再会 ――日の面

文字数 12,933文字



「小鷹王子でいらっしゃいますな」
 あの声――洞の中で聞いた、命令を下していた男の声。
 私が足をもつらせながら沢を走り、大きな岩にとりついてようやくその上に顔を出した時、もうそれは始まっていた。
 そこはまだ二の社には少し下流だった。沢の音が高く、黒い岩が幾つも折り重なっている。
 その岩の上に、小鷹王子と、彼を守るように熊名が立っていた。
 王子は冠も鎧もつけておらず、ただ左手に太刀を持っている。泥で汚れあちこちが裂けた白絹の上衣の胸ははだけて、裸の胸に青い大きな勾玉が一つ、革紐に通されて下がっていた。袴も汚れて片方は足結の紐すら失われていた。長い髪も結われておらず、肩から背中へとなだれ落ちている。
 熊名の衣は更に傷みと汚れがひどく、もはや元が何色であったのかさえ分からなくなっていた。やはり鎧はつけていなかったが、右手に柄が半分に折れた矛を携えている。
「ぬしら、何者かっ!」
 熊名の太い声が闇を切り裂いた。蛍がいっせいに舞い立ち、空へと消えていく。
 二人の回りを、五人の男が取り囲んでいた。みな黒一色の衣を着て、細身に仕立てた袴のふくらはぎをぴったりと同じ色の布で巻き込んでいる。髪も短く刈り込まれ、その姿は川鵜か青鷺を思わせた。
「兄上の手の者か」
 王子のよく通る声が響いた。
「小鷹王子、お捜し申し上げました」
 王子の丁度正面にいた小柄な男が、そう言って片膝をついた。この声だ。洞で聞いた声。
 同時に他の男たちもいっせいに腰を落とし、王子に向かって臣下の礼を取った。
「何……?」
 王子も熊名もとっさのことで呆然としている。
「首都の兵士ではないのか。お前たちは何者だ」
 熊名が問いただした。あの声の男がやはり頭なのだろう、それに答える。
「ご無礼いたしました。わたくしは『海辺の一族』の玄鰐(くろわに)さまの使者としてまいりました」
「何、海辺の玄鰐だと」
 王子が驚いたように言った。男は頷く。
「玄鰐さまは、此度のことに大変驚き、またお怒りになって、あまたの使者をお放ちになりました。すでにお迎えの一団もこちらに向かっております。どうか王子、我々と共にいらしてください」
 王子の顔に戸惑いの色が浮かんだ。
「嘘よ!」
 その瞬間――私は岩の上に飛び出して叫んでいた。
「王子! それは嘘です! その男たちは海辺の使者なんかじゃない!」
「告茱!?
 王子が目を見開いた。と同時に、私に一番近い所にいた男が跳ね上がった。
「おのれ、何者か!」
 身を翻す暇もなかった。まるで(ましら)のようなすばやい動きで、男は私をはがいじめにした。しかし私は怯まなかった。普段からは考えられないような勇気が湧き起こる。
「王子、騙されないで! 私は確かに聞きました! この人たちは首都の誰かの命令で動いているのです!」
「何を言う!」
 私の喉元に何か尖ったものが押しつけられた。その瞬間だった。
「告茱に手を出すな!」
 小鷹王子の鋭い声が響き、熊名が岩から右手へ飛んだ。
 あっと思う暇もなかった。熊名は何の躊躇もないかのように、すぐそばにいた一人の男の胸を、持っていた矛で貫いた。男は悲鳴を上げることも出来ずその場に倒れた。矛をぬく瞬間血がしぶき、熊名の顔が、胸が、真っ赤に染まった。
「な――何を!」
 頭が絶句する間に王子も動いた。太刀を抜き放ちざま岩を飛びおり、左にいた男を切り捨てた。男は長い悲鳴を引いて沢に落ちた。
「捕らえろ!」
 頭が叫んだ。私を押さえていた男の手が混乱で緩んだ。私は力いっぱい体をひねり、その手を振りほどいた。
「あっ、待て!」
 男は焦って私に手を伸ばした。私の肩からかかっていた袋の紐を掴む。
「あっ」
 しかしその手はすぐに離れた。
「うぐっ……」
 奇妙な声を上げて男はそこに崩れ落ちた。彼の胸から鈍く光る太刀が生えていた。
「小鷹――王子!」
 私はその場にしゃがみ込みそうになりながら名を呼んだ。王子は男から太刀を引き抜きながらにやりと笑った。
 みればいま一人の男も、すでに熊名の手によって、血飛沫を上げながら沢の砂利の上に仰向けに倒れていた。
「何を――いったい何をなさるのか王子」
 もう残っているのは頭らしき男だけだった。男は狼狽し、後退りしながら王子に問いかけた。
「何故我らの言うことを信じてくださらぬ。玄鰐さまがお嘆きですぞ」
「女に刃物を向け、口を封じようとするものに何の真実(まこと)があるのだ」
 王子は言った。その口調は恐ろしいほどに冷淡だった。
「何を言われます! 王子、ご自分のお立場をお考えください!」
 男は怒ったように言い募る。
「もはや、小鷹さまのお命を救う方法はたった一つ――玄鰐さまを頼り、海辺の一族を後ろ盾に、戦うことだけでございます」
「王子、聞いてはいけません!」
 私は男を遮るように声を張り上げた。
「それも(はかりごと)です!」
「何を言うのだ娘!」
 男が怒鳴り返す。
「そんなことをして首都に何の得がある!」
「でも私は確かに聞きました!」
「愚かな! 王子、その娘こそ首都の間諜ですぞ!」
「違います!」
 私はすがるように王子を見た。王子は黙って私たちの怒鳴りあいを聞いていたが、やがて鋭く言った。
「もうよい。二人ともやめよ」
 王子は太刀を鋭く振って血を払うと、静かに鞘に収めた。そして男に向き直った。
「玄鰐の叔父の使いを名乗る男よ。もしお前がまことに叔父の元から来たのであれば、戻って叔父に伝えよ。おれは『海辺の一族』の元に身を寄せるつもりはないと」
「な――なんですって?」
 男は意味をとらえかねたのか、力なく聞きかえした。
 王子は続けた。
「叔父の厚意には常に感謝している――だがおれは、兄上に弓引くつもりは毛頭ないのだ」
「し、しかし王子」
 男は思わず立ち上がり、王子に駆け寄ろうとしたが、いつの間にか彼の真後ろに立っていた熊名に気付いてそこに留まった。
「雄隼さまは、王子のお心はご承知の上でこのような謀をおめぐらしになったのでしょう。それではもはや、小鷹さまがいかに真実をお話になったとて、最初から偽りなのですから聞き届けていただけることなど万に一つもございますまい」
「何度言われても同じことだ」
 王子はやや強く言った。
「おれはお前と共には行かぬ。幸い熱も引き、傷の痛みも薄らいだ。明日の朝にはここを立ち、おれは首都へ戻る」
「首都へ!」
 男は仰天し、言葉を失ったのかその場で立ち尽くした。
「しかし――しかし王子」
 やっと我に返ったのか、なおも言い募ろうとする男に、王子はにやりと笑った。
「それとも――この娘の言うように、お前たちはまことは首都の使いなのか。ならばおれは逃げ隠れなどせぬ。今すぐおれを首都へ導け」
 男はどうしていいのか分からないのか、ただ言葉を失って立ち尽くした。
「どうした。何故黙っている」
「王子――今一度お考えを――――」
 やっと震える唇を開いた男を、王子は一喝した。
「黙れ。おれは一度口にしたことは決して違えたりはせぬ。さっさと去ね。叩き切るぞ!」
 王子は再び太刀を抜きはなった。男は怯んで数歩後退り、やがて再びその場に首を垂れた。
「――分かりました。ただ今はこれにて身を引きまする」
「去ね」
「はっ」
 男は風のように去っていった。
 私は、そのやりとりをただ呆然と見つめているしか出来なかった。
 いや――私もまた、あの男と同じように絶句していたのである。
 辺りはすでに夜の帳に包まれていた。だが王子の顔がくっきりと見えるのは何故だろう。
 ああ――今日は満月なのだ。私は梢の上に金色の大きな月が昇っているのにやっと気付いた。
「告茱。大丈夫か」
 王子がゆっくりと私に近づいた。
「王子――小鷹王子!」
 私は差し伸べられた手にすがりつくようにして、思わず問いただしていた。
「さっき仰ったのはご本心なのですか!?
「何だいきなり」
 王子はむっとしたようだった。だが私は構わずまくし立てた。
「首都へ帰るなどと――まさか」
「本心に決まっているだろう!」
 王子は私を怒鳴りつけた。
「お前までがおれの言葉を疑うのか! そもそもお前は何故こんな所にいるのだ!」
「王子をお救いしたかったからです!」
 私も負けずに叫んでいた。
「私は信じています! 王子が謀反など企てておられないことを――みな誰かの謀なのだということを! だから、こんな私でも何かのお力になれないかと思って――それなのに、どうして首都に戻るなどと仰るのです!」
「それではお前はどうしろというのだ!」
 王子は私を睨んだ。
「お前が言ったのではないか! 先ほどの男たちは海辺の使いではないと! 共に行ってはならぬと!」
「それは――――」
 私は怯んだ。
「それは――私は確かに聞いたのです、あの者たちが首都の話をしているのを――ですが、そう、そうだわ、ただ海辺の民の名を騙っただけかもしれないではないですか。本当の海辺の民は王子を待っておられるのではないですか!」
「それではお前は――おれに、海辺の民を頼って反乱を起こせと言うのだな」
 王子の声が冷たくなった。切れ長の目が細められる。
「お前もさきほどの男たちと同じだ」
 吐きすてるようにして、王子は私に背を向けた。そして太刀を上げて彼方を指差した。
「去ね。父の元へ戻るがいい」
「戻る所などありません!」
 私は体ごとぶつかるようにして王子の背にすがった。
「例えあったとしても私は戻りません! 私には王子の仰ることが分からない。首都にだけは戻ってはなりません!」
「おれは――命を惜しいとは思わぬ」
 王子は乱暴に振り返った。
「おれが海辺の民を頼ったらどうなる。海辺の一族は、確かにおれに力を貸すだろう。玄鰐はあまたの領民(べのたみ)を召し出して、常なら鋤や鍬を、舟の舵を、漁り網を持つ手に剣を握らせ、おれの為に死ねと命ずるだろう」
 私の肩を掴んで揺さぶる。唇の色も褪せた青ざめた顔。
「それが兄と当麻の巡らした筋書きだ。海辺の民がおれを担ぎ出し、反旗を翻すのを待っているのだ。上手く行くことは万に一つしかなかろう――多くの人々の命を犠牲にすると分かっていて、おれはそれに賭けようとは思わぬ。お前も王族の姫なら分かるだろう!」
「それは――――」
 それは私が今朝、来椋に言われたことと同じだった。
 王族は、自分の為だけに生きているのではない。
 国津神天津神に連なる末裔として、人を束ねるものとして、ただ自分の為だけにその力を使ってはならぬのだ。
「でも――――」
 それでも私は――――
「私は――王子に死んでほしくないのです――!」
 気付くと私の目からは涙が溢れ出していた。ずっとこらえていたものがふいに緩んで、もう自分では止められない。
 急に膝に力が入らなくなり、私はその場にしゃがみ込んだ。飲みこむことの出来ない嗚咽が私の喉を蛙のように鳴らす。
「泣くな告茱」
 王子が私の傍らにしゃがみ込み、私の肩に手をかけた。その温かさが嬉しく、私はまた泣いた。涙が止まらない。もう顔はひどいことになっているだろう。王子を見ることが出来ない。私は両手で顔を覆う。
「告茱――――」
 王子はそれを拒絶と取ったのかもしれない。困ったように私の名を呼ぶと――突然私を横抱きに抱き上げた。
「きゃっ……!」
 私は驚いて、思わず王子の首にしがみついた。王子は一瞬顔を顰めた。
「痛い」
 見ると衣服の下、王子の肩に、細く裂かれた布が巻き付けてある。あの時の矢傷だ。
「あ――申し訳、申し訳ありません、下ろして、下ろしてください」
 しかし王子は構わず、私を抱いたまま上流へと歩き出す。
 温かい胸。響く鼓動。
 蛍が舞っている。
 満月の光を受けて水面と岩の角は白く、影は黒々と濃い。
 王子の髪も服も、この間のようなよい香りはしておらず、汗と泥と、ほんの少しの血の匂いがした。
 


 王子が私を連れてきたのは、二日前、私が王子をここに案内した時に、彼が興味深そうにのぞいていたあの洞だった。
(王子――覚えていてくれたのだわ)
 王子は洞の前で私を下ろし、中にはいるように促した。
 人の腰ほどの高さの入り口をくぐると、奥に行くにつれ天井は高くなり、一番高い所では、私なら何とか立ち上がれるほどになっている。中は乾いた砂地で、大人が数人は横になれる広さがあった。
 その中央に火がおこしてある。今は炎を上げてはおらず、赤い炭が心地よい温もりを放っていた。
 王子は火のそばに足を組んで座り、自分の隣に座るようにと私を手招きした。熊名は中には入ってこず、洞の入り口の外に腰を下ろしたようだ。
 王子が枝をくべて火を燃え立たせると、洞の中がぱっと明るくなる。私は急に思い出して、肩から掛けていた麻袋を開け、栗と胡桃の小袋を王子に差し出した。王子は袋の口を開けるなり、童児のように嬉しそうな顔になった。
「おれは焼き栗が好きなのだ。熱い方が美味いが、炭火に入れるかな」
「もう焼いてありますから、火の近くに並べるだけでいいのではないですか」
 私が言うと、王子は栗を一つ一つ炭火の近くに置いた。しかしこらえきれないのか最後の一つはそのまま殻をむき口に入れる。
「美味い」
 更に続けて胡桃の袋から中身を掴みだして口にほおばる。ほどけたままの長い髪と汚れた上衣の彼は、そうしているとまるで別人のようで、私は少し笑ってしまった。
「お前も食べろ」
 王子は私の前に袋を差し出す。それを受け取ろうと左手を伸ばそうとして私は思い出した。王子の指輪をなくしてしまったことを。
「まだ怒っているのか」
 思わず手を引いた私に、王子は少し苛立ったように言った。
「ち、違います――怒ってなどいません――ただ申し訳なくて――あの」
 私はうつむいて、小さな声で詫びた。
「いただいた指輪を――ここへ来るまでの間になくしてしまいました」
「そうか」
 王子はそれ以上何も言わなかった。
 沈黙が落ちた。焚き火がぱちぱちとはぜる。
 赤い炎がゆらゆらと、王子の整った顔を照らし出す。
 その横顔を見ていると――私はまた、涙がこらえきれなくなった。
 ほんの数日前に彼を美しく飾っていた冠や首飾り、腕輪や指輪。
 それらは今はもうなく、代わりに泥と血が彼の衣を彩っている。
「何だ告茱、まだ泣くのか。どうした」
 困惑した王子の声を聞きながら、私はまた両手で顔を覆った。
「どうして――こんなことになってしまったのでしょうか」
 私は呻いた。
「――小鷹さまを陥れようとなさったのは、小鷹さまの同母兄(いろせ)で、今の日継王子であられるお方だと聞きました――それが何故」
「兄のことは、おれにもよく分からないのだ」
 小鷹王子は目を閉じ、不機嫌そうに言った。
「年は十近くも離れているし、兄は生まれた時から日継王子と決まっていて、今もそれはけして揺らいでいない。ご本人も普段はしごく生真面目で、態度も重々しくご立派だ。しかし、どうしたことか、おれのことは最初からお嫌いだったようだ」
「嫌い――って……」
 私は呆然とした。嫌い、という言葉が、これほど似つかわしくないこともないのではないかと思えたのだ。
 ただ「嫌い」というだけで、これほど大がかりな企みに同母弟(いろと)を落とすだろうか。そんなことをして、いったい日継王子に何の得があるというのだろう。
「熊名の顔の傷を見るがいい」
 小鷹は片手を上げて、入り口を指し示した。
「あの左目は、兄が奪ったのだ」
「えっ……」
 ここからでは入り口の外に座る熊名の背中から肩の辺りしか見えなかった。だが、あの無惨につぶれた左の目と、そこから頬にかけて走る長い傷ははっきりと思い出すことが出来る。
「おれは、まだ五つかそこらだった。母が言うには、おれを初めて父王の宮殿に伴っていった日のことだそうだ。おれ自身はよく覚えていない。おれが兄に何か粗相をしたのかもしれぬ。ただ、おれの目の前で、兄が熊名に太刀を振り下ろしたのは忘れられぬ」
「そんな――ねえ熊名、本当なの」
 私は思わず外の熊名に問いかけていた。熊名は姿勢も変えず、感情のこもらない声で「本当だ」と言った。
「雄隼王子は、俺に自分の舎人にならぬかとお声をかけられた。だが俺はそれを固辞してしまった。今にして思えば、あれがすべての始まりだったのかもしれぬ」
「下らぬことを」
 小鷹王子は吐きすてるように言った。
「お前が気に病むことなどない。お前はおれの母から正式に任ぜられたおれの守り役なのだから、そこで断るのは当然のことだ。兄も、熊名に直接言ってどうなるものでもないと分かっているはずなのに――――」
「雄隼さまは、小鷹さまを恐れておいでなのではないですか」
 私は、ためらいつつ言った。
「小鷹さまが、あまりに人に愛されておいでなので――――」
「それを言うなら、兄には、もっとも強大な豪族である『野守の一族』がついている。兄の一の后は、今の野守の首長で中央の大臣、当麻の娘だ。すでに男児を産んでいて、兄の即位の暁には、ただちにその王子が日継王子と呼ばれるようになるはずだ」
 王子のため息が、重く洞に流れた。
「おれにはまだ正式の后がおらぬ。母が何かとえり好みをした上に、父や兄の思惑も複雑で、なかなか決まらぬままに年月が過ぎた――そもそもおれは、中央のそういったごたごたが嫌いなのだ。大王の座などに何の興味もない。おれはことあるごとに父王や兄上にそう申し上げた」
 次第に声が小さくなっていく。
「おれは――ただ、いろいろなことを知りたい――遠い景色をこの目で見たいだけなのだ――あの時兄上は分かってくれたと思ったのに」
「あの時――って?」
「去年の夏のことだ」
 王子は目を上げ、虚空に彷徨わせた。
「その少し前――春先のことだったと思うが、おれは兄上に、いつかこの国をすみずみまで旅してみたいと話したことがあった。その時兄は呆れたようだったが、それからしばらくして、おれは兄に呼び出された」
「雄隼王子に――――」
「おれたちの父王はずっと体調がはかばかしくなかったが、その頃また夏風邪をこじらせて枕も上がらぬようになられていた。おれを呼び出した兄は、近々自分が即位することになるだろうと言った――――」
「――それで……?」
「兄の言葉を、今もはっきりと覚えている。いつもおれに対しては不機嫌なのに、その時はとても優しげな声だった。『小鷹よ、我が()しき同母弟よ』」
「『愛しき同母弟よ』と――――」
 王子は頷いた。
「そうだ。兄は言った。『お前が常から言っていた、鄙の国々を巡ってみたいという夢が、俺にもようやく分かった気がする。俺は近いうちに大王となり、首都の中ですら気軽に出て行けぬ身になろう。そうなってみて初めて、遠い異国への憧れが俺の胸にも湧き起こってきた』と」
 王子は、自嘲の笑いを漏らした。
「今にして思えば――あれも偽りだったのだな。だがおれは、さもあろうと思ってしまったのだ。そして兄上が『なれば小鷹、お前は夢を叶えるがいい』と言った時、それに飛びついてしまった」
 王子が小枝で火をつついた。火の粉がぱっと舞い散る。
「兄が即位すれば、兄の嫡男である維主鹿王子が日継王子となる。だが維主鹿王子は未だ襁褓も取れぬ赤子だ。おれも今までのように気楽に遊びほうけてはおられぬだろう。幸い父王はすぐに持ち直し、今すぐどうこうということはないと思われた。だから――――」
「だから、王子はこの旅に出られたのですね」
「そうだ」
 王子はうつむいた。
「おれは政には関われぬ身だし、また関わるつもりもない。だが、見聞を広め民の暮らしを間近に見れば、あるいはいつか、兄上や維主鹿王子の力になることもあるやもしれぬ。おれは兄がそれを期待しておれを送り出すのだと思ったし、何よりも――兄が」
 王子は――声を詰まらせた。
「兄が、おれを『愛しき同母弟』と呼んでくれたことが嬉しかった。おれをやっと分かってくれたのだと――思ったのに」
 かすかに肩が震えている。
 ――泣いているのだ。
 彼の頬に光るものが流れ落ちた。唇が震えている。嗚咽をこらえているのだ。
 その横顔は、いつもよりずっと幼く見えた。
 どうしてこの人が、こんな目に遭わなければならないのか。
 何一つやましいことなどない。これほど(あか)き清き心の人はいないのに!
「王子――私と逃げましょう」
 私は思わず、彼の肩にすがりついていた。
「逃げる――? どこへ、どうやってだ」
 王子は片手で頬の涙を擦るように払うと苦笑した。私は懐から、来椋の絵図面を引き出して王子の前で広げた。
「これはこの辺りの洞の絵図面です。洞の中には遠い森の中につながっているものもあるのです。それを伝って行けば、追手の目をくらますことが出来るかもしれません」
「絵図面?」
 王子の目が輝いた。彼はそれを私の手から取り、興味深げに繰りながらじっと見つめた。
「よく出来ている。お前が描いたのか?」
「いいえ、私の守り役の来椋です」
「ああ、あの小柄な男か――これだけ調べるにはかなりの時間がかかっただろうな」
 王子は図面上の墨の跡を指で辿りながら、一人ぶつぶつと何か呟いている。
「なるほど――まるで蟻の巣のようだ。この洞から入り、こちらへ出て……ここにつながるのか、面白い」
 王子はにやりとしながら私に言った。
「来椋に言っておけ。これはとても大切なものだと。出来れば秘事(ひめごと)として、山の王族の一握りだけで管理せよと。うっかり悪意を持つ者に知られては大変なことになるぞ」
「王子――――」
 私は来椋を誉められて嬉しくなり少し微笑んだ。しかしその後に気が付いた。
「王子――私はもう来椋と会うことはないと思うので、それをあの子に返すことは出来ません」
「何故だ。どうして会わない?」
「え――――」
 私は狼狽した。
「王子――私と一緒に逃げてはくださらないのですか?」
 王子は図面を再び重ね合わせ、巻き取りながらそっけなく答えた。
「それは出来ぬ」
「どうしてですか!」
 再び彼にすがりついた私の体を押し離し、図面を手に戻そうとする。
「おれは、大王の子だ」
 王子はきっぱりと言った。
「己にやましいことなど何一つないのに、命惜しさに逃げることはおれの誇りが許さぬ」
「そんな――そんなこと」
 私は理解出来ずに、図面を放り出して王子の胸を叩いた。
「王子は仰ったではありませんか! いつかこの秋津島を端から端まで歩いてみたい、外つ国へも行きたいと! 命を失ってしまってはそれも叶わないのです!」
 涙がまた噴き上げ、声は猿の吠える声のように揺れた。
「私と行きましょう……私ではお役に立てないかも知れませんが、この命も体も王子に差し上げます! 遠い北の国や、南の海に浮かぶ島々には、今なお大王家にまつろわぬ民が住むとか――どうにかして、そこまで辿り着ければきっと――――」
「北の雪国に、南の海か」
 小鷹王子が、ふと遠い目になった。
「ああ――一度見てみたかったものだ。深緑の海の底に生える宝の木や、吐く息も凍るという白銀の世界を」
「王子――私と、私と行きましょう」
 私は畳みかけるように王子の肩を揺さぶった。だが王子は、微笑みながらゆっくりと首を横に振った。
「おれは――行かぬ。もう決めたことだ」
「そんな……!」
 私は体をねじるようにして振り返り、外に座っている熊名に訴えた。
「お願い熊名。あなたからも言って! あなたは王子の舎人――この人の命を守るのが努めでしょう!」
 だが、熊名の声は静かだった。
「――俺は、王子の太刀だ」
「……太刀?」
「俺は、王子の鎧、王子の戟、王子の盾だ。主の行く所へ行く。ただそれだけだ」
 私は熊名と王子を交互に見た。王子は熊名の言葉に満足そうに頷いた。入り口からはそれきり、もう何の声もしなかった。
「だって――でも」
 暗闇の中に赤い炎の揺らめく洞で、私はもはや言葉を失い、ただただ、だって、でも、と繰り返すことしか出来なかった。
「どうしても首都へ帰るの……?」
 かすれた声で私は呟いた。王子は頷く。
「死ぬと分かっていても――?」
 私は――その場に両手をついて崩れ落ちた。
「だったら――何の為に私はここに来たの?」
 それはこの人を救う為ではなかったのか。
 私は――どうすればいいのだろう。
 王子の手が私の肩に触れた。顔を上げると、王子が私の顔を覗き込んでいた。
「泣くな、告茱」
「王子――死んではいやです」
 私は王子にしがみついた。
「生きてください――お願いです。生きる道を探してください。私にそれを手伝わせてください……私、何でもします、王子の為なら何でも」
「告茱」
 王子は私を抱きしめた。
「告茱、許せ――もう決めたことなのだ」
「私に――出来ることはないのですか」
 私は泣きじゃくりながら言った。
「それならば何故、神々は私をここにお導きになったのです……私はそれがきっと意味のあることなのだと――そう信じたかった」
「意味は――あるのかもしれぬ、告茱」
 急に、何かに気付いたように王子が囁いた。
「え――?」
 彼が少し体を離した――と思った時、私はその指にあごをすくわれた。
「あ……」
 私の唇に、熱く柔らかいものが覆い被さった。
 初めての――接吻。
 私は思わず強く目を閉じた。怖さと、恥ずかしさと――体の奥から突きあげてくるような熱っぽい何かに意識が白くなる。
 それはほんの数瞬の間だったのだろう。
 やがて唇は離れた。私は目を開けることが出来ずただ震えていた。
「告茱――おれが好きか」
 王子が耳元で囁く。私は何度も頷いた。
「好きです――お慕いしています! きっと初めてお目にかかった時から……」
 私は、それを言う為にここに来たのだ。
 王子は微笑んで頷き、私をそこに押し倒した。驚いて体をよじる私を強く抱きすくめる。
「ならば告茱――お前はおれの子を産め」
 彼の手が私の体をさぐった。羞恥で体がかっと熱くなった。
「王子の――子を」
 彼はもどかしそうに衣をはぎ取り、首に接吻した。そうしながら私に言った。
「今ごろは――首都のおれの宮殿は、兄上や当麻の兵に取り囲まれているだろう。おれに仕えた采女や女儒たちは、一人残らず引き出され、おれの子を孕んでおらぬか調べられ、あるいは殺されてしまったかもしれぬ」
「そんな――――」
「お前は生き残れ、告茱」
 王子は囁いた。
「たった一人のおれの女として、この山で生きてくれ」
「王子の――女として――――」
「おれを覚えていてくれ、告茱」
 忘れることなど出来るはずがありません、と私は言おうとした。だがその口は接吻でふさがれて、後は言葉にならなかった。
 王子の胸は熱く汗ばんでいた。彼の首に掛けられた勾玉の飾りが私たちの間で揉まれ、尖った先が私の肌を時折刺した。
 固く閉じていた目を開けると、沢の音は耳に遠く、入り口から舞い込んできた小さな蛍が、岩の天井で小さく明滅していた。

     3

 明け方の冷え込みに私が目覚めると傍らには誰もいなかった。炭火はもう砂をかけて消され、巻き取られたままの絵図面が転がっている。私は驚いてそれを掴むと洞から飛び出した。
 まだ日の出前と思われたが、辺りはすでに薄明るく、朝靄が白く霞んでいる。洞の前には王子と熊名がいた。髪を整えて再び耳連に巻いた王子は私に笑いかけた。
「何だ、起きたのか。眠っているうちに行こうと思ったのに」
「そんな……いや……」
 私は王子に駆け寄った。
「もう行くのですか――あの……やはり首都へ――?」
 王子は頷く。私は唇を噛みしめた。
「どうしてもお心は変わらないのですか。私と逃げてはくださらないのですか」
「もう決めたことだ。何度も言わせるな」
 私は言葉を失った。また涙が滲む。泣くまいと思っているのに。
 黙りこんでうつむいた私に、王子は今までで一番優しい声で囁いた。
「すまぬ告茱。こんなことにならなければ、おれはお前を后にしていただろう。共に首都の白木の宮に立ちたかったな」
「ならば今からでも私をお連れください!」
 私は彼に抱きついた。彼は私を一瞬だけ強く抱きしめ――それから体を離した。
「それは出来ぬ。そんなことをしては、山の一族にも嫌疑が及ぶ」
「それでは、せめてこれをお持ちください」
 私は絵図面を差し出した。
「街道の方には、夕べの男たちの仲間がいるでしょう。洞を伝って山を抜け、少しでも首都へ近づく道をお捜しください」
「むろんそうするつもりだ告茱。だがもうこれはいらぬ」
 王子は笑って図面を押し返した。
「言ったろう。一度見た絵図面はけして忘れぬと。もうすべて頭の中に入った。これは来椋に返してやれ。大切な山の宝だ」
「王子――――」
 王子は胸に下げていた青い勾玉をはずし、その細い革紐を私の首に掛けた。
「これをお前にやる――なくした指輪の代わりだ。おれの童児の頃からの守り玉だ」
「え……そんな大事な物を――――」
「大事な物だから、お前にやるのだ」
 王子はにっと笑った。
「おれは、首都に戻れば殺されるだろう――その珠も取り上げられる。おれの骸はおそらく埋葬されるまい」
「そんな……」
「首を切られて川に流されるか、首都の北東(うしとら)にある死人原(しびとがはら)にうち捨てられて鴉や山犬に食われるかな」
「やめて――やめてください、そんな恐ろしいこと」
 私は耳をふさぎ首を振った。王子は声を立てて笑った。
「だからそれはお前にやる。大切にしてくれ。そう、もしも」
 王子は私の腹を指差した。
「もしも――夕べの共寝でお前が孕んでいたならば、生まれてくる子にやってくれ」
「み――王子」
 私は……もう何も言うことが出来なかった。勾玉を額に押し当てて私は嗚咽した。王子は困ったように言った。
「もう泣くな。笑って見送ってくれ」
「ここで、お別れなのですか――――」
 王子は頷いた。熊名が申し訳なさそうに言葉を継いだ。
「姫をお館の近くまで送っていって差し上げたいが、叶わぬことを許していただきたい」
「そんな――私のことはいいのです。せめて、せめて抜け道の洞に入る所まで」
「それは出来ぬ。いつどこで首都の兵士たちに会うか分からぬのだ。ここからなら姫はお一人でもお戻りになれるだろう。水の神に、沢を血で汚したことをよくよく詫びておいてくれ」
「熊名――――」
「さあ、行くぞ熊名!」
 小鷹王子が彼を呼んだ。彼は私に一礼して、王子と二人歩き出した。
 朝靄は晴れていこうとしていた。川の石を踏む二人の足音が遠ざかっていく。
 私はこらえきれなかった。後を追って走り出したが、幾らも行かぬうちに石に足を取られて転んだ。
「小鷹――! 小鷹!」
 私は初めて彼の名を呼んだ。彼は振り返り、地面に這いつくばっている私を見て笑った。
「さらばだ!」
 そう言って手を振った彼のその笑顔を、私は忘れない。
 実の父と兄に裏切られ、これから死地に向かうというのに、なんと朗らかに笑うのだろう。
 私の瞳に、涙が膨れ上がった。後から後からあふれて頬を伝い、夕べの彼が口づけた首筋を、胸を濡らした。
 私は、王子たちがもう見えなくなってしまっても、ずっと、ずっと、そこに座り込んでいた。
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登場人物紹介

小鷹王子(おだかのみこ)

やまとの大王の末王子。17歳(数え年)。美貌で素直な性格で、誰からも愛されるが、政治には興味がなく、自分の気の向くままに暮らしている。

告茱姫(つぐみのひめ)

首都の南に小さな領地を持つ豪族の娘。17歳(数え年)。幼いころから巫女として育てられたので、世の中のことをなにもしらない。

雄隼王子(おばやのみこ)

大王の長子。小鷹とは同母兄弟。25歳(数え年)。誰からも尊重される立派な日継王子(皇太子)だったが、なぜか小鷹に異様な嫉妬心を燃やす。

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