記憶探し:シナプス辿る7000字

文字数 7,381文字



『ねぇ、覚えてる? 一緒に水族館に行った時のこと。クラゲの足がたくさん青く光って綺麗だった』

 覚えてる、覚えてるよ、侑李(ゆうり)。その時に視覚的に把握できればいいんだってひらめいたんだから。だから届いて、お願い。

 そのコールタールのような真っ暗闇に再びとぷんとダイブする。手を伸ばして探っても最初はうまく繋がらない。でもさっきのは去年の夏の記憶。この区画では探し物は見つからない? シナプスの繋がりが薄いか、もともとなかったか。それじゃ、他の場所、他の場所。
 少し足を伸ばして、まだ歩いていない部分に潜る。ふいに浮かぶ侑李の声。

『それにしたってあんなところにお弁当置いておくことはないじゃない?』

 うん、そうね。あれは私が悪かった。でも今知りたいのはそれじゃぁなくって。
 足を止めてジジジという小さなパルスを発生させているシナプス情報を拾い上げてしまうと、繋がっていた他の部分は真っ黒闇に沈んだ。深く潜るとよりたくさんの光につながるけど、この重たい液体の中では上と下がわからなくなって元に戻れなくなる可能性がある。

 私と侑李は記憶の研究をしていた。
 侑李とは大学一年の時に語学で同じクラスになった。私は侑李のサラサラと光を受けて時々金色に光る髪の毛と、たまに薄い水色みたいに見える瞳で風のようにうっすら微笑む姿がとても好きだった。そんな風に笑う時は、侑李のまわりもなんだかつられてふわっと明るくなるように感じた。
 そう思いながら暗く昏い塊の中からぷかりと浮かぶ。引っ張り上げた細く輝くパルス。

『ああ、今日も徹夜、仁凪(になぎ)、コーヒー入れて来る。蜂蜜入れる?』

 うん、コーヒー淹れて、ほしい、な。
 だめだ、涙が出そう。けれどもこの過去の記憶を今と混ぜるわけにはいかない。一度上がろう。
 目を開けてフルダイブ用の旧型ヘルメットを脱いで、ふぅ、と息を吐いた。
 ガラスの壁で区切られた先で柔らかな台に侑李が横たわっている。うっすらとまぶたは開いているけど、その瞳はキラキラもしてないし何も映していなかった。手首と足首と胸元。それから頭に大量に生えたコードとプラグ。
 併設されたミニキッチンでコーヒーを淹れた。ブラックと、蜂蜜入り。侑李、淹れてきたよ。匂いだけでも感じて。インスタントだけど侑李が好きなブラックコーヒー。

 二〇五八年。
 人は朝起きて身を整えると、ヘッドセットを被ってVRの世界にフルダイブ(没入)することが一般的になった。仮想空間(VR)上で交流、学業、仕事をする。ゲームは今やほぼVRだろう。フルダイブ型システムは電気信号を直接脳の神経に流すことで脳内に直接情報を再現する。

 二十一世紀初頭、全盲の女性の後頭部視覚皮質に埋め込まれた電極を通じて視覚情報を再現することに成功した。その映像は最初はモノクロで薄ぼんやりとしたものではあったけれど、その技術は見る間に進歩し鮮やかな色彩を再現することができるようになる。一旦そうなれば話は早く、視覚だけではなく聴覚、味覚、触覚と言った情報をVRで再現することが可能になった。
 そしてそのころには脳に電極を挿す必要もなく、ヘッドセットが人毎に異なる神経組織を自動的にスキャン解析してそれぞれの五感に相当する神経部位を特定、そこに情報を上書きできるようになった。使用に操作も負担も全くない。人は現実ではなくVRの上でも様々なものを現実と同じように体感することが可能になった。
 アウトプットの研究も同時に進行した。運動障害を持つ患者の脳波をモニタリングして対象の運動信号を読みとり、車椅子等移動ユニットや通信機器へ出力する技術が研究された。VR情報を受け取るだけでなく、脳波を読み取ることでVR空間を眺めるだけでなく自律的に干渉することが可能となった。それはVR上からVRも含めた現実に干渉する技術として確立した。

 今ではそう、ヘッドセットは前頭から耳の上と後頭をつなぐ薄いベルトに頭頂部を経由する何本かのベルト、つまり帽子のフレーム程度の被服でVRの世界にフルダイブできるシステムが主流となっている。

 それで私と侑季が研究しているのは脳波に現れない記憶の再現研究だった。
 VR上でリアルタイムに思い描く内容を相手に伝えることはもちろんできる。けれども記憶というのは脳波の動きによらないところに格納されている。
 特に長期記憶は海馬を通じて大脳皮質に広く分散保持される。特定の記憶を司るシナプスを電気的に刺激することで『思い出す』。シナプスに同じ情報を頻繁にインプットするとより太い回路が形成されて分厚くなった記憶を『思い出しやすくなる』。ほとんど使用しない記憶はやせ細ってアクセス困難になって『思い出せない』。だから本の内容をタイトルで思い出せなくても、再び手に取り目を滑らせればその本について記録したシナプスに電気信号が流れ、そういえばこんな内容だったと『思い出す』んだ。

 それで私は、私たちは記憶を失った人の脳に擬似的にダイブし、VRの情報を流し込むようにその脳の神経の上を渡り歩いてシナプスを刺激して、本人が認識が困難となった記憶をすくい上げる、そのための研究を行っていた。
 それでその目処はある程度立っていた。記憶を取り出す理論までは。あとはそれを記録し、記憶として再構成して脳に再び植え付ける、それだけ。そしてその構想は既に侑季の脳内で形作られていたはずだ。だから、侑季の記憶をたどればその方法がわかる、はず。

 けれども侑李は今目の前に横たわっている。耳元にそっとコーヒーを置く。ふうわりと漂うインスタントな芳しい香り。私と侑李が何千回も淹れあった飲み物。これで少しでも記憶が喚起されれば。頬を撫でる。
 今の侑李は植物状態。脳自体は劣化しないけど、新しい外部刺激がないからシナプスはどんどん痩せ細っていく。
 私が好きだった侑李のこころがどんどん薄れていく。

 そう、私は侑李が好きだった。色々な意味で侑李がとても好きだった。侑李にとって私は妹みたいなものなのだろうけど、朝から夜まで研究室で二人きりで一緒に過ごして、その毎日の半分以上を共有していた。たくさん話をした。休日もよく一緒に出かけた。買い物やカフェ、まるでデートみたいに手を繋いで。侑李の暖かな手のひらに触れる。この感触は変わらないのに、握り返されたりはしないのだ。

 侑李は脳神経学、私は工学博士だ。最初に会ったのは共通語学で他に共通科目はなかったけど、その存在に一目惚れした。だから風にゆられる木の葉のように私は侑李を追いかけた。侑李は最初はどこか迷惑そうな様子だったけど、そのうち諦めてつき合ってくれるようになった。一緒に映画を見たりとかご飯に行ったりとか。侑李の趣味は食べ歩きと、それから絵。大学のサークルには入らずに、休日は公園やカフェで風景を描く。

「つまらなくない?」
「全然つまらなくないよ」
 本当に? それならいいけど。

 言葉とともに再現された記憶風景。
 手元に街並みを描いたクロッキー。少し若い私が正面にいて侑李の視点で私との会話が進む。今までより記憶が少し長い。喉に流れるブラックコーヒーの苦味。苦手だけど、これが侑李が好きな味。そう思うとなんだがその酸味すら愛おしい。ふっと全てが消え失せた。再び広がる暗い闇の海。これが今の侑李。侑李により潜り入り込む。深いというのはイメージで、正確には『広い』かな。

 記憶は大脳皮質に分散記録されている。
 記憶とはつまり神経、シナプスの繋がり、脳波の旅路。だから広範囲のシナプスを渡り歩れば歩くほど、それだけ関連する記憶情報が浮かび上がる。息を止めて深く潜り、クラゲの長い足を引っ掛けるようにたくさんのシナプスを光で繋いで釣り上げる。範囲を広げるほど、その分私の脳の負担は増える。はぁはぁする小さな息切れ。
 でももう一回。当たりをつけて深く潜る。薄ぼんやりとした微かな光を灯しながら先程と異なるルートで繋いでいく。あれ? ちょっと待って、ここはさっき通った? どっちから来たっけ? よくわからずに急いで外を目指す。

 手元の半分ほど減ったコーヒーカップと仁凪の顔、それから論文資料に視線を行ったり来たりと彷徨わせる。
「総当たりじゃダメなの?」
「それは無理。無関連の視覚と聴覚と触覚の記憶を一度に思い出しちゃうよ? ごちゃごちゃに繋がって何が何だかわからなくなるんじゃないのかな」
「そっか、難しいね」
 ふふ、仁凪が真剣で可愛い。
「そう、回路が繋がるところをたどらないと。特定のルートじゃないと特定の記憶には繋がらない」
「それならむしろシナプスの繋がり方からサーチすればいいのかな。樹状突起の起点の向き」

 見つけた。関連記憶。これは割と最近の記憶。ここを拠点に侑李のシナプスを辿ればきっと構想を見つけられる、かな。けれどもこのあたりは……場所がよくない、どうしよう。本当はもう少し違うところに拠点を構築したい。記憶を探る拠点を。
 とりあえずもう一度、大丈夫と思われる範囲で潜る。ぽぅぽぅとした光の線に沿って脳波をつなぐ。うっすら線が見えるようになってしまった。この辺りはもう何度も通って『思い出しやす』くなりすぎている。

 あれ?
「仁凪、何かついてる」
「えっ?」
「なんだ? お菓子? ポテチっぽい。ふふ、また食べながら寝たでしょう」
「うう、そういえばそう。ちょっと大詰めだったし。他についてない?」
「んー、大丈夫かな。かわいい」
「もう、からかわないで」
 本当に可愛いなぁ。

 近づいている。このあたりだ。これは一ヶ月前位の会話。この辺りに探している侑李の記憶がある。何箇所も侑李の大脳皮質を渡り歩いたけれど、このあたりが一番近い。困った。困ったな。

 状況整理。
 困った時、侑李はいつもそう言っていた。
 侑李が海岸で倒れているのが見つかったのが4日前。すぐ救急搬送された。検査の結果、脳の作用は失われておらず、心臓も動き自発呼吸も再開した。けれども意識は回復しなかった。今は鼻から胃にチューブを通し経鼻経管栄養でエネルギーを摂取している。

 植物状態の原因は大脳の軽度の損傷。損傷自体は再生手術によって既に回復している。識が戻らないのは器質的な問題ではなく、その精神だとか心の問題ではないかと医師は言う。精神的な領域については医学が発達した現在でもわからないことが多い。

 私と侑李はこころというのは結局の所、記憶なのだと思っている。記憶というのはその人の全てだ。多くの出会いや行動の結果の記録がその人に影響を及ぼし、その人の人格を形作っていく。だからきっと大事な記憶が歯が抜けるように欠けていけば同じ人格は保てない、と思うんだ。

 だから私は侑李の記憶の中から『記憶を再構成して植え付ける』方法論をサルベージしている。それをこの私たちが作って夢と名付けた機械にプログラムして起動する。それで侑李を復元する。それが私の目的。そう、侑李の横たわる台にもたくさんそう書いてある。決して目的を見失わないように。
 そう、私は、仁凪。

「侑李は一生友だちだよね?」
「もちろん。なに、改まって」
「いやいやだって、出会って7年の記念日ですから」
「乙女かよ」
「乙女ですよ~? この記憶をずっと留められるように早く完成させましょうコレ」
「うん、でもそう、あと一息。
 結局、記憶とはシナプス同士の繋がりでその配列だ。どのように接続されているのか。電気信号が繰り返し同じルートを通ることで轍ができるように道ができて記憶が定着する。その近くの道を辿ることで想起される関連記憶。だけどそもそもそのシナプスの回路は人によって異なっている。
 手順はわかる。まずその記憶、シナプスの通り路を正確に記録する。ルートの順位付けをしたままその記録を保管。それができればその周辺に同様に反応を示す関連シナプスを配置していく。確定ルートを特定できなくとも一連の記憶が相互に補完して……
「侑李、またボーッとしちゃって」
「ごめんごめん」

 私の馬鹿!
 なんでそこで話しかけちゃったの。ばかばかばか。大事なところだったのに!
 記憶をそのまま保管、その方法も本当は確立できていない。そう、シナプスの形は人によって違うから、どんなふうに配置するかまだ検討段階だった。だからシステム完成段階で私か侑李で外部保存を試そうと思っていた。急いで進めて侑李の記憶のバックアップを取っていたら困らなかったのかも。それで今やってる記憶の抽出方法はシナプスの形状をそのまま転写して、いや、今はそれはいい。それよりまた潜ろう駄目な範囲は、ええと。
 手元のメモを確認する。そう、シナプスの配置。複数ルートから推認できる、欲しい情報がありそうなルート。それが少しだけ体感的に分かってきた。でもここからこの範囲は行っちゃ駄目。ここを上書きすると私が機械を調整できなくなる。だから、駄目、そうすると可能な範囲はええと。

「それにしても暑いよ、暑すぎるよ」
「そうねぇ、侑李、夏はどっか行く?」
「とりあえずそんな余裕はないね。研究を勧めなきゃ」
 仁凪と一緒にいられるし。
「そういうことじゃなくて、一緒にどっかいこうよってこと」
「ああ、いいね、温泉でも行く?」
「夏なのに温泉? 暑くない? 海とかどう」
 侑李と海かぁそれもいいな。その景色をずっと残したい。だからシナプスというのは球状に皮質状に形成されていて複層で……

 目の前の黄色いワンピースをだらしなく着崩してイエローチェーンのブラストラップをチラ見させる仁凪に目を細める。可愛い。
 ちょっと違った。でも、海。そうだ、海、なんだったかな。ええと。
 でも、そうか、欲しいのは記憶の再構築方法。球状で、安定。

 そう口の中で繰り返した瞬間、言葉にならない泡のような思念でふつふつと脳裏に満たされる。これが侑李の思考の形。浮かび上がる関連記憶。私の脳に深まる轍。
 大丈夫、仁凪はもう全部わかってる。記憶は再構築されている。それをそのまま転写すればいいんだよ。
 目の前が霞む。私が見る私。んんん。なんだっけ。データはあって、それを再構成して入力するプログラムを作らないといけないんだ。だから。

 認識がグラグラする。けど、PCを起動。
 コンソールを開く。ツリーをつなげる。選択されるコマンド、それから、そうだ再構築だ。私は私の脳の動きをモニタリングしている。七十五時間十二分分。どのように私の中で侑李の記憶が光を描き、私の大脳皮質上で侑李のシナプスの回路が創成されていくか。結局の所、侑李の記憶を保管できるのは今の段階では同種の媒体しかなかった。つまり私の頭の中。
 何度もなぞって明確になっていくシナプスの道。その狭間を埋めて泡沫のように次々と浮かび上がる関連記憶。仁凪の中のもともとの記憶はどんどん侑李の記憶が上書きして、すでに認識の主体がどちらなのか、もはやよくわからなくなってきた。私は仁凪なのか侑李なのか、手元のたくさんのメモがなければもはや主観的には区別が困難だ。

 でも死守できた。仁凪の工学の知識は。
 侑李においては脳神経学に相当する知識の部分。多分ここからたどればもっと早く、私と侑李をうまく分離したまま構想にたどり着いたのだろう。けれども私が自分の知識を失ってしまえば機械を完成させて侑李の記憶を侑李に戻すことができない。私にとっての勝利条件は私、仁凪が大好きな侑李の復元。
 それに侑李を元に戻すことができれば、侑李はきっと私のこんがらがった頭のなかから私独自の記憶をサルベージしてくれる、といいな。
 それからしばらく頭をふらふらさせながらコードを組み上げた。完成した。これでもう、大丈夫。だからこの工学の知識も手放しても大丈夫。
 手元にメモを追加。

『プログラムは完成。私の記憶を全部集めて、私にもどして、仁凪を治して』

 それから私は目の前に横たわる私の脳内のシナプスを歩き回って可能な限りの記憶を上書きした。私の大好きな仁凪の体に。私の中にいる仁凪がどんどん失われる。悲しい。けれども私が私であるためには、全てを拾わないといけない。それが仁凪の望み。仁凪が好きな私。
 目の前に置かれた2つのコーヒー。私が好きなブラックと仁凪が好きな蜂蜜入り。ブラックを入れようとしても、仁凪の体は無意識に蜂蜜の瓶をとって入れてしまうから二杯分。蜂蜜入りなんて前は考えられなかったのに体が欲しているのはこっち。仁凪の中の私の中に、確かに私の大切な仁凪がいる。不思議な気持ち。私は自分を仁凪だとはちっとも思えないのだけど、やっぱり私は仁凪なんだろう。

 記憶を集めて再構築してアウトプット。それを自動で行えるよう、私の中の仁凪が私たちが作った機械に組み上げた。あとは起動させるだけ。

 アウトプット用のヘッドセットを被って私の隣にくっつけた台に横たわる。横を向くと本体の私がぼんやりと半分目を開けている。自分の外に自分がいる。ひどく奇妙な感覚だ。気がつくと、手が勝手に本体に伸びて、本体の手のひらの上に手のひらを重ねていた。本体の指先がピクリと動く。仁凪、早く私に会いたいんだね。

 これから私と仁凪が長い時間をかけて記録した私の記録、つまり侑李の記憶を本体に転写する。けど、それは機械にモニタリングされた上書きされた侑李の記録だけ。その時に走査線上に発生した光の粒にすぎないこの私の認識は移らない。私は自分を侑李としか認識できないけど、これは仁凪の体の仁凪の脳波の作用なんだから。
 本体が起動したら本体はこの仁凪の中にある仁凪の記憶を拾い上げる。それこそが私と仁凪の希望。そして私のこの認識は再び上書きされる仁凪の記憶に覆われて消えてしまうだろう。一時的につけられた轍の上に本来の轍が新しくつけられるように。それでいい。私は仁凪である仁凪が好きなんだから。

 仁凪のお腹の上に仁凪の反対側の手を乗せる。
 でもそれでいい。仁凪と私が混ざる過程で私は仁凪にとても愛されているのを知った。私と同じように。そしてその思いも私が上書きして消してしまった。だからこれはもとに戻さないといけない。私は消えても私は仁凪の底に一緒にいる。でもその前に最後にメモを残しておこう。

『Love each other』

Fin.
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