第13話

文字数 2,200文字

 あのつやつやした石段を上り、インターホンを押すと、正一がドアを開けた。
「また、お邪魔します」しかし私は瞬間、途方に暮れた。正一にどのような顔を向ければ良いかわからなかった。正一は明らかにくたびれていて、ここ数日で一気にやつれた印象を与えた。

「青人くんのお父様ですか」宇治がマスクを外した。「この度は痛ましい事件があり、言葉が出ません。申し遅れました。私、マルチメディアクリエイターの宇治兵衛といいます」

「ああ、これはこれは」正一は宇治の姿をみとめ、目を見開いた。昨日、再訪の申し出のため、正一に連絡を取った。そのときに、宇治を連れて行くことを伝えたのだが、驚くのも無理はない。連日、宇治の発言の一つ一つがネットニュースに取り上げられる。私だって、そんな有名配信者が隣に立っていることを、いまだに信じることが出来ないのだから。

 玄関の清掃はすでに完了していて、血一滴の痕跡も残っていなかった。匂いも相変わらずの化学臭が漂うだけで、死体の血生臭さは一掃されていた。そもそもあのとき、あまりに神経が打ち震えていたため、嗅いだはずの血の匂いなど少しも覚えていないのだが。

 リビングには若干、事件がもたらした混沌の余韻が残っていた。私は無意識に、奥に置かれた電話器に近づき、その下の床に散らばった封筒やら書類やらをかき集めた。

「いいんだよ」正一が言いながら、片付けに加わった。「散らかってるところを見せてしまったね」
「いえ」私は拾った物を正一に渡した。「あの日、あまりにも焦って、この辺を滅茶苦茶にしてしまったんで」

 一通り整頓が済むと、正一は私と宇治にくつろぐよう促した。我々はそれに従い、あの日、青人たちと談笑したテーブルに着いた。

「しかし、本当に宇治さんがお見えになるとは」正一が三人分のコーヒーを運んだところで、最後に椅子に座った。このときもまだ正一の顔には、残り香のように驚きがまとわりついていた。

「突然お邪魔して申し訳ありません」宇治はいつもの喜色、さらに詳しく言えば、非日常に接する相手を面白がる笑みを浮かべている。
 三人が顔を突き合わせてからはしばらく、予想された世間話が展開された。警察の捜査が一段落したことや、まだたまにメディアの関係者が付近をうろつくこと。話すのは主に宇治と正一で、私はというと、話の合間に「そうなんですね」などと、自動音声と大差ない相槌を打つにとどまった。

「そういえば、今日は柳くんが来ないね」急に正一に言われ、私は一つ咳払いしてから答えた。
「はい。あいつは今日、大学のゼミがあって」
 隣で聞いていた宇治が、初めてコーヒーに口をつけた。宇治の表情には何らの変化もなかった。だが、話がいよいよ敏感になっていくのを私は空気で感じた。

「こんなことを聞くのも何ですが」宇治が音を立てずカップを置く。「青人くんは、誰かに恨まれていたんでしょうか」
 聞かれた正一も、こういった時間を覚悟していたようで、特に取り乱すことなく話した。

「恨まれていたとは思いません。親は子どもに関することの半分も知らなくて当然ですから、何とも言えませんが。ただ、嫉妬を買いやすかったのでは、とは思います。青人は出来過ぎましたから」

「莉緒さんは」と宇治。「先日、高来くんから聞いたんですが、あるときからふさぎ込むようになってしまったとか」
「ええ。青人が薬学の研究者に向かって順調に経験を積んでいくそばで、莉緒はあるとき歩き疲れたように努力をやめてしまって、それから莉緒は日々をただ漫然と過ごすようになりました」

「今日、莉緒さんはどこへ?」それは私も聞きたかった。私は宇治とともに、再び開かれる正一の口元を見つめた。
「莉緒は」正一はそう言ってから口ごもった。私と宇治が食い付かんばかりに、その場で動かずにいると、正一は口を重そうにしながら先を言った。「莉緒の行方はわからないのです」

「莉緒さんが行方不明?いつからですか」宇治がたたみかける。
「事件のあった日からです。事件のあった日の午前中には間違いなくこの家にいたんですが、午後から外出して、それっきり姿を見せません。まったく、本当に。あの子については本当にどうしていいものやら」

「青人くんが」宇治がさらに訊く。「襲われる直前、彼の携帯に着信があったそうですね。その着信は誰からだったんでしょう」
「ちょっと待ってください」正一はそういうと、額に手を当てながらうつむいてしまった。

「宇治さん、一気に聞き過ぎですよ」私がたしなめると、宇治は正一に対し「そうでした。失礼しました」と珍しく真顔で詫びた。
「いえ、気にしないでください」正一の心痛は見ていて気の毒になるほどだった。体全体に覆い被さる心の重荷が、鉛の塊となって目に見えるようにさえ思えた。

 宇治が急に立ち上がると「場所を移しませんか?地下室に行って気分転換になるかはわかりませんが」と提案した。正一は言われた当初顔を上げずにいたが、こちらが様子を窺っているとそのうち、決心したように腰を上げた。
「そうですね」正一は無理に悲しみを押し殺しているようだった。「地下室をご案内するという約束でしたから」

 私は正一に、無理せず休んでいるよう言いたくなったが、リビングを出ようとする二人の背中がそうさせなかった。やはり、この男の人の扱いについての考え方は常人とは違う、そのように考えながら、私も廊下へと歩み出た。
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