【Ⅻ】ある世界の混沌にて鳴り響く

文字数 16,787文字

 僕とエルティナ、ルシファーは並んで白の大地に移動、いや、避難してきた。
 天使と堕天使の二人は翼で天高く浮遊し、白の大地を見下ろしている。
 僕もその隣にいる。因果律操作と時空操作の複合術の一つで、普段術を使う際に発生させている時計魔法陣に意味を持たせた。二人の天使の間に浮かぶ透明な魔法陣は、今や僕を乗せて浮かぶ円盤。落下速度を極端に遅くする術だったり、まずこれ以上下に落ちる未来を選ばないといった術を使っている。
「戦いこそが――この世界の根幹」
 ふと、ルシファーが空を見上げて呟く。シェンメイの言っていた竜蹟碑の教えのものだ。
「今頃黒の大地は数体の魔王が暴れ、冥界などは騒動に対応せざるを得なくなっているだろう。そして待ち望んだように混乱に乗じて仮初の所属を去り、戦意無き者を従えて軍を率いた狂乱の戦神が、戦の炎を広げている事だろう」
「戦意無き者……そんな人達まで巻き込むなんて……」
 エルティナが狼狽えるが、いつもの勢いで文句を言えていなかった。
 緑に発光する小さな虫が大量に空へ上昇しこちらに向かってくる。何やら光の扱いを調整しているようで至近距離まで見えなかったが、そこには大きな角を生やした女性――ベルゼブブが姿を隠していた。
「ルシファー様、予定通りアレスが動き出しました」
 ベルゼブブに背を向けたまま頷くルシファー。
「サタンと、他の魔王達の配置は」
「一部移動予定だった魔王が黒の大地で行動し続けていますが、その分は私が動きましょう」
「白の大地の各エリアの動きは」
「概ね想定通りで、点火と共に戦が始まりましょう。ですがアスガルドのオーディンが臨時で息子に指揮権を譲り、姿を消したというのが不安要素です」
「適合者は?」
「泉の女神曰く、自らの意志で白の塔へ向かったと。残念ながらその後の行方は知れないため、我々の思惑通りに心核の封印を解くかどうかは……」
 ルシファーは小さく笑い、ベルゼブブに振り向いた。
「サタンに指令を届けた後、お前は制御不能の魔王の埋め合わせにかかれ」
「承知しました。理想通りに事を進められず、申し訳――」
 手を上げて遮るルシファー。
「十分な成果だ。あとお前はただ報告に来たに過ぎないのだから、責める事は無い。今後も頼りにしているぞ、ベルゼ」
「はっ!このベルゼブブ、必ずや期待に応えてみせましょう。それでは、ご武運を……!」
 一礼し、再び虫と共に消えるベルゼブブ。最後の会話だけ仕事の顔が崩れ、明らかに嬉しそうな顔をしているのが僕らにバレバレだったが、気付いていないだろう。
 報告内容の一部は分からなかったが、思った事を言ってみる。
「けっこう失敗してるみたいだけど、大丈夫?」
 ルシファーは極めて冷静だ。
「何、想定の範囲内だ。それに、思い通りにいかないからこそ糧になり、面白いというものだろう?過程を楽しめ、エンデガ」
「……っ!」
 その言葉は僕に強く刺さった。ルシファーでさえそんな事を言うのか。
 白の大地の端を囲うように、サタンの炎が燃え始めた。なんて規模だ。
 ルシファーがそれに合わせて手を開き、闇を拡散させ、炎のもとへと向かわせた。
「さて、私達も始めるとしよう。オセロニア全土を巻き込む大戦だ」
 僕やエルティナは作戦内容を知らない。その発言に驚く暇も無く、その時は訪れる。
「世界よ、目覚めよ――フィーアト・ルクス」
 大地の端の炎と闇が渦巻きながら中央に集まるように動き、白の大地全体を焼き尽くした。
 集まった炎が白の塔にぶつかるが、それは一瞬で消化された。白の塔には防御機能があるのだろう。
 この炎の被害は計り知れない。エスポワル村のみんなの事を思って、この行為に怒りを覚える。
「ルシファー……これは、世界に問うために必要な事なの?」
 頷くルシファー。エルティナは何も喋れなくなっている。
「戦いこそが根幹ならば、全ての存在は戦いの中で意味を成し、生み出し、見い出すだろう。自らを偽る物も、戦いの修羅の中で本当の姿を現すだろう。私はそれら全てを見届け、世界に問うために連れていこう」
 白の空も黒の空も、等しく闇に染まり、白の塔の頂上が指し示す太陽のみが、わずかにこの地を照らしていた。
「聖なるかな……エンデガ、お前はサンクトゥスを知っているか?」
 聖歌のひとつだ。レクイエムなどにも使われたような記憶。昔に教えられたりしたのだろうか、聖歌に対してある程度の知識があった。
「知ってるけど、それがどうしたの」
 四大天使、オリュンポスやアスガルド、高天原の神々。それらが魔王達やその他の混乱により争いを余儀なくされている。もしくはこの機に乗じて、望んでいた戦いを行う者達。ルシファーは、それら全てを眺めるように世界を見下ろす。
「今、すべきことだと思ったのだ。頼めるか?」
「……趣味が悪い」
 高い音を必要とする歌だ。しかしこれも失われた記憶の中で鍛えられたのか、未だ少年の身体を扱う僕だからなのか、それを歌う事が出来た。
 僕は何故か拒否する事をせず、破滅の世界の中で歌い続けた。
 いつかこれは起こりうる破滅だったのかもしれない。どうか救われてくれ、浄化されてくれ。
 燃え広がる炎。一部の神や天使が僕らに気付き、攻撃を行ってくるが、ルシファーのオプスクーリタースや、ルシファーの指令に従ったエルティナの光弾で迎撃されていった。
 そんな状態が続くと、突如空の一部がぼやけて、その歪みに炎が発生した。
 風が僕ら三人を叩きつける。だがその程度で軸はぶれない。
 炎が形を成し、一体の竜を出現させる。始原竜アークワンの具現化だ。
「力の奔流を感じる――発端はお前か」
 アークワンが僕達を見る。僕だけでなく、ルシファーの事も知っているようだ。
 ルシファーは口角を少しだけ上げた。求めるものが現れたような喜びだ。
 しかし始原竜を見つめる目は虚ろだ。求めるものが存在しない哀しみだ。
「ああ、そうとも、始原竜。お前の定める世界の存在価値を、そして各々が秘める在り方を示す、盛大な儀式だ。私はその概念全てを連れて行き、お前と、その先にいる存在に問おう。私は、我々は何者なのかを」
 ただ話を聞くのは終わりだ。僕には僕のやるべき事がある。
 二人が会話している横で、僕は過去の経験と新魔術を駆使して、アークワンを見つめた。
 時空操術を習得した時に使えていた、相手の未来の可能性を垣間見る術。あれはあまりにも不安定なものだったが、今はその仕組みを理解し、上位版となる術を習得した。
「未来視を生み出したクロノスは果たして、この進化の可能性を予期出来ていたかな」
 僕は左手を構え、黒い炎を生み出す。アークワンが首を少し曲げる。本来あり得ない第二の始原の炎に反応したか。
 因果律操作を習得した事で、あの術は完全に制御が可能になった。体の崩壊が進行していくことを代償に、一般的な人間の処理速度を僕の脳が圧倒的に上回ったからだ。
 因果律操作を円滑かつ正確に行うために身に着いた補助能力――因果律知覚。
 対象とその周辺の過去と現在と未来の因果を把握する。
 そしてそれは、失われた世界の記憶情報も確認のチャンスがある。もしそれが妄想ではなく、本当に一度辿った行動の軌跡であるならば。
 ――視えた‼
 不自然に途切れている世界はすぐに確認できた。冷気にかじかんだ手を叩きつけるような感覚を脳に感じ、別世界の情報、いや――奪われた記憶が戻ってくる。
「ノエ……ル……さ、ん」
 得た幸せと悲しみが同時に襲いかかり、今何を思えばいいのか分からない。
「あ、ぁ……あぁーー……!」
 処理能力が高まった脳では理解が早すぎる。心が追いついていかない。今すぐ因果律知覚の左目を抉り取りたい。
 うずくまり、顔の様々な場所から見苦しいほど水を垂らす僕の背中を誰かが優しく叩くと、意識は今の世界に引き戻された。
「君、どうしたの、大丈夫?」
 強く息を吸って顔を上げた僕に、エルティナが声をかけてくれているのは脳で分かるが、心がそこまで把握しきれない。
 アークワンを視界に捉え、フラッシュバックで咳き込む。コイツは僕が消さないといけない!
 嘔吐は我慢して立ち上がり、左手で時計を操作する。部品ごとに分かれた時計がそれぞれ別の動きで全ての因果を掌握する。部品が分かれたのはこのためだ。時計一つだけでは、一つの世界の時しか計れない。
 同じく時計が回る左目は能力行使に全て使い、脳を締め付け、幻影が巡る。そして右目だけで視界を確保し、血を吐きながら叫ぶ。
「時空操術魔力機関全接続、因果律干渉操作領域拡大展開! 現時空事象変動固定、最上位攻撃魔術――ヴァリアブル・ヒット‼」
 始原の炎で因果を固定し、無数の時空からこの時空に向けて魔力の射撃を放つ。どんなに抵抗し、未来を変えようとしても、その先の可能性世界にすらこの攻撃は待機されている。空中ではなく、時空と因果律の流れを通って進む射撃の軌道など、読めるはずもない。
「ォオオ――!」
 本来全て回避不能の必中魔術だが、唯一の例外たるアークワンは始原の炎で無限に近い被弾の可能性を消し、身に備わる竜鱗であらゆる攻撃を弾き、長い暗黒の爪で幾百万の魔弾を撃ち落とした。しかしその無敵の防御のわずか一瞬の隙に、残る射撃が撃ち込まれる。
 始原竜の身に纏う炎が大爆発を起こし、煙が視界を塞ぐ。僕はもう普通の視界だけには頼らないのでその先の光景が見える。
 奴は竜族に限らず誰もが持つ自然回復力で、無限の魔弾のダメージを一瞬で回復していた。
「無茶苦茶だ……」
 煙が晴れ、始原竜は依然として君臨する。
「自身の力だけで、我の守りを超えたか。やはりお前には確かな存在価値がある」
 アークワンが両手を広げ、魔法陣を展開し始めた。
「次は、我の一撃にも耐えてみせよ」
 始原の炎だ、これはまずい。戻った記憶によれば、これは炎の回避は不可能で、魔法陣の展開が終了した時点で詰みだ。
 ルシファーなどにも協力を仰ごうとしたその時、空から金色の流星が降下した。
「ほう?何者だ」
 アークワンの自動防御が突然発動し、奴は上の流星を見た。
 落ちてきた虹と金色の竜は僕らと同じ位置で止まり、その輝かしい姿を現した。
「我はルクセリオン。我が分解を発動すらさせぬ始原竜。貴様のような者を我は待ち続けていたのだ」
 アークワンが現れるまでは最強の竜として君臨していた伝説の竜。しかしどちらが強いかなどは人々は予想しか出来ずにいた。この神話のような大戦で、それは記録に残る事になるだろう。
 アークワンに敵う者など、現状誰もいないという絶望が。
 ルクセリオンとアークワンが移動を行う。それは彼らにとっては小さな動きだが、僕らにとっては戦場の移動と言っていいものだ。逃げられた、いや、助かった?
「素晴らしい術だったぞ、エンデガ。ススキターティオーの意味は目覚め、覚醒。私は世界だけでなく、エンデガ自身にそれを促すために、お前にあの虫を送り込んだのだろうな」
 ルシファーは音の鳴らないゆっくりとした拍手で祝福した。
 僕はアークワンを追おうとしたが、体の負担がそれを邪魔した。浮遊魔法陣の維持も難しくなり、落下しそうになるところをエルティナに助けられた。腹を両腕で掴まれている。
「どうしたの、急に無茶して! 理由があるなら説明しなさい、あたしも少しは背負えるから!」
 僕はエルティナの言葉に首を振る。
「僕がノエルさんを消したも同然だ、僕はノエルさんの為に今後を生きないといけない、僕だけがノエルさんの――」
「落ち着いて! 誰よその子、もしかして記憶が……?」
 割り込まれて言葉の暴走を防がれる。
「後で説明するかもだし、しないかもしれない。ルシファー、すぐに奴を追おう」
 ルシファーは首を振り、指で前方を示した。
「見ろ。恐らく泉の適合者は、白の塔制覇に失敗したぞ」
 進むべき先の空に浮かぶ無数の巨大モンスター。様々な姿をしているが、その挙動は不審で読めない。
「――――」
 彼らから発せられる、洞窟に風が流れ込むような音。ノエルさんの因果律が滅却される前、白の塔の方角から聞こえた声だ。
「これは私の失態故、私が排除しよう。お前達は回復を図り、その後計画を続けると良い」
 ルシファーが皆を従えられる責任感をここで感じるが、僕はここで冷酷にも断りを入れる。
「僕は記憶を取り戻して、生きる目的を見つけた。君はこのモンスターを排除した後、自分で作戦を続けて。僕はもう、存在の意味とか、それこそ世界の行く末なんてどうでもいいよ」
 ルシファーは冷静に笑った。やっぱりこの人、怒ったりはしない。
「ハハ……そうか。祝福しよう。ならば成せ、そして示せ、お前のその在り方を」
 モンスターの身体が光ったかと思うと、瞬時に高威力の魔法が押し寄せ、ルシファーへ突進していった。エルティナは飛行を解除して自由落下するという緊急回避でその場を離れ、これがルシファーとの共闘の終わりとなった。


 戦闘空域から離れ、地上に降り立ったエルティナ。僕が手を上げて合図すると、抱えていた手を離してくれる。
「ありがとうエルティナ。もう大丈夫」
 礼だけ言って進もうとしたが、肩を掴まれて止まる。
「君らしくなさすぎる。消えた世界の記憶がそんなに大事なの?」
「僕にとって、あの時間だけが全てだ。時空操術なんて禁忌も家族の為に覚えて、因果律操作なんて無茶もノエルさんの記憶のためにやってたこと。あの日々に戻れないなら、ここで何をしようが意味なんて無いッ」
 振り払って先に進む。しつこくエルティナが止めてきそうになったが、それを遮る音の波が迫る。
 闇のオーラを纏った、騎馬兵の軍団だ。先頭で駆ける馬だけは足が六本もある。
「そうだ、今地上や、少し高い程度の空は全部戦場なんだ」
「冷静に分析してる場合じゃないでしょ、あの闇は危険よ、野放しには出来ない」
 エルティナが飛び、空から闇の馬をまとめて光で薙ぎ払った。
 しかし効かない。ススキターに似たような防御が使われているようだ。
 先頭の馬に乗る男の姿が分かってきた。あれは行方を眩ませていたオーディンだ。
「さあ、戦士達よ。今こそ奮い立て! ――さあエンデガよ、かつてクロノスと出来なかった頂の決戦、今こそここで行おうではないか!」
 まだ距離はあるが、時計を介して言葉を送ってくる。コイツは時空操術に関して詳しすぎる。そんな芸当が出来るなんて知らなかった。
「しつこいよ、もう関わらないんじゃなかったの」
 同じように言葉を伝えてみる。仕組みを理解するオーディンにしか聞こえないようだ。
「ああ、クロノスとして迎える事は控えるとしよう。だが敵として、因果律操者エンデガとして私と戦うのだ! 貴様が先ほど使った因果律の魔力を強引に吸収し、失われた世界の闇属性魔法障壁を張り、別時空の私が所持していた馬を拝借した。全世界の私で以て、貴様をクロノスのもとへ送ってやろうではないか!」
 流石の対応力と執念だ。面倒事の種は逃がしたりせず、さっさと断ち切っておけば良かったのかもしれない。
「出来ればあまり頻繁には使いたくなかったんだけど……」
 もう展開されている僕の因果律操作状態。解除し、再び起動するには負担が大きすぎるため、戦いが落ち着くまではこの状態を維持した方が安定はしている。しかしだからといって使い放題というわけでもない。
 でも僕にはこの先の目的がある。こんな所で出し惜しみして、倒れるわけにはいかない。
「攻撃行動無効化操作。因果律固定。時空障壁解除」
 頭痛に耐えながら、因果律操作を行う。今回行った操作は二つだ。
 一つは、今後オーディンの必中神器グングニルが投げられる可能性を否定し、数ある可能性の中から、攻撃を行わない未来を選択、決定した。
 もう一つは、エルティナの光弾を防いだ二重障壁の一つを解除した。あれはオーディンがクロノスの遺した技術を応用して作り出したもので、障壁に触れた攻撃を別の世界線に逃がし、今目の前に広がる世界の自分だけ助かろうという、なんとも酷い時空の穴だった。
 もう終わりにしよう。オーディンは優秀であり過ぎたが故に、こんな禁忌の術を好奇心で研究し続け、クロノスの苦しみを理解できなかった愚者だ。そんな奴は、僕に永遠に敵わない。
 そろそろ共闘時間も長くなってきたので、合図でエルティナにある程度を伝えられた。
「時を変える恐ろしさ、味わってもらおう」
 ワールド・エンドで時を戻し、馬が闇を纏う前の姿に戻る。これにより二重障壁は消え、あえて残した生命力に、上空からコンボが入る。
「解き放つ……!」
 粛清の光弾は彼らの魂を浄化し、戦意を喪失させられたオーディンは馬から投げ出された。
「ぐおっ」
 地に背中を打ち付けられたオーディン。近くまで歩き、今度は僕が、倒れるキミを見下ろそう。
「もういいよね?これで分かったでしょ、もう実力差は歴然だ」
 オーディンと同じくらい体が痛むが、なるべくふらつかないようにしてみる。
「見事だ……クロノスすら辿り着かなかった領域、しかと、目に焼き付けたぞ、エンデガ」
 エルティナが地上に降り立ち、最高神に対してするべきじゃなさそうな顔で睨みつけた。
「アスガルド主神オーディン。あんた、天位議会と関わってたそうだけど、一体何のために? 今回の暴走の動機は? もしかしてあんたも、世界の秘密を知ったり?」
 オーディンは落ち込むような顔で首を振った。
「至高の頂を目指す為、時空操術を研究する為。そして、クロノスの為だ。そのために秘匿級の魔術などの情報と、私の研究する様々な術の知識を交換していたのだ。世界の秘密は知りはしたが、頂に立つ私の活動方針が変わる事は無かったぞ」
 気になる事が出来たので、僕が質問を継続する。
「時空操術とクロノスは目的としては別だったの?」
「ああ、確かに初めは術師としての高みを目指す為であったが……初めて出来た人間の友人と関わるうちに、私にも友情やら、繋がりの欲求が生まれていたのだ。それまでは一人でも高みを目指せたというのにな……」
 目を閉じ、話を続けるオーディン。
「私はただ、友が欲しかったのだろう。しかし、クロノスほどの者でないと、最高神の私に遠慮する者ばかりであった。そして時空操術の後継者がクロノスと同じように、私に対して敬意を示さん男であった時、私はひたすらに喜びを感じていたのだ……」
 言いたい事は分かった、思いは理解した。しかし僕は首を振る。
「僕は、僕だ。クロノスじゃない。目的も別にあるし、キミの欲求は叶えられない」
 オーディンと僕は特殊な関係のようだ。だからここは出し惜しみせず、ちょっとした術を使おう。
「だからキミが苦しまないように、一人でいられるように。キミがクロノスと関わった因果を、今ここで消し去る」
 左手を構え、炎を燃やす。やっている事はアークワンと変わらない。僕は悪い奴だ。
「面白い。それが私にとって救いとなるか、ならぬかは、未来の私に決めてもらうとしよう……」
 案外すんなり言葉を受け入れた笑顔のオーディンに、術を発動する。
「僕の記憶にはクロノスは残るから、どこかで思い出してしまうかもしれない。でもその段階まで辿り着けるなら、クロノスの事を真に考えられた証になるだろうから、その時は――天界にいくのも、考えていいかもね」
 術は成功。一時的に眠る最高神は独りで完結した絶対神に戻った。
 ススキターを燃やした時と同じ時空の吸引力が発生するが、これを前回同様回避した。
 そして今理解した。ススキターやオーディンの因果を変えた時に発生したこの吸引力は、時空の穴だ。本来ススキターの因果を消した際、即座に世界はススキターの被害が根本的に起こらなかった世界になるはずだったのだ。あの穴はその時空移動フェイズで、それを僕が受け入れなかったから、しばらくススキターの被害が残る、失われた世界の中で過ごしていたんだ。
「方針は変わらないかった、か……」
 オーディンの話を聞いていた世界線が継続しているエルティナが呟く。そして首を振り、自身の頬を叩き、僕を見た。
「世界の秘密は分からないし、議会は今でも信じられない。――でもだからこそ、私は今すべきことを続けていこうと思った。正義の為に戦い続ける事で、いつかきっと全てを理解できる、そう思いたいの」
 その顔は、ルシファーと話した時からあった迷いの消えた、いつもの堂々としたエルティナだった。
「いいね。で、これからどうするの?」
 聞くと、粛清の天使はその銃器を天に掲げた。
「堕天使ルシファーを止める。そしてサタンやベルゼブブなどの魔王も、私が浄化してやる。ルシファー様の目的は結局分からないけど、今こうして戦場を作り出したその行為は、間違いなく悪そのものよ! もう迷わない、私は全ての悪を浄化してやる。例えそれが、かつて憧れた天軍のトップであっても!」
 空を見上げ、翼を羽ばたかせるエルティナ。この闇の中でも、その姿は確かに輝いている、希望の星だ。僕は一度ルシファーとの戦いで敗北を経験しているので、同じく堕ちる寸前だったエルティナも敵いっこないなんて、思ったが――
「ルシファーは強い、危険だ――なんて言っても、キミは行くよね」
 エルティナは頷いた。僕は笑って返した。
「今の君を放っておくのも心配だけど、どうせ止めても行くんでしょ?」
 頷いた。笑われた。
「なら、少しでも戦況を安定させた方が良い筈だし、あたしは天軍として出撃する。――お互い、絶対生きて帰りなさい!」
 拳を合わせて健闘を祈ると、僕はついに一人になった。
「今度こそ、じゃあね、オーディン。そしてクロノス」
 浮遊魔法陣を展開し、空を駆け上がる。
 ふと、異変を感じ、地上を見下ろした。
 洞窟のような場所に避難していたと思われる、僕くらいの男の子が、オーディンの騎馬兵の骸の中を歩いていた。その姿、見覚えがある。
「確かキミは、ルイン?」
 ノエルさんの記憶と共に戻ってきた、神学校の同級生の竜人だ。ノエルさんがいないと思い出せないなんて、随分と失礼だけど。
 空を見上げたルインは、僕を覚えている様子だった。ノエルさんの事は憶えていないだろう――元より存在しない人物なのだから。
「エンデガ君、なのかい……?でもその姿、力の波動……」
 彼は怯えていた。魔法陣に立ち、バラバラの時計と共に浮かぶ僕に対して。
 いや、浮遊なんて造作もない。左手の炎や、少し前に衝動的に解き放った因果干渉領域の違和感だったりに気付いたのかもしれない。
「君は、人間を、やめたのかい……?」
 ルインがそんな事を言った後、不可解な現象が起きた。
 突如空から降ってきた闇の雫。魂を浄化されて落ち着いたはずの馬が一頭、その雫に当たると、再び立ち上がり暴れ始めたのだ。上空には何がある、白の塔のモンスターか、ルシファーか?
 馬は周囲の生命体――ルイン目掛けて突進していった。防ぐ手段は無い。
 ――防ぐ手段は無い? 何故僕はそんな事を考えた。因果律を確認すると、ルートは一つしか無かった。未来に真っ直ぐ進んでいく。
 オーディンのためを思った行動とはいえ、先ほどオーディンに向けて因果律操作を乱用、悪用した。
 大きな川から流れる小石は、強引に進行先を変えられた。元の川に戻るまでの間、狭い水路で確定した道を進んでいく。運命を捻じ曲げたら、それにより変動する新たな未来は否定する事が出来ない。それが因果律操作の代償だった。例え時を戻したとしても、それは同じことの繰り返しにしかならない。実質的な能力封印だ。
 そしてこの因果律操作を反映させる領域は、この白の大地ほぼ全域に広げてしまっている。アークワンにヴァリアブル・ヒットを放った時から、この戦場の今後の展開は、本来進行しない別の流れで進行してしまっているのだ。僕はなんてことをしてしまったんだ、やはりこの力には目覚めるべきでは無かった。
 最低だ。ならば最低なりに、僕は彼の為に演技をしよう。死の運命を定められたルインに対し、僕は少し低い声で堂々と言い放つ。
「そう、僕は天界の秘術を扱う神。あらゆる未来を否定し、運命を捻じ曲げる悪神。因果を確定し、可能性世界を終わらせる――(つい)の神、エンデガだ」
 ルインが馬に気付く。慌てる彼に、僕はさらに言葉を落とす。
「キミにも終わりを与えるよ。この先の世界を見る前に、消えておいた方がいいからね」
 ルインはそれでも冷静だった。周囲の石碑を輝かせて古代魔術を構えながら、僕を見上げる。
「しばらく見ないうちに悪魔になったか。しかし、どうして僕を殺す君の、今の目は――そんなにも暗く、哀しい目なんだい……?」
「……!」
 こいつはいつも鋭い。思わずそっぽを向き、手を振って馬に合図をする演技をした。このまま彼の死から目を背けてはいけないので、横目で向き直る。
「逃げられないよね――錬炎闘気、模倣、解放ッ! エンシェントブレイブ!」
 戦により崩壊した石碑から力を得て、闘気の炎を撃ち出す。しかしルインの力は長くチャージする事による増幅効果のため、緊急で即座に放った炎がアスガルド育ちの馬に敵うはずも無く、ルインはその馬の前足に踏み潰された。
「ごぁっ!ぐっ、ぅああああっ!」
 拘束から抜け出せずに踏まれ続けるルイン。竜人の頑強な身体が災いし、痛みはあってもすぐには死なない、死ねない。
 僕は耐えられず魔法陣に四つん這いになって馬に手を伸ばした。
「やめろ、もうやめろ、やめてくれーーッ‼」
 しかし能力は働かない。いや、働いているからこそこの現象が生まれている。大きすぎる力の代償に涙し、数少ない昔の知り合いの肉体が崩壊する様を、僕はそれでも目に焼き付け続けた。
 今の僕は、術を制御できない愚か者だ。自分以外にも被害のある代償なんてものを、簡単に発生させてしまう。誰とも関わるべきではないのかもしれない。そう思った。
 全てが終わった後、馬は無理に動きすぎた反動で再び倒れた。僕は首を振って立ち上がり、空を見上げた。
「これで恨みは僕に向くでしょ、ルイン。僕を地獄に引きずり降ろしても、むしろそれが本望だよ」
 まあ、あの男はそんな事しない奴だって、分かってるんだけど。
 酷い事をした。今後も酷い事をしていくだろう。でも今更止まる事は出来ない。
 何度目の正直か、僕は今一度空を駆け上がった。
――移動したアークワンは、誰とも戦闘せず一人だった。このまま放っておくと、何をするか分からないぞ。
 混沌の中で起こり続ける世界の変革のひとつに、僕は気付けなかった。


 腕を組み佇むアークワンが見えてきたが、ここで妨害発生。
「ルミナス!」
 僕は腰を真横まで曲げて空気抵抗を消し、手を動かさずに走っていたので、足元に光の射撃が来たのを咄嗟に回避すると体制が簡単に崩れてしまった。
 術で速度を調整して、転ぶのを誤魔化すように空中で一回転。飛ぶ先に新たな魔法陣を生み出して着地し、声と攻撃の来た方向に首を回す。
 天軍の集まりの先頭で飛ぶシェリザは、僕を天界で追っていた時と同じ敵対の目をしていた。
「時空干渉波動の根源を発見しました、付近の部隊は応援をお願いします!」
 光による通信を簡潔に済ませたシェリザは、再び僕に魔法を構えた。時空干渉をしている事に気付いているのは、流石時空操術の発祥たる天界様だ。
 後ろに待機していた一般兵は、僕の進行方向に移動して妨害してきた。面倒くさい。
「出来れば力は使いたくないし、使ったらもうキミたちは僕に勝てない。天軍ならそれくらいわかるよね」
 シェリザは怯まない。むしろ表情に余裕が見える。
「ルミナス!」
 シェリザは光の壁を僕の周囲に発生させ、檻を作り出す。壊せない事は無いが、無理矢理実行するとシェリザの身が危ない。なので次の相手の行動を待つことにする。
 因果律予測。檻の全範囲に氷の槍が降ってくるようだ。しかし甘い。その落下順と速度も僕は予測出来ているし、その回避をするだけの高速移動も可能だ。
「つまらないなあ」
 目には見えないほどの速度の槍をふらふらと回避し、その軌道上に発生した冷気から生み出される氷の棘からもバックステップで逃れる。氷の棘は消えず、しつこく突進形態に移る。
「フレイムブレイブ、クロックオーバー」
 あまりに硬く冷たい氷だったが、熱素を当て、溶解を超急速進行させて無力化した。ようやく収まった。この攻撃をした天使、なかなかのやり手だ。ミカエルと同等くらいはある。
 僕らより上空からの奇襲に失敗した、槍を持った青の大天使が、同じ高さまで降りてきた。
「私の氷を初見で凌いだ人間は、貴方が初めてです。いえ、貴方を人間と定義するのは的確ではないかもしれません」
 青い槍、氷の術、右眼のレンズなど。エルティナから聞いた特徴と合致する。あの大天使はミカエルと同じ四大天使の一人、ガブリエルだろう。
 僕は以前ミカエルと戦った時よりは圧倒的に強くなっているが、それでも多少は面倒な長期戦になるだろう。
「使うしかないのか……? いや、まだ何か……」
 アークワンをこれ以上野放しにする訳にはいかないが、ルインやシェリザの事を思うと因果律操作は使いづらい。
 悩んだ末に時計を回し始めた、そんな時だ。
「行ってエンデガ!」
 また別の天使が急速落下。僕の魔法陣に着地する事で急停止。
「ここはあたしが引き受ける!」
 立ち上がり翼を広げ、光弾を威嚇射撃で撃ち込んだエルティナは、僕に振り向いて真剣な表情を見せた。
「ルシファーは?」
 聞くと、エルティナは首を振り、天軍の方を向く。
「白の塔のモンスターを全滅させたあと、ほとんど戦えない状態になってた。あの方は、漁夫の利を狙ったあたしに負けを認めて、力だけ託して消えてしまった」
 これも、運命を捻じ曲げた事による影響だろうか、なんて思ってしまう。あのルシファーが計略を失敗するなんて今思うと考えにくいし、泉の適合者? とかいう人物が白の塔のモンスターを倒せなかったのも、それにより元天界最強のルシファーがあっさり沈んだのも、エルティナがここまで戦えたのも、本来分岐しない進行だったのではないか、なんて思ってしまう。
 なんにせよ、今回は助かった。
 天軍の妨害をしたエルティナに皆の視線が向く。裏切り者扱いを受けながらも、エルティナは怯まない。
「白の塔の管理は天界がやってるらしい、あたしが知らないって事はやっぱり天位議会よね。もしルシファー様を攻撃したのが天位議会の意志だとしたら、赦せない。この混乱に乗じて天位議会を引っ張り出して、世界の秘密を聞き出すためなら、あたしは恩のある上司にも刃向かう覚悟だ、ガブリエル!」
 ガブリエルは僅かな時間目を閉じ、氷を形成する。
「貴女ももう少し冷静な思考が出来ると思ったのですが……残念です。ここで私情は挟まないのが、四大天使としてあるべき姿。不穏分子は即刻排除し、平和な天界及び人界を取り戻しましょう」
 戦いが始まる。僕への注目はだいぶ減ってきた。
「武運を祈るよ」
 エルティナにそう一言かけて、走り出す。天軍の魔法が飛んで来たが、さらに強いエルティナの光弾によってかき消された。
「何故皆ルシファー様の墜天に疑問を抱かない、何故一度でも天位議会を疑ったりしない! 正義の組織の上層部の行動は必ず正義なのか。正義とは己が内にあるものだろう!」
 僕の背中が、エルティナの砲弾から発生する闇を感じた。一瞬振り向くと、エルティナの翼の先端は黒く染まっていた。しかし、それは堕天ではなく、天使である事を貫いたままの進化だった。それがルシファーの託した力と意志なのだろう。自分の分まで、世界の深層に辿り着けという、そんな思い。
「今よりエルティナは我らの敵です!広がりなさい、氷菓群蒼の檻よ!」
「その正義の仮面を被った歪みを浄化する!オプスクーリタース、コンバート――ファイア!」
 轟音。僕はこれ以上は振り返らず、その覚悟に託して先を進んだ。

 アークワンは近い。速度を緩めず走る。これはスピード勝負だ。
 アークワンは僕でも倒す事は出来ない。ルシファーも例外挙動によりいなくなったこの世界は、そのまま終わりを迎えるだろう。
 ならば僕は、記憶に残るノエルさんのために、この竜と対峙しよう。
 この世界で何をしても、意味なんて無い。
 なのにどうして、みんなも、そして僕も、今を真剣に戦い抜こうとするのだろうか。
 少し笑って、それからは覚悟の表情へ。
「ようやく来たか。先ほどの竜も価値の無いものだった故、お前が来るのを待っていた。力を示せ、最後まで足掻き続けてみせろ」
 先ほどの竜なんて知らない。過去の因果律を眺めてもそんな存在はいない。また消したのか、こいつは。
「求める力なんてどうでもいい。何をしたって意味が無い。アークワン――キミは奪ったんだ、僕の存在理由を!」
 油断したら即死だ、処理速度を上げろ。
「ノエルさんっ!」
 無言のアークワンから降り注ぐ炎の雨。全て挙動を予測して回避し、速度を緩めない進路を選んで突進する。
「ノエルさんっ! 聞こえる⁉ 僕の声は届いていますか……!」
 声を張り上げ、誰も知らない女の子の名を呼び続ける。それは何のためか、分からないけど。
 撃ち込まれる隕石とその威力全てを無力化し、どう足掻いても回避不可能の全体範囲攻撃は元から使わせない操作を行う。
 客観的に見ても恐ろしい光景だが、それ以上に駆け引きが多かった。
 そしてそれを全否定する炎の魔法陣が、アークワンの背中に出現する。
「もういい、消えろ。結局、これを耐えねば我を超えられないのだ。あの方の希望に、灯火になれ」
 始原の炎の発生予兆。
――ここまでか。
 結局僕の能力は、因果律を視て望んだ未来を選択し、決定する力。
 だが相手の始原の炎は、その僕が選ぼうとする選択肢全てを焼き尽くし、今ここに在る世界がただ存在するだけになる圧倒的な力。あまりにも相性が悪すぎた。
 僕の炎は奴の模倣に過ぎない。偽物が本物に敵うはずもない。
「いや、待て――!」
 一瞬の違和感に時を止めて正解だった。これより一秒後、僕は因果律を焼き払われて消滅の運命を辿る。しかし、だがしかし、見えたんだ。光が。聞こえたんだ、僕を呼ぶ音が。
 どうやら始原の炎は、因果律を滅却するために、発動直前に一瞬、全ての因果を公開状態にしなければならないようだ。まあそれに気付けるのは、因果律を知覚出来る僕みたいな存在くらいなんだけど。
 ススキターやオーディンの時のような時空の穴、あれを一秒以内に発生させ、公開状態の記憶領域にアクセス。造作もない、僕は時を止めたまま動ける。
「捉えたッ!」
 一瞬の大逆転。消える事しか考えていなかった僕は、新たな扉――ノエルさんの存在していた可能性世界へ入っていった。


〇 ● 〇 ●


 長い長い、コロシアムに続く階段を二人でゆっくり歩く。
 季節としてはまだもう少し早いはずだが、小さな雪が少しづつ落ちてきている。
 生きてきた時間の割に小さい僕の右手でも、すっぽり包まれてしまう柔らかい左手。
 聖職者としての姿を感じさせるベルの小さな音が、杖や髪飾りから鳴る。その音は僕の求めていた安らぎそのものだった。
 僕に横顔を見つめられていた事に気付き、きょとんとこちらを向いてきた。輝かしくも眩しすぎない碧眼の宇宙は僕の意識を吸い寄せる。亜麻色の髪がふわりと揺れ、さらりと流れ、頭巾はその尊さを守るために動いていく。
 そして見せてくれた優しい笑み。これさえ見られれば、僕はそれでいいんだ。
 それさえ許されないあの世界を恨む。いや、そんな負の感情は今は要らないか。
 継続的な能力行使で破裂しそうな脳。痛みは我慢だ、彼女に心配されたくない。
 左手の炎もコートで隠す。燃え始めたらその時はその時。また対処しよう。
 時は動き続ける。もうあと一瞬で世界は終わる。一瞬をいくらでも延ばし続け、僕とノエルさんは階段を歩き続ける。
 しかし、永遠なんてものは無い。進むか戻すか止まるかは操作できても、この時間を永遠になんて、元々の長さを変える事は出来ない。
 それを証明するように階段は終盤へ。大自然と太陽と共に、コロシアムが見えてきた。
 どうしようか、なんて聞いてしまったが、ここはまだ道の途中。答えなんて決まっている。コロシアムまで歩く、それだけだ。
 延ばし続けた階段を終え、扉の目の前まで。少しづつ強くなる雪が、整備されないコロシアムの石床を白く染めていく。
 僕は足を止めた。ゆっくり歩いていたので、ノエルさんも気付いて止まれた。
「嫌だ、これ以上は進めない……」
 記憶が戻るのはいい事ばかりじゃない。何度も見てきたこの場所は、もう終わりの象徴になっている。
「エンデガさん。私は、あなたが呼んでくれた時、とても嬉しかったです。またこうして時間を共有出来て、楽しかったですよ」
 やはり呼応してくれてたのか、この時空は。
「どうして、何でも知ったような言葉を言えるの。ここはあの時空の……」
 ノエルさんは首を振り、ちょっと困った表情をした。
「私はどこにもいないですよ。私が存在していたという情報が設定された世界は、全て消えてしまいましたから。これは、エンデガさんの記憶と思いが、あなたの能力と繋がって生み出された幻想――言わば、妄想の具現みたいなものです」
「妄想だなんて……!」
 僕が声を荒げようとして、やめる。目の前のノエルさんにこれ以上追及するな。
「エンデガさんなら、仕組みは分かりますよね……この目の前にいる私も、エンデガさんが思うノエルさんという人格の疑似再現です。こんな無茶苦茶な事を無意識に、一瞬で行えちゃうなんて、神々さえ容易に出来ない事ですよ。誇ってください」
 コロシアムの真上の空に、暗い穴が現れる。重力が変わったかのように体が浮く。僕を連れ戻そうとする、時空の穴だ。
「このっ……」
 もう限界だが、根性で因果律操作と時間遡行を行い、この領域を維持する。また穴が広がる。塞ぐ、広がる、塞ぐ、広がる。代償は計り知れないが、どうでもいい。今があればそれでいい。 
 重力の影響を受けないノエルさんが、僕に語りかける。
「その力を、今だけは使い続けて下さい。そしてそれ以降は使わなくていいです。それが私の願い。今エンデガさんは、始原竜の炎の障壁の内部にいるようなものです。厳密には違いますが、体内です。ここならあの無敵のバリアを無視して、術が届きます。誰も到達出来なかった、奇跡の一瞬です」
「だから……何なの……」
 ノエルさんは目を瞑って両手を胸の前で包み、杖を鳴らす。
「今なら、アークワンを止められます。崩壊し、創世神のためにまた一から再生する、そんな世界を守る事が出来ます。私と別れた後、あなたは何をしてきましたか?楽しい事は、見つかりましたか?私はこの世界には、まだまだ、滅んでほしくないですよ?」
 一度でも時間遡行を止めると、僕はあの世界に戻ってしまう。しかしノエルさんの言葉はちゃんと聞く。相手が考えた上で発言しているのだから、無視は出来ない。
 楽しい事は、見つかったのか、かぁ……
 ノエルさんがいなくなった後、僕は様々な人に救われ、新たな居場所を見つけた。共に戦う戦友とも出会い、黒の大地を駆け抜けた。
 ここで動かないと、あの人達は世界と共に滅ぶ。動けるチャンスが今あるのだ。家族も、ノエルさんも、チャンスが永遠に失われて悔しかったのだ。今ここで救わないでどうする!
 今ならなんだって出来る。どんな術だって使える。なら、どうすればあの竜を止められる?
 既存の応用とはいえ、初魔術をぶっつけ本番だ。僕は時空の穴に向けて、魔術式を展開した。
 そして今更気付く。この行為は、時間遡行の中断を意味する。
 ノエルさんを見る。彼女は大粒の涙こそ流していたが、満面の笑みで僕を見ていた。
「良かった……心配だったんです。故郷も家族も失ったエンデガさんが、その後どう生きていったのか。私以外にも、大事な人たちが見つかったんですね。嬉しいです、おめでとうございます……! そして、今度こそ、さようなら……!」
「そんな言い方……! 違う、僕は……!」
 嬉しいならなんで泣くんだ、いや、嬉しくても泣くのか?
 僕は、僕が生み出した幻影の気持ちが分からない。
 吸い込まれていく僕。離れていくノエルさん。この最後の一瞬。一言、一言何か言えるなら……!
「――ありがとう……」
 時空の穴の中。もう見えないノエルさん。僕は大切な人たちの存在する世界のため、残る力を振り絞った。鳴り響け、ワールドクロックよ。
「秘術解放。展開、開始――ワールド・ビギニング‼」
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登場人物紹介

エンデガ

物語の主人公。幼くして家族を失っている。芸術を始めとした世界の文化に関心があり、今住んでいる狭い浮島から抜け出したいと思っている。

ノエル

エンデガと同じ神学校に通う、サンタクロースの娘。神々への信心がとても深いが、信心の無いエンデガの意思を尊重出来る心も持っている。

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