海の幽霊
文字数 3,009文字
ざざんと波が打ち返す。
真っ暗な海に真っ暗な空。今日は分厚い雲に覆われて月も出ていない。
本当に寒い。風は身を切るように冷たかった。コートのポケットに突っ込んで暖めていた手のひらもじわりじわりと次第に熱を失い、指先がかじかみ始めた。わずかに露出した首元に風が触れ、そこから冬が忍び込む。
思わず背筋が揺らぐのと同時に俺の意気も風船に穴をあけてたようにシュルシュルとしぼんでいく。風船の中の空気はわずかにぬるくて暖かく、それがまたよけいに気概を挫く。
はぁ、とうとうため息まで出た。
『やめだやめだ』という心の声と『それでも』という心の声が押し合いへし合いをしている。
きっかけは実に馬鹿馬鹿しい。
夏の終りにこの海にUFOが落ちたらしい。それを見に行こう。
色々と間違っている。海に落ちたなら見れるはずがないじゃないか。
酔っぱらいというものは判断力がないのだ。それで最も見に行こうと言いはった俺が見に行くことになった。そもそも噂を言い出したのも俺じゃなかったしUFOなんて信じてないのに。
冷たい冬の海は酔いをあっという間に冷ましてしまう。冷静になると、俺は何をやっているんだろうな、という感慨が積み増してきた。
この神津 港の海岸沿いは砂浜やハーバーポートなんかのマリンレジャーのメッカだ。
そこに貸コテージもいくつかあって、そのうち1つを友人たちと借りて騒いでいた。
それで俺は何のためにここにいるのかというと、馬鹿馬鹿しいことに朝までUFOが出ないか見張るらしい。
らしいと言っても俺が酒の席であやふやな記憶の中で言い放ったことだ。けれども妙に意地になっていて、今ではとっととコテージに帰って温まろうという俺の中の大部分に対峙して俺をここに引き止めるのは、線香花火の最後の固まりが細いコヨリにしがみついてぷるぷると頑張るような意地だけだった。
腕時計を見る。6時。日の出は6時50分。あと50分。
まぁその少し前には明るくなるだろうし呼びに行かないといけないから我慢すべきはせいぜい30分くらいだろう。
凍死するから帰ろうぜと冷静に頭が働きかけた時、波の間から不意に声がした。
「こんばんは」
辺りを見渡しても人影などはない。当然だ。こんなに寒いのに他に人がいるはずがない。また、ピョォと冷たい風が吹く。けれどもその声は再びこんばんは、と聞こえた。
「誰かいるのか?」
「ええ、いますとも」
「どこに」
「あなたの目の前に」
そうは言っても目の前は暗い海が広がるばかりだ。俺を揶揄うにしてはこんな悪環境でやることではない。つまりは寒さがみせる幻覚だ。馬鹿馬鹿しい。
「あなたは何故こんなところにいるのですか?」
「お前は何でそこにいる」
何でいるかは馬鹿馬鹿しすぎて答えたくない。口に出すなら余計にだ。だから質問に質問で返した。結局、口を開けば冷たい風が俺の中に忍び込む。
「私ですか。私はここに住んでいますから」
「海にか?」
「ええ」
いよいよもって支離滅裂だ。けれどもその息を吸い込むと同時に発音されるような妙なのっぺりとした音に気がついて、どことなく興味を引いた。
「あなたは何故そんなところにいるんです?」
「……夜明けまでここにいる約束をしたんだよ」
「へぇ。どうしてですか」
「どうしてもだ。お前こそなんで海に住んでいる」
「観測しているんですよ」
「何を」
「着陸したUFOを」
UFO。そんな馬鹿な。
二の句を継ぐのも馬鹿らしくてそのまましばらく沈黙が流れた。
海の底にあるUFO。耐水性能は大丈夫なのだろうか。そんなことを考えることも馬鹿馬鹿しい。
「夜明けはまだ先です。申し訳ないのですがしばらくどちらかに移動しては頂けないでしょうか」
「移動?」
「そうです。私は一旦陸に上がりたいので」
ざぱんと波間に何かが揺れた気がした。
陸に上がる? これは幻聴ではないのか? 目の前の海に、本当に何かがいるのか? この冷たく暗い海に。
幻聴かどうか、確かめる方法がある。それはここに居座ればいい。
「他のところから上がればいいだろう。この海岸線は長い。どこからでも上がれるだろう」
「それはそうなのですけどね。この海に入った時に降りたところがちょうどあなたがいるところなのです。ですのでどいて頂かないと困ります」
「人に物を頼むならまずは姿を見せるべきだ」
「……おっしゃることは理解できます。けれどもよろしいのでしょうか。あまり姿を見せるべきではないと言われているのですが」
「そんなもの、見なければ始まらないだろう」
「それもそうですね。では失礼して」
一瞬、全ての波が停止したように世界がずれて見え、俺の正面がぬめりと盛り上がる。
なんだ? 本当に何かいるのか。
先ほどと違い緊張に肩を震わせながら待ち構えていると、その黒い波間がちろりと揺れた。そしてノッペリとした何かがずるりと現れ思わず一歩、足を引く。そうするとその黒い何かはヌタリという音を立ててもう一歩を俺に進める。
その姿は背丈は俺と同じくらい、全身を黒のボディスーツを纏ったようにも見えなくもないけれど、よくよくみればその表面はゆるやかに蠕動していて大きく黒い海牛のように見えた。その尻は未だに海の中にあり、先は見えない。
すとんとその場で腰が抜けた。
「おや。ありがとうございます。もう少しお下がりいただければなおありがたいのですが」
「なん、なんだお前は」
「私? 私は生き物ですよ。ああ、こまったな。夜が少し明けてきた。急がなくては。それでは失礼いたします」
確かにその生き物の向こうの海は未だ黒に包まれていたが、その先にある海と空とを別 つ一本の線はわずかにだけ藍色じみていた。
その生き物はそろりとさらに伸び上がり、にょろにょろとさらに体を伸ばしてどんどん高く立ち上がっていく。その最後の尻尾が海から出るころには海はわずかに紫の光を反射し、そして見上げると途方もなく高く伸びたその黒く長い生き物はいつのまにか空高くにある雲に突き刺さり、するするとそのまま全てが上昇して気がつくと消えていた。
◆
「おい、何やってんだろ風邪引くぞ」
「初日の出もう上がっちゃうじゃん。明ける前に呼べって言っただろ」
「んぁ」
やはり体は冷え切っていた。
間抜けな声とともに目を明けるとすっかりあかるくなっていた。
なんとか体を持ち上げると節々が痛く、体中が凍えてガタガタ震えている。目を上げると初日はわずかにその尻を海面につけているだけで、あたりはすっかり朝だった。
「大丈夫かよ。わりぃな。俺らも寝ちゃったんだよ」
「そいつが見に行くっていったんじゃん」
酒のせいかこんなところで寝こけていたせいかガンガンと割れるように頭が痛い。ふらふらと左右を見てもなにもない。ふぅ。なんだただの夢か。そう胸をなでおろし、痛む体でなんとか立ち上がって呆然とした。
座っていては気づかなかったが立ってみるとようやくわかるその凹凸。
目の前には海から俺に向けて一本の轍ができていた。
それからしばらくして元旦に神津湾で龍が昇ったという噂が流れた。BBSではまだ薄暗い中、なんだか定かではない黒い一本の線が海と空をつなぐ写真がUPされ、偽物だとか偽物にしては作りが甘すぎるとか噂が盛り上がる。
そして俺が悪友たちに龍を見たのかと尋ねられるのはそれからしばらく後のことだった。
龍? あれはそんなちゃちなもんじゃねえ。
Fin.
真っ暗な海に真っ暗な空。今日は分厚い雲に覆われて月も出ていない。
本当に寒い。風は身を切るように冷たかった。コートのポケットに突っ込んで暖めていた手のひらもじわりじわりと次第に熱を失い、指先がかじかみ始めた。わずかに露出した首元に風が触れ、そこから冬が忍び込む。
思わず背筋が揺らぐのと同時に俺の意気も風船に穴をあけてたようにシュルシュルとしぼんでいく。風船の中の空気はわずかにぬるくて暖かく、それがまたよけいに気概を挫く。
はぁ、とうとうため息まで出た。
『やめだやめだ』という心の声と『それでも』という心の声が押し合いへし合いをしている。
きっかけは実に馬鹿馬鹿しい。
夏の終りにこの海にUFOが落ちたらしい。それを見に行こう。
色々と間違っている。海に落ちたなら見れるはずがないじゃないか。
酔っぱらいというものは判断力がないのだ。それで最も見に行こうと言いはった俺が見に行くことになった。そもそも噂を言い出したのも俺じゃなかったしUFOなんて信じてないのに。
冷たい冬の海は酔いをあっという間に冷ましてしまう。冷静になると、俺は何をやっているんだろうな、という感慨が積み増してきた。
この
そこに貸コテージもいくつかあって、そのうち1つを友人たちと借りて騒いでいた。
それで俺は何のためにここにいるのかというと、馬鹿馬鹿しいことに朝までUFOが出ないか見張るらしい。
らしいと言っても俺が酒の席であやふやな記憶の中で言い放ったことだ。けれども妙に意地になっていて、今ではとっととコテージに帰って温まろうという俺の中の大部分に対峙して俺をここに引き止めるのは、線香花火の最後の固まりが細いコヨリにしがみついてぷるぷると頑張るような意地だけだった。
腕時計を見る。6時。日の出は6時50分。あと50分。
まぁその少し前には明るくなるだろうし呼びに行かないといけないから我慢すべきはせいぜい30分くらいだろう。
凍死するから帰ろうぜと冷静に頭が働きかけた時、波の間から不意に声がした。
「こんばんは」
辺りを見渡しても人影などはない。当然だ。こんなに寒いのに他に人がいるはずがない。また、ピョォと冷たい風が吹く。けれどもその声は再びこんばんは、と聞こえた。
「誰かいるのか?」
「ええ、いますとも」
「どこに」
「あなたの目の前に」
そうは言っても目の前は暗い海が広がるばかりだ。俺を揶揄うにしてはこんな悪環境でやることではない。つまりは寒さがみせる幻覚だ。馬鹿馬鹿しい。
「あなたは何故こんなところにいるのですか?」
「お前は何でそこにいる」
何でいるかは馬鹿馬鹿しすぎて答えたくない。口に出すなら余計にだ。だから質問に質問で返した。結局、口を開けば冷たい風が俺の中に忍び込む。
「私ですか。私はここに住んでいますから」
「海にか?」
「ええ」
いよいよもって支離滅裂だ。けれどもその息を吸い込むと同時に発音されるような妙なのっぺりとした音に気がついて、どことなく興味を引いた。
「あなたは何故そんなところにいるんです?」
「……夜明けまでここにいる約束をしたんだよ」
「へぇ。どうしてですか」
「どうしてもだ。お前こそなんで海に住んでいる」
「観測しているんですよ」
「何を」
「着陸したUFOを」
UFO。そんな馬鹿な。
二の句を継ぐのも馬鹿らしくてそのまましばらく沈黙が流れた。
海の底にあるUFO。耐水性能は大丈夫なのだろうか。そんなことを考えることも馬鹿馬鹿しい。
「夜明けはまだ先です。申し訳ないのですがしばらくどちらかに移動しては頂けないでしょうか」
「移動?」
「そうです。私は一旦陸に上がりたいので」
ざぱんと波間に何かが揺れた気がした。
陸に上がる? これは幻聴ではないのか? 目の前の海に、本当に何かがいるのか? この冷たく暗い海に。
幻聴かどうか、確かめる方法がある。それはここに居座ればいい。
「他のところから上がればいいだろう。この海岸線は長い。どこからでも上がれるだろう」
「それはそうなのですけどね。この海に入った時に降りたところがちょうどあなたがいるところなのです。ですのでどいて頂かないと困ります」
「人に物を頼むならまずは姿を見せるべきだ」
「……おっしゃることは理解できます。けれどもよろしいのでしょうか。あまり姿を見せるべきではないと言われているのですが」
「そんなもの、見なければ始まらないだろう」
「それもそうですね。では失礼して」
一瞬、全ての波が停止したように世界がずれて見え、俺の正面がぬめりと盛り上がる。
なんだ? 本当に何かいるのか。
先ほどと違い緊張に肩を震わせながら待ち構えていると、その黒い波間がちろりと揺れた。そしてノッペリとした何かがずるりと現れ思わず一歩、足を引く。そうするとその黒い何かはヌタリという音を立ててもう一歩を俺に進める。
その姿は背丈は俺と同じくらい、全身を黒のボディスーツを纏ったようにも見えなくもないけれど、よくよくみればその表面はゆるやかに蠕動していて大きく黒い海牛のように見えた。その尻は未だに海の中にあり、先は見えない。
すとんとその場で腰が抜けた。
「おや。ありがとうございます。もう少しお下がりいただければなおありがたいのですが」
「なん、なんだお前は」
「私? 私は生き物ですよ。ああ、こまったな。夜が少し明けてきた。急がなくては。それでは失礼いたします」
確かにその生き物の向こうの海は未だ黒に包まれていたが、その先にある海と空とを
その生き物はそろりとさらに伸び上がり、にょろにょろとさらに体を伸ばしてどんどん高く立ち上がっていく。その最後の尻尾が海から出るころには海はわずかに紫の光を反射し、そして見上げると途方もなく高く伸びたその黒く長い生き物はいつのまにか空高くにある雲に突き刺さり、するするとそのまま全てが上昇して気がつくと消えていた。
◆
「おい、何やってんだろ風邪引くぞ」
「初日の出もう上がっちゃうじゃん。明ける前に呼べって言っただろ」
「んぁ」
やはり体は冷え切っていた。
間抜けな声とともに目を明けるとすっかりあかるくなっていた。
なんとか体を持ち上げると節々が痛く、体中が凍えてガタガタ震えている。目を上げると初日はわずかにその尻を海面につけているだけで、あたりはすっかり朝だった。
「大丈夫かよ。わりぃな。俺らも寝ちゃったんだよ」
「そいつが見に行くっていったんじゃん」
酒のせいかこんなところで寝こけていたせいかガンガンと割れるように頭が痛い。ふらふらと左右を見てもなにもない。ふぅ。なんだただの夢か。そう胸をなでおろし、痛む体でなんとか立ち上がって呆然とした。
座っていては気づかなかったが立ってみるとようやくわかるその凹凸。
目の前には海から俺に向けて一本の轍ができていた。
それからしばらくして元旦に神津湾で龍が昇ったという噂が流れた。BBSではまだ薄暗い中、なんだか定かではない黒い一本の線が海と空をつなぐ写真がUPされ、偽物だとか偽物にしては作りが甘すぎるとか噂が盛り上がる。
そして俺が悪友たちに龍を見たのかと尋ねられるのはそれからしばらく後のことだった。
龍? あれはそんなちゃちなもんじゃねえ。
Fin.