第9話 伝説のオペラ公演は、プリマドンナの奇跡のダイエットでもたらされた

文字数 3,435文字

 声楽家のミキは年末恒例のベートーヴェン交響曲第9番の演奏会に、ソプラノのソリストとして引っ張りだこで、可能な限りスケジュールを調整して沢山の公演に出演している。
 ここが稼ぎ時だ。本当はオペラ公演の主役をやりたいのだが約100キロの巨体の為、ミキが演じたいと思っているヒロインの役はオーディションを受けても落とされる。

「今日も素晴らしかったよ」

 第9公演の終演後に指揮者に呼び止められた。

「来年の椿姫のヴィオレッタ役には、是非キミの声が欲しいんだけど…」

「願ってもないお話です。よろしくお願いします」

「でもねえ。病身のヒロインが、こんなにいい体格だと厳しいんだよ」

 指揮者にずばっと言われミキの表情が曇った。

「自分でもオペラでの役どころを広げようと、あらゆるダイエットに挑戦したんですが、結局いつも挫折しまして…」

 ミキの言葉を制して、指揮者は声をひそめて言った。

「私の知人の科学者が、なにやら血液関係の画期的な発明で実証実験をするらしい。治験者を募集しているそうだが、募集条件が『健康な肥満体で体重が大幅に減ってもいい人』、ということなんだ。キミにぴったりじゃないかと思ってね」

「本当ですか? 是非お願いします」

 ◇◇◇◇

 1ケ月後、ミキは某病院の一室にいた。

「今日から極秘の治験をこの3人でやるので、まず自己紹介からね。私はドクターRです。よろしく」

 白衣を着た中年の女性のそっけない自己紹介に、ミキは疑わしそうな目を向けた。

「声楽家のミキです。3ケ月後のオーディションに合格するために、どうしても50キロダイエットしないとだめなんです。よろしくお願いします」

「大相撲、幕下の杜甫の海でごんす。親方からは上を狙うには、あと50キロ増やせと言われて1日5食べとるんだけんど、全然ふとらんので、もっと食えと言われ食っても、リバースするんでごんす」

 と涙ながらに語った。

「それは、つらかったわね。治験中、杜甫の海さんはいつも通りのお食事でいいのよ。では、さっそく始めましょう。ミキさんはこちらのベッドに横になって。
 この装置にミキさんの血液を循環させます。装置内にナノマシンが入っていて、肥満となる栄養成分物質を取り込むの。取り込んだナノマシンだけが、こっちのラインに入って栄養成分を放出して、生理食塩水に混ぜて杜甫の海さんに点滴するのよ。本当は毎日やりたいんだけど、週3回1日2時間かければ、3ケ月で目標の体重になるはず」

「ドクターR、質問してもいいですか?」

「どうぞ」

「栄養成分抽出と、点滴は別の日にはできないんですか?」

「ミキさん、いい質問ね。この栄養成分は極めて不安定な物質で現在の技術では10分も保存できないのよ。その場で人体に入れないと効果がなくなるから2人同時にやらないとダメなの」

 ミキのちょっと不服そうな表情を見て、ドクターRからいままでの笑顔が消え、真剣な表情で言った。

「この発明の真の目的は、おでぶちゃんのダイエットじゃないの。輸血や点滴で救えない衰弱した子供達の命をつなぐ為の新しい試みなのよ」

 ミキと杜甫の海の表情が引き締まった。


 ◇◇◇◇

 1ケ月後、経過は順調で、杜甫の海プラス20kg、ミキマイナス20kg。

 ここからが大変だった。杜甫の海が大阪場所の場合は、取組後に新幹線で戻って夜に実施したり、ミキが地方公演での帰路、暴風雨で飛行機が欠航になった時は夜行バスで帰京し、なんとか間に合わせた。ドクターR曰く、3日間開けると折角の苦労が水の泡になってしまう可能性があるらしい。

 3ケ月後、2人の体重は目標をクリアした。

 ミキ    98.5kg → 48.5kg
 杜甫の海  115.5kg → 168.5kg

 特に、ミキは驚くほどの美しい容姿になっていた。
 この数値にドクターRは明るい声で2人に言った。

「仕上げにリバウンドを防ぐために、1ケ月間週に1回やるわよ。これからは食事のコントロールもしっかりね」


 ◇◇◇◇

 治験最終日。

「2人ともいい数値ね。あとは自己管理で維持してね。治験は成功で、いいデーターがとれたわ」

「わたし椿姫の主役のオーディションに合格したんです」

「自分は先場所、幕下優勝して十両昇進が決まったでごんす」

「2人ともよかったわね。打ち上げをやりたいところだけど、これからは食事でのコントロールが大事だから名残惜しいけど、ここで解散としましょう」

「ありがとうございました」

「ごっつぁんです」


 ◇◇◇◇


 1ケ月後ミキが主役の歌劇「椿姫」は明日が初日を迎える。今日の通し稽古も無事に終わった。
 ミキは、あれから体重をキープできていた。肝心の声のほうも、最初のうちは体が小さくなった為か、声量が落ちたと言われたが、小さな体で今までの声量まで出せるようになった。明日に向けて何の心配もない。
 日本のオペラ界に、伝説のプリマドンナ『マリア・カラス』の再来が登場との情報が伝わり、前売りチケットも完売である。
 夜10時になり明日に備えて、そろそろ寝ようとすると、スマホにドクターRからの着信音が鳴った。

「ミキさん、こんな時間にごめんなさい。お願いがあるの」

 いままでの落ち着いた声と違う切迫感が伝わる。

「はい。何でしょう?」

「今から病院に来れないかな。3歳の女の子が衰弱死しそうなのよ」

「でも私、明日が椿姫の初日なんです」

「それでも何とかお願い。治験者の中で血液型等が適合しているのは貴方だけなの」

「判りました」

 ミキは意を決してタクシーで病院に駆けつける。

 ベッドに横たわる少女はぐったりして、生気が感じられない。

「ミキさんの血液中の栄養成分を抽出して、この子に点滴することで、手術に耐える体力に回復させるの。では、始めるわ」

 いざ始めると、少女への点滴は少しずつの為時間がかかり、翌日の午前中いっぱいまでかかることが分った。そこで当日のリハーサルは、ミキが上演の総監督を電話で説得して、異例の主役なしで実施することにしてもらった。

「ありがとう。ここまでで大丈夫よ」

 ドクターRの言葉に、うとうとしていたミキが時計を見ると開演時間が迫っている。
 ミキがベッドから立ち上がろうとしてふらついたので、ドクターRが付き添いタクシーに乗せた。

 劇場に到着し、メイクし衣装を身に付けて舞台に立つ頃には、ミキの顔には生気が戻ってきた。
 ヴェルディ作曲歌劇「椿姫」の第1幕が始まる。娼館でのパーティの場面である。
 ミキがヴィオレッタとして初めて舞台上に登場すると、観客はその容姿の美しさに魅せられなんともいえない歓声が上がる。
 見せ場のアリア「花から花へ」では最後のハイトーンがばっちりきまった。

 最終の第3幕。ヴィオレッタは死の床にいる。幕切れで最後の声を出しベッドで息を引き取るヴィオレッタ。

 ミキの迫真の演技に、盛大なブラボーと万雷の拍手が贈られた。しかし、ミキはカーテンコールに出てこない。舞台裏があわただしくなり、救急車が呼ばれた。

 ミキが目覚めると、ベッドの傍にドクターRの姿が見える。そして隣のベッドでは、杜甫の海が心配そうに自分を見つめていた。
 ドクターRがミキの手を握って話しかける。

「今日が九州場所の千秋楽で、取り組みが終わってから、万一に備えて航空便で来てもらってたの」

「あの子はどうなったんですか?」

「手術は成功して、安定しているわ」

「よかった」

 杜甫の海の栄養素をもらいミキの体力は回復し、オペラ公演の2日目、3日目の公演を問題なく終えた。
 しかし、共演者、指揮者、評論家等、関係者は初日のミキはヴィオレッタに憑依したような鬼気迫る演技だったと口をそろえて絶賛し、伝説の公演となった。

 その後、ミキは「ラ・ボエーム」のミミ役、「カルメン」のカルメン役、「マノン・レスコー」のマノン役等を演じて評判をとったが、徐々に体重が増え始め、3年で元の体形に戻った。

 一方、杜甫の海も、十両から幕内、小結まで破竹の勢いで昇進するも体重が減り始めると共に番付を落とし、3年で元の体形に戻り幕下転落をもって引退し部屋付き親方になった。


 さらに時は流れ、5年後ドクターRのもとに挨拶状が届いた。
 相撲部屋、『杜甫の海部屋』を部屋開きしたとの案内である。

「へー、ミキさんが相撲部屋の女将さんとはね。あの治験でいい副反応が出たのね」

 部屋の若い衆を従え親方と並んだ写真では、明らかにミキの方の恰幅が良く、ドクターRはにやりとした。


 おしまい。
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