自分から溢れ出ながらも、自分に突き立てられた剣。

けれどもしかしたら、それだけではないのかもしれない。このハンカチのように、気づけなかった役割があるのかもしれない。感謝を伝えきれずに終わるのは悔しいから、今からでもできることが、何かあるはずだ。消えゆく雫がそう教えてくれた。

「あの、ハンカチをありがとうございました。お礼になるかわかりませんが、よかったらこれをどうぞ」

ギフトバッグからマカロンカラーのギモーブを取り出し手渡した。

「とっても嬉しいのだけど、大事な方へのプレゼントでしょう?いいのかしら」

「はい、これは自分用ですので。それにまだ残ってるので大丈夫です」

「そう。ありがとう。では私からはこれを」

彼女は小さなバッグからキャンディーケーンをひとつ取り出した。

「手持ちがこれしかなくて、ごめんなさいね」

自分が受け取ると同時に、遠くから「結」と呼ぶ声が響き、そちらへ向かって小さく手を振り顔を綻ばせる彼女。声の主は、大切な人らしい。

「逢えてよかったです。ありがとう、素敵なサンタさん」





屋敷に戻り玄関を開けた瞬間、パトリックと出会した。こっそり自室に戻り心の準備を整えてから謝りに行こうと思ったのに。咄嗟に背後に隠したお菓子もサプライズで渡そうとした手前無断で抜け出していたためか、こちらへ真っ直ぐに駆け寄ってきた。

「エイト、お帰りなさい。大丈夫でしたか?」

「え……?」

無断外出を怒られるかと思いきや、自分の頬を優しく包むパトリックの手。

「こんなにも冷え切って」

気づけば、全身に伝わるパトリックの温もり。寒さも悲しみも、全部溶けてゆく心地がする。代わりに、ありがとうと大好きの気持ちが満ちていく実感がある。腕を伸ばして自分もパトリックを抱きしめた。この気持ちがつながって、混ぜ合わさるように。

そしてそのまま耳元で告げた。

「パトリックごめんね。クリスマスなのに、特別なことできなくて」

「おやおや。特別なことをしてもらわねば、心が離れるとお思いですか」

「そうじゃないけど。せっかくだから特別なお祝いをして、日頃の感謝を伝えたかったんだ。普段とは違う思い出を増やして、たくさん喜んでもらいたかったのに。もっともっと、笑顔を……」

ゆっくり離れ、勇気を出してギフトバッグを胸元に持ち上げる。大きなバッグの中身は、ひとつだけ。

「本当は手作りケーキをプレゼントしたかったんだけど、失敗しちゃって。それで街の美味しいケーキ屋さんに行ってみたけどやっぱりダメで、代わりに焼き菓子を買ってみたら、いろいろあってこれしか残ってなくて」

「エイト」

自分の名を呼ぶ愛しい声。この先に続く謝罪を既に予期して回避させようとしているのがわかった。でも自分は、言わなきゃいけないと思う。優しいパトリックに、いつまでも甘えちゃいけないと思う。

「ごめんなさい。プレゼントひとつまともにできない自分でごめんなさい」

また名前を呼ばれたけれど、それを無視して先を続ける。

「完璧なあなたの隣にいるのが、欠陥だらけの自分で、本当にご……!」

パトリックの唇のせいで、それ以上は続かなかった。しばらくの後、数センチだけ離れる口元。すぐそばで、パトリックが聞こえる。

「特別な日には、特別なことを。その気持ちは純粋に嬉しいです。それはそれとして、日々の中に散りばめられたあなたの想いに、こちらが気づけぬとお思いで」

「えっと、そういうわけじゃなくて、その」

今度はパトリックがこちらを無視して先を続ける。

「なんということでしょう。そうでしたか。では、ディナーの前に特別なお説教が必要なようですね」

「おせっ……?!あっあのパトリックご……っんんー!」

「ほら、いいですかエイト。目に見えるプレゼントは、もちろん嬉しいです」

“ですが”と付け加えつつ、彼はそっと自分の手をすくって彼の胸に当てた。

「こうして膨らんだ心が何で満たされているか、あなたならわかるでしょう」

「……うん。ありがとう、パトリック」

やっと、優しく重なるふたつの唇。名残惜しそうに離れてゆき、代わりにおでこが合わさった。

「それと、話は戻りますが、私のことを買い被りすぎていませんか。完璧な人というのはきっと、動揺とは無縁の境地で大事な人の戻りを待つでしょうからね」

「心配してくれたの?」

「いつも当たり前にそばにいてくれる人が突然姿を消してご覧なさい」

「そっか。そうだね」

そして溢れるパトリックの柔らかい笑い声。自分はその音が、世界で一番大好きだ。それをそばで聞けるのなら、毎日が特別。

大好きな声が、また自分を呼んでくれた。

「私にとって、特別な日だけが特別な時間になるのではありません。あなたが特別だから、わかち合う時間が特別になるのです。心を繋ぐために、完璧である必要も価値あるものを間に置く必要もありませんよ。だって」

ぎゅっと抱きしめられ、大好きな香りに包まれる。大好きの全部が、いまここにある。

「私のことを想ってくれている。ただそれだけで幸せです。それはきっと、あなたが想像できる以上に」


幸せはきっと、思ったよりも近くにいて、親しみをもってそばにいる。目に見えないから距離感を掴むのが難しいけれど、目に見えないからこそ、距離、大きさ、カタチは、自分の好きなように描く自由があるのかもしれない。たとえその距離がどれほど遠くても、あなたとなら絶対、探し当ててゆける。

「ではエイトサンタ。クリスマスディナーを始めましょう。まずはアペリティフに、その手元にある甘いキャンディをいただきましょうか」

「え、これ?」

すかさずギフトバッグに伸びる彼の指先。優雅に外装を剥がし、個包装もめくり取って、ルビー色の宝石が自分の口元に運ばれた。そしてディナーの準備は万端。

「メリークリスマス。可愛いサンタさん」




今日はクリスマス。自分は願う。大切な人がいる人もいないひとも、ひとりのひともみんなといるひとも、世界中のみんなが、優しさに包まれますように。



そしてどうか、今だけは、わがままを言わせて。

今宵このふたりが、世界でいちばん幸せでありますように。
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