あにおとうと ――月の面
文字数 9,440文字
1
俺は窓際に立って、闇に沈む庭に目を当てていた。
ついさっきまで渡り廊下を照らしていた篝火は消え、月が雲に隠されて、庭にはただ沈黙がわだかまっている。
遥か遠く犬が吠えた。
生暖かい風が、ふと鼻先をかすめる。
『
すぐ近くで、低い声が囁いた。
『
声の主の姿は見えない。
『小鷹王子は、山の一族の領地へお入りになりました。ご視察を終え、今宵は山の館で一夜を過ごし、明朝お発ちになる様子です』
庭の彼方に目を上げたまま、俺は答える。
「分かった。手はずは整ったか」
『全てお言いつけ通りに』
俺は頷いた。
「去れ」
『御意』
再び沈黙が訪れた。
俺は空を見上げる。雲の切れ間から十日余りの月が顔を出し、わずかの間だけこの王子宮の板葺きの屋根を光らせて、また雲の中へと沈んでいった。
もう後戻りは出来ない。
俺は、歯を食いしばった。
知らず知らずに息が荒くなる。
半年余り前、朗らかに笑って首都を発っていった
それは今に始まったことではなかった。もうずっと――ずっと前から。
俺は――小鷹の姿を見、その声を聞くたび――いや、人づてにその噂を聞いただけでさえ、胸をかきむしるほどの苦しみと動悸に襲われる。
『おれはあのようなものはいらない。あれは兄上のものでしょう』
小鷹のその言葉――あのくったくのない顔がまた思い出されて、俺は叫び出しそうになった。
不快だ――不快だ!
何故お前はいつも俺をこれほどまで不快にさせる!
「誰か――誰かおらぬか!」
俺は大股に歩みながら声を張り上げた。廊下から
「何かございましたか、大兄雄隼さま!」
「眠れぬ。女どものところへ行く」
「は――」
俺は舎人を突き飛ばすようにして廊下へと出た。
わざと荒々しく音を立てて、后たちのいる
全てはあの日から――俺が小鷹と初めて会った秋の日から始まったのだ。
2
――そう。それはもう十二年も前のことである。
あれは、
日の出から延々と続いた堅苦しい儀式が終わり、父王の宮殿の中庭は、酒の匂いと肉のはぜる音に満ちていた。
庭と、それを取り巻く回廊のそこここで、舞人の袖は色とりどりに翻り、楽人が繰り返す異国の旋律に、
十四かそこらだった俺はいつものように、庭に面して開け放たれた広間の、父王の右に座を占めていた。一段高くなった上座には、熊や鹿の毛皮が敷き詰められ、光る貝細工と錦で彩られた椅子が置かれている。
そこに座ることを許されているのは、父王と、日継王子である俺だけだ。
周囲には、父と共に政を司る中央豪族の首長たちが、十人余りも顔を並べていた。
「大兄雄隼さまも御立派になられましたな」
「まこと、日に日に大王に似てこられる。大王も御立派な跡継ぎを得られてお幸せなことです」
首長たちは酒で真っ赤になった顔で、口々にそんなことを言う。
着飾った
俺は、とても気分がよかった。
そう――この日この時まで、俺は、自分がこの世でもっとも幸福な男だと信じていた。
俺の日常は、いつも光の中にあった。
白木の館、黄金の腕輪、翡翠や白玉の首飾り、そして美しい女。
俺が望んで手に入らぬものなど何一つなかった。
俺の額には、日継王子のみに与えられる黄金の冠が輝いている。
それを見上げる時、誰もが賞賛と畏怖のまなざしになる。
俺は、この国を領有く大王の、ただ一人の後継者なのだ。
俺は、首長たちに勧められるまま酒を呑み、ひどく酔っていた。
と――――
ざわざわ――と、広間の人々の頭が揺れた。
今までばらばらに騒いでいた人々の視線が、突如一所に集中していく。
「あれがたべたい!」
酒宴の席に似合わぬ、幼い
「……何だ――?」
俺は、采女を抱いたまま、視線を巡らせた。
入り口から、一人の女が、四、五歳の童児を連れて入ってくるところだ。
女は――俺の母、大后だった。
白いものの目立ち始めた髪を流行の形に結い上げ、茜の衣をまとっている。
俺は思わず目を見張った。
俺はそれほど酔っているのだろうか――母はあんなに美しい女だったか?
もう三十代の半ばに差し掛かっているはずの母が、十ばかりも若返って見えた。
明るい頬の色。にこやかな顔。宴に合わせたのか派手目の化粧も、けして品がないようには見えない。
「おお――お美しい」
豪族の首長たちからも、そんな感嘆の声が漏れるほどだった。
五、六人の采女と
母は鷹揚に頷いてそこに腰を下ろすと、連れていた童児を膝の上に抱き上げた。
「あれ、あれがたべたいのだ!」
童児はまた声を上げた。采女たちが、きゃあっ、と身をくねらせるように嬌声をあげる。
「なんてお可愛らしい!」
近くにいた女たちは、先を争うようにして大后の回りに集まり、その童児の指差すものをあれかこれかと尋ねて取り寄せようとし始めた。
「あれは――――」
女童かと思ったが、髪を耳連に巻いていることからすれば男児なのだろう。首に大きな青い勾玉を掛けている。耳朶の金環がまだ痛々しい。
童児は女たちが我先に差し出す皿の上から、赤く熟れた果物をつまんで口に頬張った。母后はうっとりとその様を見ている。
母の手は時折その髪に触れ、いとおしそうに肩を抱く。抱き上げて頬擦りをすると童児は煩そうに顔をしかめ、もがく。母は笑ってなおも抱きしめる。
俺はこれほどに楽しそうな母を初めて見た。
「あの童児は――――」
俺の呟きに、父王が答えた。
「あれは小鷹だ」
俺は驚いて父を振り返った。大王の顔もほころんでいる。
「――小鷹?」
「そうか――お前は初めて見るのだったな。お前の同腹の弟だ、同母弟だ」
「同母弟――――」
母が数年前男児を産んだという話は聞いていた。
だが、俺は生まれてすぐに母の元から離されて育ったので、母とはもうずっと疎遠だった。俺の回りには三人の乳母と、あまたの采女や女儒がいたので、母のことを気にかけたこともなかった。
「あれはお前を生んでから後、三度も子を流してな――もう子には恵まれないだろうと言われておったのだが、五年前にようやくあの小鷹を授かったのだ」
「それは――覚えております。ご出産の折は、御高齢ということもあって、お命があやうかったと――――」
その話を、俺は本当に他人事のように聞いたのだった。
「おお、そうよ。産後の肥立ちも悪くてな、長い間『海辺の一族』の元で療養しておったのだ。だからお前には会わせる機会もなかったのだな」
そうだ。俺はそれをそば近く仕える采女たちから聞いた。そして見舞いの使者を立てた。母を気遣ってではなく、ただ彼女たちの言うままに形を整えたのだ。
俺はその頃、十には少し足りぬほどだったが――政の場にこそ同席を許されぬものの、日々半島から招いた学者たちについて学んだり、剣や弓や馬の稽古に忙しい日々を送っていた。ようやく空いた時間は年の近い舎人たちと狩りや遠駆けに行くことに熱中していたので、今さらたまにしか顔を合わせない母や、赤子のことなどどうでもよく、だからすぐに忘れてしまったのだった。
そして――俺は勝手に、父王にとってもそうなのだろうと決めつけていたのである。
しかし、今の父の様子はどうだろう。
「后の若い頃の面影がよう出ておるわ」
目を細めて小鷹を見つめ、笑う父王は、俺の全く知らぬ男のようだ。
ふと周りを見渡せば、その場の人々の視線はいつの間にか、そのあどけない幼児に集まっていた。
「何と愛らしい王子さまでしょう」
「それに利発そうでいらっしゃる!」
さっきまで俺にへつらっていた男たちも、煩いほどにしなだれかかってきた女たちも、皆小鷹の愛らしい仕草に笑い、その整った顔立ちを褒めそやしていた。
「男御子でようございましたな。もし
真顔でそんなことを言う者さえいた。父はそれらの言葉にいちいち嬉しそうに相づちを打っている。それはただの老いた父親の顔だった。
これは一体なんだろう。
これはどういうことなのだろう。
これは――俺の知っている世界ではなかった。
俺は酔っていた。
そのせいなのだろうか。自分でもよく分からない不快な思いが、徐々に胸の奥からこみ上げて来た。
小鷹は宴に飽きたのか、母の手を逃れようと大仰にもがき、顔を歪めた。母后が小鷹に問う甘い声が俺の耳にも届いた。
「小鷹、何処へ行くのです? 何が欲しい? 言うてご覧」
小鷹は母の目を見返し、答えた。
「くまなのところへゆく!」
母は笑った。身近の女嬬に何事か囁くと、その女は広間を出て行き、やがて舎人たちの控えの間の方から一人の若者を連れ帰って来た。
精悍な顔立ち、骨太のがっしりとした体つき。だが、その面差しにはまだ何処か幼さが残っていた。身の丈はすでにあたりの大人たちの多くを抜いていたが、年は俺と同じぐらいだったろう。その身のこなしや足運びから、一目で兵士の血が見て取れた。
その男は恐れることもなく大后に近づき、そば近く膝まづいた。小鷹が彼に駆け寄り、肩に這い上がろうとする。
后が若者に何か言った。彼は頷くと、軽々と小鷹を抱き上げ、広間を出て行った。
それでは、あれが小鷹の守り役か。
また、あの不快がこみ上げる。
俺にも守り役として幼い頃からそば近く仕えている舎人が幾人かいる。だがそれらは皆一様にすでに老年で、近頃では小言や繰り言ばかりを俺に聞かせていた。
俺はふらつきながら立ち上がった。
「何処へ行く、雄隼」
父王の言葉にも耳を貸さず、俺は小鷹を抱いた男を追って広間を出た。
中庭の宴はすでに果てつつあり、そこここで酔いつぶれた男が足を投げ出して座り込んでいた。舞いを舞っていた賤婢たちは一人残らず消えていた。
隣の棟につながる渡り廊下の途中で、俺は男に追いつき、その後ろ姿に向かって怒鳴った。
「おい、お前は何者だ!」
彼は立ち止まり、振り返った。俺を大兄雄隼と見知っていたらしく平伏しようとしたが、抱いている小鷹にしがみつかれて困惑している。
ようやく小鷹を下ろし片膝をつく男の肩に、俺は佩刀の先を圧し当てた。
「名を言え」
「熊名、と申します」
「何処の素性のものだ」
熊名は顔を上げた。庭の松明と、縁の曲がり角に据えられた燈台の明かりが、彼の男らしく整った顔に、蛮族の兵士の化粧のような陰影を与えていた。
「大后さまの舎人が長、
「長熊の子か」
俺もその母后の舎人は知っていた。母の故国である「海辺の一族」の出身で、南方からの渡来人の血を引いた、やまとの人間にはまれな大男だ。大后の信頼は厚く、親しく召し使っていたから、何かと催し事のおりには目に立つ存在だった。
あの長熊彦の子というのであれば、将来はさぞ美丈夫に育つだろう。
無口で忠実で、けれど知恵と力に満ちた、まごう事なき
不快だ。
このような良き舎人を、たかが末王子の守り役につけるとは。
俺は屈んで太刀を持ち替え、蛇の形の環頭で熊名の顎を押し上げた。
「年は」
「十五になります」
「どうだ、俺の舎人にならぬか」
俺は言った。熊名は驚いたように俺の顔を見つめた。
俺は、当然熊名がそれを喜んで受け入れると思っていた。恐れ多いことです、謹んでお受けいたします、という返事以外、全く考えても見なかった。
「恐れ多きことでございます――ですが、この身はすでに、小鷹王子のものと心得ますので」
「――なんだと」
あり得ないはずの言葉に俺は絶句し――そして狼狽した。
「こんな幼い王子の守り役など、賎婢で充分だ。まして末王子ではないか。お前の何の得になるというのだ!」
そう言った途端、熊名の目付きが変わった。明らかな怒りの色。
何の怒りか俺には知れた。主たる王子への侮辱に怒っているのだ。
俺はかっとなった。
「何だ、その目は!」
柄で顔を殴った。熊名はよろけて片手をついた。
その時、今まで熊名の脇にしがみついていた小鷹が、俺と熊名の間に立った。小さな手で俺の太刀の柄を捕らえ、全体重をかけて床へ押しやろうとする。
「何をする! 小鷹!」
俺は初めて弟の名を呼んだ。小鷹はまだよく回らぬ舌で叫んだ。
「くまなはおだかのとねりだ!」
俺を睨みつけるその目は、幼いながら明らかな王族のそれだった。
「くまなはおだかのものだ! だれにもやらない! おまえになんかやらない!」
「何だと……?」
俺の中にむらむらと、この幼い弟への黒い感情が沸き上がる。
「誰に向かって口をきいているか分かっているのか。俺はお前の兄だぞ」
「しらない」
知らない。その言葉が俺を逆上させた。
そうだ。この時までの俺は確かに酔っていた。酔いのために常ならぬことを口にしているのだと言い訳も出来た。だがこの瞬間、俺の中から酒気は消えて無くなった。俺は怒りに任せて小鷹を縁から庭へ蹴り落とそうとした。
「王子!」
熊名が叫んで小鷹を庇う。小鷹は火のように俺を睨みつける。
「くまなはおだかのものだ!」
再び小鷹は叫んだ。
熊名は黙っている。黙って俺を見上げている。何か言うことによって、さらなる俺の怒りを買うことを、主たる王子のために恐れているのだ。
不快だ。
こんな、まだようやく乳飲み子でなくなったような童児の、何処にそれほどの価値があるというのか。しかもただの末王子ではないか。
心の何処で冷静な声が響く。幼子相手にむきになっているのはお前の方だ、と。
分かっている。そんなことは分かっている。
だが、俺はもう踏みとどまれなかった。
この主従には見せしめが必要だ。大兄日継王子に逆らうとはどんなことかを知るべきだ。
俺は太刀を抜いた。残虐な心根が鎌首をもたげる。大王の血筋に伝わる謀と血を好む心根が。
俺は知っていた。熊名はその太刀を避けることは出来ない。下手に避ければ小鷹が危ないからだ。
案の定、熊名は避けなかった。次の瞬間、熊名の左目から血が
「くまなっ!」
小鷹が悲鳴をあげた。熊名は呻き声一つあげなかった。
何という不快さ!
小鷹は俺に飛びつこうとする。だが熊名がそれを止めた。奴は左手で目を押さえながら、右手で主を必死に庇おうとしている。
俺は弟の言葉を待った。俺を許さないと言うがいい。二度と俺を「知らない」などとは言わせない。
だが、小鷹はそこで気持ちが途切れてしまったのだろう。大声を張り上げて泣き出したのだ。俺は拍子抜けし、そしてやっと我に返った。
「な、何事でございますか!」
泣き声を聞きつけた采女や舎人たちが縁に出てきた。
「まあ!」
「これは何としたこと……!」
「小鷹さま!」
童児の泣き叫ぶ声が切れ目なく続く。
「小鷹っ!」
母の悲鳴が聞こえた。騒ぎに驚いて駆けつけたのだろう。
「ははうえーっ!」
小鷹が母に駆け寄った。
「あいつが、くまなをきった! あいつが!」
「雄隼――本当ですか」
母は小鷹をしっかりと抱き上げ、俺を見すえた。
「本当です」
俺は言った。血に濡れた太刀を握りしめながら、そう言う他はなかった。
熊名はまだ俺の足下に跪いている。顔を押さえた左手を真っ赤に染めて血が滴り、廊下に血溜まりを作っていた。
「何をしている。早く熊名の手当てをしてやりなさい!」
母后の声で、ようやく二人の舎人が熊名に駆け寄った。俺に遠慮しながら熊名を両脇から抱え上げ、立ち上がらせようとする。そのおびただしい血に、傍らの采女が真っ青になっている。小鷹が再び金切り声をあげて泣き始めた。
「一体何事があったのです。熊名がお前に何をしたというのです」
母は、俺を睨みつけながら鋭く言った。
「それは――――」
俺は答えられなかった。
「何もしていない者を、酔いの勢いで切ったのですね――恐ろしい。心の冷たい子だとは思っていたが、まさかこれほどまでとは」
母は吐き捨てるように言い、俺の答えを待たずに身を翻した。泣きじゃくる小鷹を抱きしめ、その背を愛しそうに撫でながら、母は俺に背を向けて去った。
俺は、渡り廊下に一人取り残された。
俺付きの舎人たちが、廊下の端で様子を窺っているのが目に入ったが、奴らは誰も俺に近づいてこようとはしなかった。
さっきまでは確かにあったはずの、日継王子への畏敬や憧憬は消え失せ、ただ、恐れと不安だけをその目付きに表して、俺を遠巻きにしていた。
3
――そう、そしてあの日から。
俺は、人を信じることが出来なくなった。
それまで俺が、確かに持っていると――自分の物だと思っていた何もかもが信じられなくなったのだ。
小鷹を溺愛する母は、この一件の後、俺を完全に敵視するようになった。
それまでも、けして俺のことを気にかけていたとは言えなかったが、おそらくはこの時を限りに、自分が腹を痛めた子であるという事実すら切り捨ててしまったのだろうと思われる。
母后は、父王に直訴したという。
あのように粗野で癇癪持ちな男を日継王子としておいてよいのか。
直ちに廃嫡し、他の王子に位を譲らせるべきではないのか、と。
父王は、しかしそれを一蹴した。
父の周囲で政治を司る大臣たちも、皆反対したという。
だがそれはけして、俺自身の人望や、実力のためではなかったのだ。
彼らは、母の母国である「海辺の一族」を警戒していたのである。
それまで俺の耳には入ることのなかった様々な事情が少しずつ露わになっていく。
誰かが意図的に俺から隠していたのか。
――いや、違う。
それは余りにも明らかで、隠しようもない事実だった。確かに誰も「あえて」俺に聞かせようはしなかったが、俺がもっと
『三十年ほども昔のことですが――先の大王が急に身罷られて』
少し耳を澄まし、辺りを見回してみれば、年かさの舎人や大臣たちから、面白いようにそれは語られ、あるいは見当がついた。
『中央の豪族たちは、次の大王となる王子を巡って、揉めに揉めたのでございます』
『今の大王には、年の殆ど変わらぬ腹違いの兄君がいらして――「海辺の一族」は、そちらを強く推していたのでございます』
「海辺の一族」は、領内に大きな港を持っていた。遥か昔は、大王家と対立し、その港を巡って血腥い戦を幾度も繰り広げたという。
『今でこそ、海辺の民は首都の重臣ですが――あれらの腹の底は窺い知れません。神々の気まぐれ一つでは、自分たちこそが大王家と呼ばれていたやもしれぬ、と、今も何処で思っている――――』
『大王家にとって、海辺の民は、決しておろそかには出来ぬ――かと言って、あまりに増長させてはならぬ、むつかしい相手なのでございます』
そして、父は、海辺の民と取引をしたのだという。
自らが大王になったら、海辺の民の娘を大后とし、その娘がもし王子を生んだら必ず次の大王にする、と。
海辺の首長はその条件を呑み、父の即位を承諾した。
『ですが、それでは元々大王を支持していた「野守の一族」を初めとする他の首長たちから不満が出ましょう』
『ですから大王は、大后さまの生まれた一の王子――雄隼さまを、早々に日継王子とお定めになりましたが、大后さまのお手元からは離してお育てになりました』
『雄隼さまの身の回りには、ただの一人も「海辺の一族」の出身者はおりません。后も、采女も、舎人も――――』
『けして「海辺の民」と親しまぬように――?』
『さようでございます』
そう――おそらく俺があのような暴挙に出ず、きちんと父と母を介して「熊名を自分の舎人にもらい受けたい」と願い出たとしても、それは叶わぬことだったのである。
俺は――舎人一人、自分で選ぶことの出来ぬ立場だったのだ。
俺が、俺のものだと信じていた全ては、幻だったのだ。
4
「大兄さま――大兄雄隼さま、どうなさったのですか」
冷たい手に揺り起こされて、俺は飛び起きた。
汗にまみれた俺の背に手を添え、女が顔を覗き込んできた。
「雄隼さま――悪い夢をご覧になりましたか」
俺は荒い息を吐きながら女を見た。
狭い部屋だった。女宮の回廊に沿って作られた采女たちの室の一つだろう。
この女は――そう、俺に仕える采女の一人だ。顔は知っている。だが名は知らぬ。
俺は、自室を飛び出して女宮に駆け込み――たまたま最初に行き会ったこの女の部屋に入りこんだのだった。
もう夜が明けていた。回廊の方から朝の光が差し込んできている。
「雄隼さま――?」
「うるさいっ」
俺は女の手を払いのけた。そしてよろよろと立ち上がった。
「雄隼さま、いけません、そのままで表に出られては――――」
俺は衣服を着ていなかった。女が慌てて寝台の回りから、散らばっていた俺の衣をかき集め、俺に追いすがるように差し出した。
「煩い、俺に構うな!」
突き飛ばされて、女は悲鳴をあげた。そしてそのまま部屋の奥へ後退り、もう追っては来なかった。
俺は裸のまま、回廊を巡った。
父王から与えられた后たち。豪族から差し出された采女たち。
何をされても拒まぬ女たち。けれどけして心を許さぬ女たち。
誰といても、何をしていても、俺の心は休らわぬ。
俺が欲しているのは、ただもはや、あの同母弟だけだ。
あの美しい弟が、泣き叫び、跪き、許しを請う姿を思い描く時だけ、俺は満たされる。
朝が来た。
今ごろ小鷹は、山の一族の館を出ただろう。
何も知らず、首都へと戻る道を辿るだろう。
そこに、何が待ちかまえているかも知らず。
俺は笑った。
胸が痛い。刺すように痛い。
それでも俺は笑った。
もうすぐだ。きっともうすぐに、それを見ることが出来る。