彷徨 ――日の面

文字数 8,507文字



 麻呂女の背にしがみつき、私は山道を辿っていた。
 空からは星が次々に消え、山の稜線がくっきりと見え始めている。
 恐ろしいほどに静かだった。
 夜に生きるものたちがねぐらに帰り、鳥たちが目覚める前のつかの間の静寂。
 夜明け前の冷え込みが私の衣のすき間から忍び入る。来椋が貸してくれた鹿の毛皮の上衣と麻呂女の体温が頼もしかった。
(来椋――ありがとう)
 不服そうにふくれあがりながら、私を送り出してくれた従弟の顔を思い出す。
『王子を探すって――当てがあるのかよ』
 まだ何とかして私を引き留めようとしていた来椋。
『王子は北の湿地で襲われて行方知れずになっているのよ。そのまま川を下れば直轄領に入ってしまう。きっと、出来るだけ上流へ戻りながら、身を隠せる場所を探すはずだわ』
(あの川の上流は――「二の社」だな)
 そうだ。あの水の社。
 私が王子を案内した、あの美しい場所。
 あの辺りには、幾つもの洞がある。
『王子がもしそれを覚えていたら、きっとそのどこかに』
 あの洞のどこかなら、身を隠すには丁度いいはずだ。
 それを聞いた来椋は、門のところに私を置いて、待っていろ、と言い残し、館の方へと駆け戻っていった。私は麻呂女の手綱を引きながら不安の中で待った。
 随分長い時間が過ぎたような気がした。もう誰かが来るのではないか、来椋はやはり父に告げ口に言ったのではないか、という考えが次第に濃くなって、いよいよ待ちきれなくなった頃、彼は息を切らしながら駆け戻ってきた。
『これを持っていけ。それからこれも』
 彼が私に押しつけてきたのは、肩から提げられるように長い持ち手のついた麻の袋と、数枚重ねて巻き取られた小布だった。
『これは――――?』
『袋の中には焼き栗と胡桃が入ってる。それと、こっちは二の社の辺りにある洞の絵図面だ』
『絵図面――――?』
 来椋は頷いた。
『あの辺の洞は蟻の巣のようにあちこちでつながりあっているんだ。おれ、それをずっと調べていて、そこに書いていたんだ』
『来椋――――』
 私は驚いて、彼の顔をまじまじと見た。
『でも、これはお前の大事なものじゃないの』
『ふん。どうせ遊びだ』
 来椋は顔を背け、早口で言った。
領民(べのたみ)の集落の方には、館から夜のうちに大勢の男衆が遣わされてる。王子の従者たちが逃げ戻ってきたとしたら、館にたどり着くより先に領民たちの家々に押し入るに決まっているからな。夜明けごろに人が入れ替わるかもしれないから、街道はいつ、誰が通るか分からないぞ』
『分かったわ――ありがとう来椋』
『さっさと行っちまえ』
 来椋は私と麻呂女を押し出すようにして門を閉めたのだった。
 最後にちらりと見た痩せた従弟の横顔は、泣きそうに歯を食いしばっていた。
(ごめんね来椋――私はずっとあなたを軽く見ていた)
 童児のような体つきでいつまでも幼く、一族の男衆からも低く見られていた来椋。
(あなたは、皆が――いいえ、私が思っていたよりも、本当はずっと大人だったのね)
 いつも私に憎まれ口ばかりきいていた来椋。
 巫女なんてつまらない運命だねと嗤った来椋。
(もしかして、あなたは私のことを好きだったの――?)
 分からない。それは私の思い上がりなのかもしれなかった。
 もう一度彼に会うことがあるだろうか。もしかしたら、もうこれが永遠の別れになるかもしれない。
(ごめんね、来椋)
 私は目を伏せ、唇を噛みしめる。
 ――その時、どこか遠くで馬のいななきが聞こえた。
「――――!」
 はっとして馬の足を止め、辺りを見回す。
 くまなく辺りが見え始め、近くの木々からも鳥の鳴き声が聞こえてきた。
(来椋が言った通りだわ――多分下の集落の方から誰かが戻ってくる)
 これ以上、馬で街道を行くことは出来ない。私は麻呂女の背からおりた。来椋が渡してくれた麻の袋を肩から斜めにかけ直す。絵図面は結んであった紐をほどき、衣服の下に体に巻き付けるようにして収めてある。
「ありがとう麻呂女――もうここまででいいわ」
 不審そうに私を見る馬の鼻面を優しく撫でてやる。
「ひとりでお戻り。お前なら帰れるわね――父上や小染や――そして来椋にありがとうと伝えてちょうだい」
 私はそう呟きながら、麻呂女の手綱を放した。
「お行き」
 麻呂女は驚いたように、道を外れ林の中に歩み入る私についてこようとした。だが私は彼女を振り返り、厳しく叱った。
「来ちゃだめ! 来ないで! 館に戻るのよ、さあ早く!」
 私は足下から小石を掴み上げて、麻呂女の足下に投げつけた。馬はまだしばらくはおろおろしていたが、やがて諦めたように道を戻っていった。
(さようなら麻呂女)
 私は裳をたくし上げ、裾をまとめて帯に挟んだ。それから意を決し、雑木林の中に雑草を踏みしめながら入った。

 私の考えは浅かった。
 街道を外れても、このままこの雑木林を北東へ斜めに突っ切って歩き続ければ、いつかは二の社に続く小径へ出るはずだったのだが。
 うす暗い早朝の林は、どこまで行っても同じような光景だ。
 下生えの雑草こそ少なくなったが、果てしなく続く斜面は木々の根がのたうち回り、長年にわたって降り積もった落ち葉は柔らかい土に変じて足を咥えこもうとする。
 汗みずくになり、私は毛皮を着ていられなくなった。脱いでも袋には入らず、しばらくは手で持っていたのだが、何度も転び、時には斜面を滑り落ちているうちにいつの間にかどこかになくしてしまった。
 気が付くと、私はすっかり自分が今どこへ向かって歩いているのか分からなくなってしまったのである。来椋にもらった絵図面も見てみたが、それはもっと二の社に近い場所しか描かれておらず、今は何の役にも立たなかった。
「落ち着いて――落ち着いて」
 私は何度も口の中で繰り返した。
「大丈夫――大丈夫だわ。とにかく高いところへ向かえばいいの――あの小径は尾根道なのよ。だから――――」
 だが――本当にそれでいいのか。
 私はまるで見当違いの方向に歩いているのではないだろうか。
 空を見上げても、切れ切れに青空が覗けはするが、太陽がどこにあるのか分からない。
「もうとっくに日は昇っているはずだわ――どこか、どこか少しでも開けたところに出れば、そうしたら方角が分かるはずよ」
 私は、荒い息をつきながら、ひたすらに自分をはげまして、斜面を登り続けた。
(せめて――沢の音が聞こえれば)
 気弱になると、涙がにじみそうになる。泣いている場合ではないと分かっているのに。
 よろめいてつまずいて、枯れ葉に覆われた土の上にうずくまった。
 立ち上がろうとするが、膝に力が入らない。
 その時、私はやっと、もう丸一日何も食べていないことに気付いた。気が張っていて空腹に気付かなかったのだ。
 自分を落ち着かせるために、来椋がくれた麻袋を開けた。彼の言った通り、中には焼いた栗が十個と、殻を外した胡桃の実が一掴み、それぞれ小さな袋に分けて入れられていた。
 私はそこに座り込んだまま、栗の皮をむき、金色の実を口に運んだ。甘く香ばしい味が口に広がる。
(ああ――美味しい)
 やっと少し冷静になれた。私は栗を三つと胡桃を二欠片食べ、残りはまた麻袋にしまった。
 辺りを見回すと、少し先の土の間から、二の社のある沢独特の黒っぽい岩が覘いている。
(よかった――私は間違っていない)
 耳を澄ますと、かすかに水の流れる音がするような気がする。
(きっともう少しだわ――この起伏を越えれば)
 私は気力を振り絞り、足を速めた。
 が――――
「あっ――――きゃあぁぁぁぁっ!」
 突然、足下が崩れた。何がどうなったのか分からないまま、私は地面に引き込まれた。
 体は幾度も激しく打ち付けられ、細い蔓のようなものが腕や足を鞭のように撲ち、絡み、刺さった。何かを掴もうとした手は空を切り、あるいは細い枝を空しくちぎった。
 背中が固い物にぶつかり、やっと落下が止まった。体中が痛い。
 顔の上に、枯れ葉と土が覆い被さっているのが分かった。両手はようやく動かすことが出来る。幸い骨は折れていないようだ。のろのろと右手を上げ、顔を払う。
 遙か上の方に光が見えた。狭い裂け目のような明かり。
(ここは――――)
 私は、縦穴に落ちたらしかった。
 幸い、穴の底には、長い間に枯れ葉と土が厚く降り積もっていて、私は大怪我をせずにすんだようだ。
 だが――私の体はひどく狭いところに挟まり込んでしまっていて、起きあがることもままならなかった。手足をばたつかせてもがくが、身動きがつかない。
「う……」
 呻き声が、いつの間にか自嘲の笑いに変わっていく。
 私は何をしているのだろう。
(小鷹王子を助ける、ですって?)
 どこかから、さも馬鹿にしたような声が聞こえてくる気がした。
(そんなことが本当に出来ると思うの?)
(自分一人、この程度の山道を越えることも出来ないのに)
(もし会えたとしても、いったいそれからどうするつもり?)
 そう――私はどうするつもりだったのだろう。
 父を説得する?
(――そんなことが出来るはずがないでしょう)
 抜け道を示す?
(――領内のことなど何も知らないくせに)
 王子の看病をする?
(――自分がこんなありさまで?)
(なんと愚かな娘。役に立たぬ娘)
(このままここで人知れず死んでいくのがお似合いではないの)
 甲高い笑い声が耳のそばでこだました。私はぎゅっと拳を握りしめた。
 その時――私は気付いた。
 左手の中指の指輪は、まだ嵌っていた。
 小鷹王子の指輪。
 私は、袖が何かに引っかかるのを払いながら、震える指でその指輪を抜いた。
 そして改めて、手の中に握り込めた。
「小鷹王子――――」
 声に出して名を呼んだ。
「王子――どこにいるの――――」
 固い指輪が手のひらに食い込む。
「王子に――会いたい」
 そうだ。何も出来なくてもいい。
 私はただ、もう一度あの人に会いたいのだ。
(王子には迷惑かもしれないわよ)
 そうかもしれない。
(何しにきた、と言って、あの隻眼の舎人に切り殺されるかもよ)
 構わない。それでもいい。
 ずっと、何も考えずに生きてきた。形ばかりの巫女として、何の役にも立ちはしないのに、宴からも恋からも遠ざけられ、でもそれが当たり前だと思っていた。
(だってあなた、王子があなたを抱こうとした時それを拒んだではないの)
 そう。それは、余りに突然だったから。
 父が私の意志も聞かずに、勝手に決めたことだったから。
(王族の娘に生まれたくせに、覚悟が足りないわ)
 その通りかもしれない。
(王子は怒っているかもしれないわよ)
(だいたいあなた、猪から助けてもらったお礼も、まだ言ってないんじゃないの?)
 そうだ。
 だからこそ――――
「私は行くの――王子に会いに行くのよ!」
 私は叫んだ。耳の中を飛びまわっていた声はかき消え、手足に力が戻ってくる。
 私は再び四肢をばたつかせた。何とかして立ち上がろうともがいた。
 両足を伸ばして踏ん張る。かかとが、あまり硬くない土の壁のようなところに当たった。
 ――――と。
 その土壁が――ぼこり、と崩れた。
「――――?」
 私はあがきながら何とか上半身を起こした。
 足の方の壁に穴が開いている。そこからかすかに風が流れてくる。
「これは……」
 私はその回りの土をさらに蹴った。脆く、ぼろぼろと崩れる。穴は大きくなる。
「横穴に続いているんだわ――――」
 私は、体をねじって何とか体勢を直した。四つ這いになって穴をのぞきこむ。
 暗い。
 だが、目が慣れてくると、真の闇ではないことが分かった。
 ところどころで、ここと同じような縦穴とつながり、そこから光が入っているのだ。
 洞は長々と続いていた。
「この穴は――もしかしたら」
 あの二の社の近くに幾つも開いている洞のどこかに繋がっているのではないだろうか。
(きっとそうだわ)
 私は王子の指輪をもう一度左の中指に嵌めた。それからその横穴に、思い切って這い込んだ。
 真っ暗ではないとはいえ、足下が見えにくいには違いない。天井も高くなり低くなりして、私は何度も頭を打った。
 体を伏せて通らなければならない場所もある。足下はごつごつとして、なめし革の沓はすぐに破れた。
 沓を捨て裸足になって、私はそれでも進んだ。
 指先が痛い。爪がはげたかもしれない。
 顔に何かぬるぬるしたものが流れている気がする。手で擦って匂いを嗅ぐ。
(血だわ――――)
 さっき額を打って切れたのだ。
 光が見えなくなってきた。
(私――今どっちから来たの?)
 ふいに、自分が立っている場所が分からなくなる。
(私――今目を開けているの?)
 必死に目をこらす。何も見えない。
 私は――本当に二の社のある沢へ近づいているのだろうか?
 また私の中に、林をさまよい歩いている時と同じ疑問が渦巻き始めた。闇の中にいるだけに、それはさっきとは比べものにならない恐怖を私にもたらした。
(落ち着いて――落ち着くのよ)
 息を整える。叫び出しそうになるのを必死で飲みこむ。
(そうだわ――何か食べよう)
 私は洞窟の壁に背をぴったりつけて座り、手探りで麻袋から栗の小袋を取り出そうとし――そして突然気付いた。
(指輪がない――――)
 王子の指輪がなくなっている。
 ついさっきまでは確かにあった。それなのに――――
(嘘――――)
 慌てて辺りの地面を手探りしてみたが、見つかるはずがなかった。
(どうしよう――――)
 私は、壁にぐったりともたれかかった。泣くまいとしても涙がにじんでくる。
 諦めて先に進もうと考え、壁にすがって立ち上がろうとしたが、また膝に力が入らない。
 ずるずると座り込んでしまう。
 目を開けても閉じていても同じ漆黒の闇。
(私――起きているの、それとも)
 疲れ、不安、悲しみ。
 私は膝を抱えた。
 そしてそのまま――ついに、意識を失った。



 夢の中に、奇妙な声がする。
「――いたか」
「いいえ、まだ見つかりませぬ」
 男の声だった。一人ではない。
 聞き覚えのない声だ。
(誰――――?)
 小鷹王子でも、熊名(くまな)でもなかった。
 ここはどこだろう――?
「下流の岩に、絹の切れ端が引っかかっていた。上物の白絹――王子のものだ」
 私は突然はっきりと目覚めた。
 夢ではない。
 誰かが喋っている
 急に体の感覚が戻ってくる。背中には洞窟の壁。
 あれからどのぐらい経ったのだろうか。
 声はどこから聞こえるのか分からない。耳のすぐそばで聞こえているようなのに、人の気配がしなかった。
「火を焚いているはずだ。煙や、匂いをさぐれ。どこかの洞に必ずいる」
 私は息を潜め、体を硬くしながら、そばの岩壁に耳をぴったりと押し当てた。この壁がひどく薄いのか、それともどこかの空洞を伝わって声だけが運ばれているのかもしれない。
(首都の兵士だわ――――)
 王子を探しに来たのだ。少なくとも二人。命令を下す者と、それを受けて動いている者。
 まだ王子が見つかっていないということが分かって、私はほっとした。
(やはりこの辺りにおいでなのだわ)
「海辺からの報告はあったか」
「はい。お逃がしする道筋は確保できたとのことです」
(え――――?)
 今のは――どういう意味なのか?
(――逃がす? 誰を?)
 王子を、だろうか?
(まさか――味方なの?)
 海辺、という言葉が聞こえた。それが「海辺の一族」を指すのだとしたら、それは王子の後ろ盾についているという大豪族の名前だ。
(首都の兵士ではなく、海辺の民の遣いなのかしら。王子を助けるために来たのかもしれない)
 だが――彼らの物の言いぶりには、どうにも気に触る響きがある。
(この人たち――王子を心配して捜しているように思えない)
 そうだ。だから私は最初、彼らを首都の兵士だと思ったのだ。
「しかし――どうでしょう。王子はお信じになるでしょうか」
「信じようと信じまいと、王子には選ぶことは出来ぬさ」
 命令している側の男が、かすかな笑いを含んで言った。
「首都に戻れば殺されるということぐらい誰にだって分かる。山の民を始め、この辺りの豪族たちにはくまなく遣いを送り、決して王子に手を貸してはならぬと命じてあるのだ。小鷹王子が生きるためには、海辺の民を頼る他はないのだから」
 どういう――意味なのだろう。
 彼らは、王子を見つけ出し、海辺の一族のところへと連れて行こうとしている。それは間違いがないらしい。
 だがそれは、王子を助けようとしてのことではないのか。
「上つ方のお考えはむつかしいことでございますな」
「我らはただ、命じられたことを成せばよいのだ――ゆけ」
「はっ」
 一人が走り去る音がした。そして――静かになった。
 私は息を潜め、それからしばらくの間、壁に耳をつけたままじっとしていた。
 もう何の物音もしない。人の声も、足音も。
 二人とも、どこかへ行ってしまったのだろうか。
 ――それにしても。
(上つ方のお考え、と言っていた――上つ方、って)
 大王か、大后か――それとも大兄雄隼王子か。
(大王は――もうずっと病で伏せっておられると聞いた――大后なら王子を心から心配されているだろう)
 だとしたら。
(雄隼王子――?)
 分からない。その人こそが小鷹王子を殺そうとしたのではないのか。
(分からない――分からないけど、でも)
 とにかく、彼らは王子を海辺の一族の元へと逃がそうとしているが、それもまた、何かの企みらしいということなのだろう。
(王子に――知らせなければ)
 私は壁から体を離した。
 栗を食べ少し眠ったせいだろうか、少しは体に力が戻っていた。そろそろと膝に力を入れ立ち上がる。
(私は――右から歩いてきたはず。この壁に左手をつけて歩いていけばきっと)
 かすかに、私の頬に風がふれた気がした。
 鼻をつままれても分からないような闇の中を、私は再び歩き始める。
(王子――待っていてください、私きっと……!)
 もう弱音など吐いている時間はない。
 私はまた、何度も転び、頭をぶつけながら、よろよろと進んだ。
 だが、幸いなことに、しばらくすると辺りがうっすらと明るくなり始めた。
 ずっと先に三角形の光が見える。
「出口だわ……!」
 私は壁に張り付くようにしながら足を速めた。
 はっきりとした水の音が聞こえてきた。進むにつれて次第に大きくなってくる。
「――――!」
 ついに――私は外へ出た。
 押し寄せてくる緑の匂い、水の音。
 間違いなかった。そこはあの、二の社から続く沢だった。
 見覚えのある黒い岩の群れ。その間を流れる澄み切った水。覆い被さる常磐木の梢。
 暗闇から外へ出たので最初はひどくまぶしく感じたが、すでに日は落ちようとしているらしく、光は次第に薄れつつあった。辺りはもう夕暮れの薄紫に染まろうとしており、岩の上や川縁の笹藪の中で蛍が明滅している。
 思わず私は沢へと駆け寄っていた。手を差し伸べて水を掬い、何度も何度も口に運んだ。
 冷たい水が喉に染み渡っていく。
 泥がこびりつき裾が裂けた裳をたくし上げ、 岩陰に出来た美しい清水の溜まりに足を浸す。腰を下ろして腕と顔を洗う。水が傷に浸みる痛みさえ気持ちがいい。泥と血が水を一瞬だけ濁らせ、すぐに流れ去っていく。
 静かだった。
 水鏡に映る自分の顔はたった一日で別人のようだった。目の下に隈が出来、幾つもの擦り傷が頬や額に走り。髪は結い紐をとうに失って、ぼうぼうと逆立ち乱れている。私は湿らせた手で髪をなでつけ指でくしけずり、何とか形を整えた。
 人心地がついて――ようやく頭が冷え始める。
 帯を緩め、上衣の合わせ目から手を入れて、腹に巻いていた絵図面を引っ張り出した。薄闇の中で目をこらす。
 一枚目には沢の流れと、それに沿ってある洞の入り口が記されている。洞にはそれぞれ番号と入り口の形の略図、近くにある目印などが書き込まれていた。
 私は、自分が出てきた洞を振り返ってみた。
(三角形の入り口――すぐ上に松の大木)
「伍番の洞だわ」
「二の社」からは随分と下流になる。
 その時。
 遠く上流の方から、男の叫び声が聞こえた。
「居たぞ!」
(あの声は――――!)
 それは、確かにあの時洞窟の中で聞いた男の声。
(王子が――――!)
 王子が見つかってしまったのだ!
 私は跳ねるように立ち上がると、絵図面を懐に突っ込み、川上に向かって走り出した。
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登場人物紹介

小鷹王子(おだかのみこ)

やまとの大王の末王子。17歳(数え年)。美貌で素直な性格で、誰からも愛されるが、政治には興味がなく、自分の気の向くままに暮らしている。

告茱姫(つぐみのひめ)

首都の南に小さな領地を持つ豪族の娘。17歳(数え年)。幼いころから巫女として育てられたので、世の中のことをなにもしらない。

雄隼王子(おばやのみこ)

大王の長子。小鷹とは同母兄弟。25歳(数え年)。誰からも尊重される立派な日継王子(皇太子)だったが、なぜか小鷹に異様な嫉妬心を燃やす。

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