ちか★ちか

文字数 3,574文字

「今、どちらにいらっしゃいますか」
「ここです! 座標軸を送ります! 助けて!」
「聞こえますか?」
「聞こえてます、だから通信を切らないで!」
「駄目ですね、何らかのエラーでしょうか」

 ざりざりとしたノイズの隙間から聞こえる音は無情にもプツリと切れた。
 4度目の落胆と、回を重ねる度にひどくなる絶望。

 ポッドの外では降り積もった闇の上に砂糖菓子のようにチラチラと小さな星々が瞬いていた。それらは連なり重なりとても美しい光景を形作っていたがここからは分厚いガラスに隔てられ、それより前に遥かに遠く触れることはできない。

 ここは緊急脱出ポッドだ。
 僕は咄嗟にポッドに避難してしまった。そうしたら自動的に射出されて。
 同僚からは決して乗ってはいけないと言われた避難ポッドに。
 だってとても苦しそうだったから。水死は苦しい。特に宇宙水死は。

 モニタの表示は2242年10月24日。
 僕がポッドに乗ってから既に121日が経過した。

 あぁ。

 もう駄目なんだろうか。駄目なような気がする。
 この、希望と絶望の狭間のようなじわじわとした嫌な気持ちが精神をずるずると犯していく。気持ち悪い。嘔吐しそう。そんな僕の脳波を検知したのか生命維持装置から何かの薬剤が投与され、気持ちがすっと軽くなった。けれどもまた窓の外を見て、絶望。

 僕は警備船シーシャハイツ号に乗っていた。
 2人乗りの船で外宇宙の植民惑星の警護を仕事としている。ところがある朝、唐突に船が故障した。選択の余地はなかった。あれから何度考えてもそれ以外の結論は浮かばなかった。
 恐らく水を合成する機械が壊れたのだろう。配管や蛇口からはとめどなく水が溢れ出し、しかもそれらは艦内空気中に自由に散らばった。
 艦内が水に浸される。急いで強制排水をオンにしたけれどもとてもまにあわない。僕の同僚はいつのまにか姿が見えず、僕は自ら逃れて配管のないほうないほうに逃げていく。それを水玉が追いかけてくる。

 ここで溺れ死ぬにはどのくらいの時間がかかるのだろうか。

 無重力状態の空気の中で小さな水玉はぶつかり弾け合う。小さな粒が大きくなり、また砕けて小さくなる。それがゆっくりと手すりを伝って逃げる僕を追ってくる。無重力では水は重力に押されて水同士と固まったりしない。だから水は粒のまま、空気の隙間にはまり込む。空気を吸い込めば息はでき、水を吸い込めば窒息する。そんなまだらな半死半生。それが宇宙水死。世界で最高に悲惨な死に方の2番目にランキングされている。

 僕はどのくらい苦しんで、いったいいつ死ねるのだろう。
 だから、逃げに逃げて無意識に廊下の先に飛び込んでもおかしくはない。そこがポッドだとは主体的には考えていなくて、でも頭の隙間にはあったかもしれないけどそんな余裕はちっともなくて。

 けれども結局こんな二択。2番目に最悪の宇宙水死か1番目に最悪のポッド放流。
 緊急脱出ポッドは人道的な見地から宇宙船には必ず備え付けなければならないと法律で義務付けられた設備だ。宇宙船に回復不能な異常があった場合、中に人が搭乗すれば自動的に射出される。つまり船の判断においても船に残れば僕は死ぬしかなかった。宇宙水死。それは確か。

 それでポッドはどこかの船に救護されるまで、搭乗者の生命維持と食料供給が自動でなされる。けれどもポッドの射出方向によっては人がいる航路からどんどんと遠ざかり、未踏の外宇宙に向かってしまう。離れれば離れるほど通信速度も遅くなり、生還は絶望的。特にそもそも母船は外宇宙を巡っていた。ほとんど通る船がない区域。

 ポッドは搭乗者の自然死が認められるまでは生命維持が続けられる。僕は21歳。医療が発達した現代の平均寿命なんて考えたくもない。だから何があってもポッドには乗ってはいけなかったんだ。

 そこからどのくらい時間がたったのか、もはやよくわからない。
 僕の頭の中や精神に異常が認められないように様々な精神薬を投与されるけれども、僕の精神はすっかり不可逆不可避な絶望で塗りつぶされて器質的にも回復できない脳の深い所に損傷を引き起こした。医療技術にも限界はある。
 意識は混濁し幻覚幻聴は増長し、自分がどこにいるのかすらもわからない状態で漂い続けた。
 頭の奥がちかちかと瞬く。

 さらりと風が吹いている。
 海の少しの潮風が僕の肌を揺らす。目の前にはざざりざざりと打ち寄せる白波が深い紺色の海と薄く黄色みを帯びた小さな砂浜の間を行き来していた。更に耳を澄ますとどこかからにゃぁにゃぁと鳥の声が聞こえる。刺激の強いこの光景。

 手元を見ると小さなプレートに冷たい金属の感覚。そしてそこに刻まれた僕の名前と46歳という数字。

 そうだ、僕は3年前に奇跡的に救出された。

 奇跡、そうそれはもはや奇跡と呼ぶにもおこがましいような、この砂浜で一粒の砂を見つけるような可能性の果てに僕は外宇宙を探査する探査船に救助された。射出されてから22年後、僕は射出される前の人生より長い間を狭いポッドの中で過ごし、手も足もやせ細った僕は会社から莫大な賠償金を受けてゆっくりとこの浜辺で暮らすようになった。

 救出から3年経ったけれど僕の手足は動く兆しを見せない。もうずっと動いていなかったのだから、僕の脳の動かそうとする器官が麻痺してしまったのだろうと医者は言った。
 けれども僕は大分幸福だった。あのポッドの中の昼も夜も時間の感覚すらない闇の中に比べれば、この打ち寄せる波だって慌ただしすぎて僕の精神にとっては波乱万丈に思える。

 けれども今でもあのポッドの中の僕の脳裏に刻みつけられた光景は僕の視界をジャックして、この空と海と砂の光景を宇宙の闇に塗り込めようとする。
 ちか、ちか。
 そう、気がつくと、はたと気がつくと僕はあのポッドの中にいる。何故だ、どうして、今までの歯夢だったのか、そんな。声にならない悲鳴を上げる。
 ちか、ちか。
 そしてまたはたと気がつくと砂浜で波の音に耳を傾けていることに気がついてホッと息をなでおろす。

 その2つの世界がまるで明滅するように入れ替わり、僕はまるで夢遊病のようにその2つを行ったりしていた。あの恐ろしいポッドとこの世界。
 もはや何が真実かわからなくなっていたけれど、ポッドの中での僕の感覚は全てが曖昧で茫洋としていて、砂浜での僕は耳や香りや目や触覚が僕をゆらすからきっと砂浜のことが真実なんだろう、と思い込もうとした。

 ちか、ちか。

 ふと、気がつくと再び昏い。
 けれども宇宙とは違う温かい闇。横たわった体に感じる柔らかい木の感触と土の香り。生還してからどのくらい経ったかわからないけれど、長いリハビリの果てに五感の作用は大分回復していた。そしてそれから長い時間を闘病していたことを思い出す。

 結局の所、僕の長いポッドでの暮らしは僕の精神と認識に異常を来して、時折錯乱しているということを医師から聞いていた。よくわからないけれども僕の精神が起因するストレスが体に悪影響を及ぼしているらしい。ポッドでの生活に比べればストレスなんてあってないような気もするのだけど、地球の重力は僕の血液や酸素循環にダイレクトに影響を及ぼすから、無菌の宇宙空間より体を痛めつけているらしい。

 それで多分僕は死んで、棺桶の底で息を吹き返したのだろう。
 そうんなことがあるのかな。でもポッドで救出されるよりはよほど高い確率のような。
 そうすると僕はここで改めて死に直すのか。
 なんだか変な感慨だ。僕の一生は此処で終わる。
 この、一生は。この、救出された一生は。
 手のひらにふれる木の感触。この木も昔は行きていた、はずだ。だから僕はこの木と一緒にようやく死ぬことができる、のかな。
 どのくらいだろう、1日後? 1週間後?
 そんな短い期間で死ねるなら……。

 ちか、ちか。

 そこで急に恐怖に駆られた。そうだ。僕の一生がここで終わってしまうとして、もし僕に二重にからまるポッドと砂浜の二つの一生のうち、この砂浜での暮らしの方が幻想でポッドの暮らしが真実だとしたら。

 感覚を信じるとそんなはずはない、と思う。けれどもポッドではそもそも五感に触れるものがなかった。
 けれども確率を考えるとそちらのほうがありえない、とも思う。けれども可能性はゼロじゃない。
 そしてもしポッドが僕の真実だとしたら、その可能性を突き詰める。

 砂浜での人生が消失すると、もうこれからの一生をずっとポッドの光景しかみることはできない、のか。嫌だ。
 恐怖と恐慌が僕を襲う。
 その強いストレスは僕の心臓を止めた、気がする。なんだかふわふわした気持ち。そうだポッドの中で僕はよくこんなふうに心臓を止めていた。
 もしポッドが真実の場合は強心剤が打ち込まれてまた息を吹き返すのだろう。
 嫌だ。

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