第11話

文字数 1,980文字

「と、いうことなんです」私は手に持っていたスマートフォンで、ちらと時刻を確認した。デジタル時計の表示では0時を少し回っている。

 時折、PCやスマートフォンをいじくるなど、宇治の態度は決して好ましいものではなかった。だが一応、私の話を漏らさず聞いてくれたようではあった。

「それで、君の言う不可解な点というのは?」
 言われて私は、はっと思い出した。
「それなんですが、当然、なぜ青人が殺されなければならなかったかとか、青人の莉緒さんについての謎めいた発言とか、不可解なことは色々あります。それ以外にもいくつか、事件後になって奇妙に思えたことがあるんです」

「ほお」宇治はグラスに残った酒を飲み干すところだった。私はそれを待たずに言った。
「脱衣所の扉が開いていたんです」
 宇治がグラスを置く音が小さく聞こえた。酔った男の目からは、射すくめるような視線が放たれている。

「脱衣所の扉」
「はい。青人の家に入ってすぐのところに、脱衣所の扉がありました。それを注意深く観察したわけではないです。もちろん、その時点で殺人が起こるなんて予想もしませんでしたから。だから、少し視界に入った程度でしたが、たしかそのとき扉は閉まっていたはずなんです。ただ」

 宇治は呼吸さえ止めたように、こわばった表情を崩さずにいる。私はそのまま話を続けた。
「青人が玄関で倒れているのを見つけて、救急車を呼ぼうとしたときにも、脱衣所の方を見たんですが、そのとき扉は開いていたんです」

「高来くんが、救急車を呼んだの」
「はい。私がリビングの固定電話で119にかけました。正一さんは青人に呼びかけながら、彼にすがりつくようにしていました。私たちもその肩越しに覗き込みましたが、もうその時点で、というか私たちが発見した時点で青人が死んでるのは明らかでした。ただもう、あまりに突然のことでどうしていいかわからず、正一さんに言われるまま私たちは急いでリビングに行きました」

「そこで脱衣所を見て、扉が開いてることに気付いたと」
「まあ、気付いたというか、開いてるなと認識したくらいです。ただ、そのときは、そんなこと気にも止めませんでした。背後では正一さんが青人の名を叫んでいて、事態が事態でしたから。細かいことですけど、後になってから気になりだしたんです。まあ、青人が洗剤やバケツを持ってくるときに、開けっ放しにしただけかもしれませんが」

 宇治は、そうか、と小声でつぶやくと、ここでも考えごとのため言葉を切った。その様子は、次の動作に移るときに使用者を待たせる、何か精巧な構造を持つ機械を思わせた。
「それで、他には」宇治のこの質問は私にも予想がついた。私は用意していた言葉を吐き出した。

「もう一つは、その脱衣所に誰かいたかもしれない、ということです」
 宇治はこれを聞いて、約二時間ぶりに表情らしい表情を浮かべた。若干の驚きを、失笑で中和したような顔だった。

「つまり、青人くんが死んで倒れてるすぐそばの脱衣所に、誰かが潜んでいた」
「そう言い切れるかはわかりません」私はかぶせ気味に言った。「脱衣所に入って、隅々まで確認したわけではないですから。今言ったように、救急車を呼ぼうとリビングに向かいかけたときです。正一さんはまだ泣き叫ぶような声を出したり、動かない青人を揺さぶったりしていました。そのとき、視界の隅の脱衣所で、何か人影のようなものが動いた気がしたんです。ただそのときも、私たちの気は狂わんばかりでしたから。莉緒さんが帰ってきたか、あるいは家政婦さんがまだ家にいるのかな、と軽く考えて、すぐさま電話をかけに行きました。それから到着した救急車に、私と柳が青人の付き添いとして乗りました」

 宇治はここで両腕を上に突き出し、大きく伸びをした。私も一旦話すのをやめ、スマートフォンの時刻を見た。0時を30分も過ぎていて、そろそろ長電話していると感じ始めた。

「じゃあ」宇治も同じ気分でいるようだった。「今日はこのくらいにしようか。ありがとう。色々参考になったよ」
「こちらこそ、こんな遅くまで付き合っていただいてありがとうございました」

「うん。とにかく今は情報量が多過ぎて、正直僕も何が何だかさっぱりわからない。あのノーベル賞を獲った湯川秀樹もね、長考の末に寝落ちしたとき、いいアイデアを思いついたらしいしね。今日はもう、お互い寝ようじゃないか」

 宇治はそう言ってから、所有する車の色とナンバーを告げ、通話を切った。
 酒など一滴も飲んでないにもかかわらず、頭がくらくらして、視界はかげろうのようにいつまでも揺れていた。直接耳に語りかけられた宇治の声が、まだ頭の中で鳴り響いていた。水を飲んで寝床に入っても、直前の体験による興奮はしばらく続いた。スマートフォンを取ったり置いたりするうち、ようやく眠りが訪れたのは夜中2時頃であった。
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