血まみれの丘 ――月の面
文字数 5,273文字
1
「小鷹が――捕らわれた、と?」
俺は痴呆のように繰り返した。
「捕らわれた――? どこで、誰に――――」
階の下に跪いた舎人は、淡々と答える。
「南の峠を下り、首都へ入る街道を、舎人一人連れて歩いていらっしゃる所を、その一帯の封鎖に当たっていた『北の一族』の兵士に発見されたそうです。逃げ隠れすることもなく、堂々とお名乗りになり、そのまま縄を打たれて、ただ今こちらに向かっておられるとか」
何故だ。
俺は玉杖を握りしめた。関節が白くなるまで強く。
今ごろは、あれは海辺の民の所へと落ち延びているはずではなかったのか。
「小鷹王子らしいことですな」
いつの間にか、後ろに当麻が立っていた。俺は振り返ることも出来なかった。
小鷹らしい――――?
本当に――そうだった。
この上なく小鷹らしい。一点の曇りもない磨き上げた鏡のように。
もしかしたら俺は、こうなることが分かっていたのかもしれない。
だが――認めたくなかったのだ。
追いつめて何もかも奪えば――いかに小鷹とはいえ、他の道を選ぶだろうと思いたかった。
数刻の後。
小鷹は、俺の宮殿の中庭に引かれてきた。
彼の身を常に飾っていたあまたの宝玉は今は一つもなく、黄金の鎧甲も身につけてはいない。
耳連は解けかかって、首の辺りに髪が渦巻いていた。
衣服だけは、首都に戻ってから新しい物を与えられたのか、生成りの麻の貫頭衣をつけている。それはこざっばりとはしているが、大王の王子の着るようなものではない。後ろ手に荒縄で縛られて土の上に膝を突いているようすは、逃亡を企てて失敗した奴婢のようだ。
ああ――しかし、それでもなお。
小鷹は美しかった。
十人余りの兵士たちにぐるりを囲まれ、見下ろされていても、彼の誇りは毛筋ほども傷ついてはいないかのように。
同母弟は、階の上に現れた俺を――真直に顔を上げて見つめた。
「小鷹」
俺は、声が震えるのを押し隠し、冷静に振る舞おうとした。
「此度のこと、大変に残念だ」
「兄上」
小鷹は口を開いた。
「おれは、反乱など企てておりませぬ」
「言い訳などは聞きたくない」
「すでに証拠は幾らも揃ってございます」
俺の言葉に被さるように、後ろから当麻の声がした。黒紫の大鴉のような大臣は、音も立てずに俺の左に進み出てきた。
「小鷹王子――本当に残念でございます。このような無謀なお企み――もう少し賢いお方と信じておりましたのに」
「全くだな当麻」
小鷹は大臣を見上げ、唇を歪めて笑った。
「今となっては繰り言だが――今少し賢ければ企みに気がつけたものを」
それは何もかもを知っているという言いぶりだった。当麻はまるで動じず、ほほほ、といつものように笑った。
小鷹は視線を俺に戻した。その目には、怒りの色はなかった。
「兄上」
小鷹のよく通る声が俺を呼んだ。
自らの運命をすでに悟った、澄み切った響き。
「何を申し上げても、お聞き届けいただけないのはよく承知いたしております。兄上がお決めになったことだ、もう違えることは出来ますまい――ですがあえて申し上げます。おれは兄上に成り代わりたいなどと思ったことは一度たりともございませぬ」
俺は、かっと血が上るのを押さえることが出来なかった。
目がくらむ。頭痛がする。
「綺麗事を言うな小鷹!」
俺は階を駆け下りて、小鷹の肩に玉杖を当てた。
「お許しください、と何故言わぬ! 這いつくばって命乞いをせぬのか!」
小鷹は答えなかった。ただ歯を食いしばり、俺を強い目で見つめていた。その目には、浴びせられる理不尽への困惑が見えた。
何故だ小鷹。
何故お前はそんなにも真直でいられるのか。
妬みや奢り、欲、野望――そういった黒い感情が、いつも俺の中に、回りに渦巻いている。
お前は何故、それから自由でいられる。
自分の命と引き替えにしてもなお、それに捕らわれずにいられるのか。
俺には分からぬ。
だから――俺はお前が憎いのだ。
憎い。
憎い。
視界が真っ白になった。俺は無意識に玉杖を振り上げていた。
杖で横面をはり倒された小鷹は、ぐぅ、と呻いて横倒しに地面に転がった。
流石に驚いたのか、当麻が駆け下りてきた。
「大兄王子、雄隼さま、おやめなさいませ、もうそのぐらいで」
「殺せ!」
俺は叫んでいた。俺の腕を掴もうとする当麻を振りほどく。
「処刑だ! 俺に逆らうものはみな殺す!」
2
空におびただしい鴉が舞っていた。
肉の腐った匂いが丘に満ちている。
首都の東北――「縛り首の丘」と呼ばれる処刑場には、丘を登っていく道沿いに等間隔に二十本ほどの丸木が立てられ、それぞれに一つずつ死骸がぶら下がっている。
それらは小鷹の王子宮に残っていた、主立った舎人の死体だ。処刑からもう三日ほども経っているので、初夏の強い陽に屍はむれて、蝿の羽音が煩いほどだ。
鴉の群れは、俺たちの一行が丘を登ってくるのに気付いて屍から飛び立ったのだったが、やがて一羽、また一羽と舞い降りて、再び腐肉をつつき始めた。
当麻は来なかった。俺にもしきりに、大兄王子の行く所ではないと言って引き留めようとしていた。それはそうだろう。処刑の立ち会いなど永年奴婢の役目である。俺の舎人たちでさえ、俺が行くというと露骨に嫌な顔をした。俺が行けば自分たちも従わねばならなくなるからだ。
それでも俺は――最後まで諦めきれなかったのだ。
小鷹が、処刑人独特の入れ墨を顔に施した賎奴 に左右を固められ、後ろ手に縛り上げられて列の先頭を行く。
生成りの麻の貫頭衣に、長かった髪は肩の辺りで短く切られていた。
俺はその後ろから、五人の舎人たちと共に、のろのろと坂を上っていく。
貴人の処刑場は、丘の頂上だ。
小鷹は、数日前まで自分の忠実な舎人だったものたちの死体を、痛ましげに、けれど冷静に見ながら歩を進めていく。
ぶらぶらと揺れる屍の列が終わった時、小鷹の横顔にかすかに動揺が見えた。彼は肩越しに振り返り、今まで過ぎてきた遺体をもう一度目で追った。
俺は、彼が何を探しているのかを知っている。
「小鷹」
俺は同母弟に声をかけた。
「お前の忠実な舎人は、あそこだ」
前方に見え始めた頂を指差す。
そこには、太く枝振りも豊かな一本の松と――その下に、三人の屈強な処刑人に引き据えられた、大柄な男の姿が見えた。
「熊名っ!」
小鷹が叫び、駆け出そうとする。だが両脇から二人の賎奴に取り押さえられる。
「逸るな小鷹。焦らずとも、お前もどうせあそこへ向かっているのだ」
俺はその小鷹の叫びに、甘美な満足と苦い嫉妬を同時に感じていた。
やがて我々も、その松――貴人の為の「吊るし首の松」のそばまで上ってきた。
「熊名ぁっ!」
小鷹が再び絶叫した。
熊名は――左腕を切り落とされ、残った右の目もつぶされていた。おびただしい血で彼の貫頭衣は赤黒く染まり、膝の下の地面にも血溜まりが出来ていた。
熊名は小鷹の声を聞き、顔を上げた。もはや彼の目には主の顔など見えないのに。
「どうだ、小鷹」
俺は同母弟に声をかけた。
「忠実なこの男が嬲り殺されるのをみるのは辛かろう――お前が俺に赦しを請うならば、せめてひと思いにこの男の息の根は止めてやる」
泣け、小鷹。
泣いて、俺に許しを請え。
取り乱し、俺にすがって、生命請いをしろ。
「申し訳ありませんでしたと言え! 黄金の玉座がどうしても欲しかったのですと泣け!」
俺は心の奥で、血を吐くように呟く。
(俺は、許してやる。そうすれば許してやる。お前を抱きしめ、接吻し、その縄を解いてやる)
――だが、小鷹は泣かなかった。
歯を食いしばり、真っ白になった顔で、小鷹は俺を振り返った。
そして、おそらくは熊名に聞こえるように、きっぱりと言い切った。
「おれは、大王になりたいと思ったことなど一度としてありませぬ!」
小鷹は俺をにらみつける。
「信じてもらえぬのは承知しております。ですが兄上、おれは嘘はつけない。兄上の治世の記録には、おれは反乱者として記されるのでしょう。後の世の人々もそれを信じるのかもしれぬ。だが兄上だけは、それが偽りだと最初からご存じのはずだ」
「黙れ小鷹!」
俺は小鷹の膝の辺りを蹴り上げた。小鷹はよろめき、傍らにいた賎奴の肩に倒れこんだ。
「殺せ! 嬲れ!」
俺は熊名を取り押さえている処刑奴に命じた。腰帯一つの彼らは顔色一つ変えず、熊名を押さえ込んでいた矛をぐるりと持ち帰ると、左右から同時に振り下ろした。
「熊名!」
太股を貫かれ、肩を突かれ、熊名は仰向けに転がった。だが彼は呻き声一つ上げなかった。
「熊名ぁ!」
「小鷹! 赦しを請え! 泣け!」
俺は狂気のように叫んだが、小鷹はもう振り向きもしない。
「もっと嬲れ!」
小鷹は熊名から目を逸らさなかった。舎人の腹が裂け、臓腑が土の上に散らばっても、腕と足を胴から切り離されても。
俺の方がたまらず顔を背けてしまった。辺りにいる俺の従者たちももうとうに参ってしまい、あちこちで反吐を吐き散らしていた。
「熊名!」
耳が聞こえているか、生きているかさえ定かでない男の名を小鷹は呼ぶ。
「熊名! 熊名! 聞こえているか、おれの熊名よ!」
呻き声すら立てぬまま、いつの間にか熊名は事切れていた。だが彼がいつ死んだにしろ、彼は愛する王子の声を聞きながら死んだだろう。
舎人の凄惨な処刑が終わり、賎奴たちが無惨な遺骸を引いていった。それを見送ってから、小鷹はゆっくりと俺を振り返った。
彼は泣いていなかった。目の辺りが真っ赤に充血してはいたが。
「何故許せと言わぬ」
俺は力なく言った。小鷹は震える声で答えた。
「熊名にはこれから黄泉の国で詫びます」
それから、自分の両脇に立つ賎奴を見回した。
「さあ、何をしている。大兄王子が焦れておられる。早くおれをあの松の下へ連れて行け」
松の枝には太い藤蔓の縄がかけられ、真下には木の踏み台が据えられてある。小鷹は自らそこへと歩みよっていく。
「小鷹! 何故許せと言わぬのだ!」
俺は悲鳴のように叫んだ。
頼む、言ってくれ。
たった一言。
しかし、小鷹は答えなかった。無言のまま踏み台を上る。賎奴の一人が共に台に上り、彼の細い首に縄をかけた。
「小鷹――――」
小鷹は、縄の輪の中から俺を見た。
俺は――どんな顔をしていただろうか。
俺はどうしたいのだ。
分からない。もう何も分からない。
「言い残すことはございますか」
台から下りた賎奴が、決まり通り小鷹に尋ねる。
俺は心の中で叫んでいた。
許してくれと言え。言ってくれ。
だが小鷹は、薄く笑った。
「兄上の治世の平穏をお祈りいたします。黄泉比良坂では、先に行った白鳥 と熊名がおれを待っているでしょう。黄泉大神がお許しくだされば、おれはもう一度あの白馬に乗り、熊名と共に、天駆けて海を越え、夢に見た遥かな異国へと旅に出ようと思っております」
「お前は――お前はまだそんなことを!」
俺は喚いて小鷹に掴みかかろうとした。
だが――その瞬間。
小鷹は自ら、勢いよく踏み台を蹴って飛んだ。
「あっ――――!」
台を抜く役目の賎奴が小さく叫んだ。
がくん、と小鷹の体が宙に揺れた。
あっけない最期だった。首の骨の折れる、鈍い音がした。
お前がいけない。
俺は声にならない声で叫ぶ。
お前がいけないのだ、美しき同母弟よ。
お前が俺の首に、縄をかけに来なかったからだ。
毎夜の夢の、お前の指の跡が、俺の首には今も残っているというのに。
俺は呆然と、小鷹の死に顔を見ていた。
笑いさえとどめた、その顔を。
「おだ……か」
気が付くと、俺は弟の屍にすがりついていた。
彼の体からはみるみる熱が失せていく。
「下ろせ! 小鷹を下ろしてくれ!」
賎奴に怒鳴りちらしながら、俺は自ら台に上ろうとした。だが、やっと我に返ったらしい舎人三人に取り押さえられる。
「離せ!」
俺がもがいている間に、二人の賎奴が小鷹の体を下ろした。俺は舎人たちを振りほどき、地面に横たえられた小鷹に駆け寄った。
小鷹の死に顔は血と泥に汚れていても、なお美しく、誇り高かった。
「おだか――――」
ふいに、俺の視界は歪み、頬を熱いものが伝った。
泣いているらしい、と俺はしびれた頭でぼんやり思う。
抱き上げた弟の体はもう冷たい。
「おだか――――」
これが――俺の望んだことだったのか。
分からぬ。もう何も分からぬ。
俺は泣いた。小鷹の体を抱きしめて泣いた。
いつまでも、俺は泣き続けた――――
「小鷹が――捕らわれた、と?」
俺は痴呆のように繰り返した。
「捕らわれた――? どこで、誰に――――」
階の下に跪いた舎人は、淡々と答える。
「南の峠を下り、首都へ入る街道を、舎人一人連れて歩いていらっしゃる所を、その一帯の封鎖に当たっていた『北の一族』の兵士に発見されたそうです。逃げ隠れすることもなく、堂々とお名乗りになり、そのまま縄を打たれて、ただ今こちらに向かっておられるとか」
何故だ。
俺は玉杖を握りしめた。関節が白くなるまで強く。
今ごろは、あれは海辺の民の所へと落ち延びているはずではなかったのか。
「小鷹王子らしいことですな」
いつの間にか、後ろに当麻が立っていた。俺は振り返ることも出来なかった。
小鷹らしい――――?
本当に――そうだった。
この上なく小鷹らしい。一点の曇りもない磨き上げた鏡のように。
もしかしたら俺は、こうなることが分かっていたのかもしれない。
だが――認めたくなかったのだ。
追いつめて何もかも奪えば――いかに小鷹とはいえ、他の道を選ぶだろうと思いたかった。
数刻の後。
小鷹は、俺の宮殿の中庭に引かれてきた。
彼の身を常に飾っていたあまたの宝玉は今は一つもなく、黄金の鎧甲も身につけてはいない。
耳連は解けかかって、首の辺りに髪が渦巻いていた。
衣服だけは、首都に戻ってから新しい物を与えられたのか、生成りの麻の貫頭衣をつけている。それはこざっばりとはしているが、大王の王子の着るようなものではない。後ろ手に荒縄で縛られて土の上に膝を突いているようすは、逃亡を企てて失敗した奴婢のようだ。
ああ――しかし、それでもなお。
小鷹は美しかった。
十人余りの兵士たちにぐるりを囲まれ、見下ろされていても、彼の誇りは毛筋ほども傷ついてはいないかのように。
同母弟は、階の上に現れた俺を――真直に顔を上げて見つめた。
「小鷹」
俺は、声が震えるのを押し隠し、冷静に振る舞おうとした。
「此度のこと、大変に残念だ」
「兄上」
小鷹は口を開いた。
「おれは、反乱など企てておりませぬ」
「言い訳などは聞きたくない」
「すでに証拠は幾らも揃ってございます」
俺の言葉に被さるように、後ろから当麻の声がした。黒紫の大鴉のような大臣は、音も立てずに俺の左に進み出てきた。
「小鷹王子――本当に残念でございます。このような無謀なお企み――もう少し賢いお方と信じておりましたのに」
「全くだな当麻」
小鷹は大臣を見上げ、唇を歪めて笑った。
「今となっては繰り言だが――今少し賢ければ企みに気がつけたものを」
それは何もかもを知っているという言いぶりだった。当麻はまるで動じず、ほほほ、といつものように笑った。
小鷹は視線を俺に戻した。その目には、怒りの色はなかった。
「兄上」
小鷹のよく通る声が俺を呼んだ。
自らの運命をすでに悟った、澄み切った響き。
「何を申し上げても、お聞き届けいただけないのはよく承知いたしております。兄上がお決めになったことだ、もう違えることは出来ますまい――ですがあえて申し上げます。おれは兄上に成り代わりたいなどと思ったことは一度たりともございませぬ」
俺は、かっと血が上るのを押さえることが出来なかった。
目がくらむ。頭痛がする。
「綺麗事を言うな小鷹!」
俺は階を駆け下りて、小鷹の肩に玉杖を当てた。
「お許しください、と何故言わぬ! 這いつくばって命乞いをせぬのか!」
小鷹は答えなかった。ただ歯を食いしばり、俺を強い目で見つめていた。その目には、浴びせられる理不尽への困惑が見えた。
何故だ小鷹。
何故お前はそんなにも真直でいられるのか。
妬みや奢り、欲、野望――そういった黒い感情が、いつも俺の中に、回りに渦巻いている。
お前は何故、それから自由でいられる。
自分の命と引き替えにしてもなお、それに捕らわれずにいられるのか。
俺には分からぬ。
だから――俺はお前が憎いのだ。
憎い。
憎い。
視界が真っ白になった。俺は無意識に玉杖を振り上げていた。
杖で横面をはり倒された小鷹は、ぐぅ、と呻いて横倒しに地面に転がった。
流石に驚いたのか、当麻が駆け下りてきた。
「大兄王子、雄隼さま、おやめなさいませ、もうそのぐらいで」
「殺せ!」
俺は叫んでいた。俺の腕を掴もうとする当麻を振りほどく。
「処刑だ! 俺に逆らうものはみな殺す!」
2
空におびただしい鴉が舞っていた。
肉の腐った匂いが丘に満ちている。
首都の東北――「縛り首の丘」と呼ばれる処刑場には、丘を登っていく道沿いに等間隔に二十本ほどの丸木が立てられ、それぞれに一つずつ死骸がぶら下がっている。
それらは小鷹の王子宮に残っていた、主立った舎人の死体だ。処刑からもう三日ほども経っているので、初夏の強い陽に屍はむれて、蝿の羽音が煩いほどだ。
鴉の群れは、俺たちの一行が丘を登ってくるのに気付いて屍から飛び立ったのだったが、やがて一羽、また一羽と舞い降りて、再び腐肉をつつき始めた。
当麻は来なかった。俺にもしきりに、大兄王子の行く所ではないと言って引き留めようとしていた。それはそうだろう。処刑の立ち会いなど永年奴婢の役目である。俺の舎人たちでさえ、俺が行くというと露骨に嫌な顔をした。俺が行けば自分たちも従わねばならなくなるからだ。
それでも俺は――最後まで諦めきれなかったのだ。
小鷹が、処刑人独特の入れ墨を顔に施した
生成りの麻の貫頭衣に、長かった髪は肩の辺りで短く切られていた。
俺はその後ろから、五人の舎人たちと共に、のろのろと坂を上っていく。
貴人の処刑場は、丘の頂上だ。
小鷹は、数日前まで自分の忠実な舎人だったものたちの死体を、痛ましげに、けれど冷静に見ながら歩を進めていく。
ぶらぶらと揺れる屍の列が終わった時、小鷹の横顔にかすかに動揺が見えた。彼は肩越しに振り返り、今まで過ぎてきた遺体をもう一度目で追った。
俺は、彼が何を探しているのかを知っている。
「小鷹」
俺は同母弟に声をかけた。
「お前の忠実な舎人は、あそこだ」
前方に見え始めた頂を指差す。
そこには、太く枝振りも豊かな一本の松と――その下に、三人の屈強な処刑人に引き据えられた、大柄な男の姿が見えた。
「熊名っ!」
小鷹が叫び、駆け出そうとする。だが両脇から二人の賎奴に取り押さえられる。
「逸るな小鷹。焦らずとも、お前もどうせあそこへ向かっているのだ」
俺はその小鷹の叫びに、甘美な満足と苦い嫉妬を同時に感じていた。
やがて我々も、その松――貴人の為の「吊るし首の松」のそばまで上ってきた。
「熊名ぁっ!」
小鷹が再び絶叫した。
熊名は――左腕を切り落とされ、残った右の目もつぶされていた。おびただしい血で彼の貫頭衣は赤黒く染まり、膝の下の地面にも血溜まりが出来ていた。
熊名は小鷹の声を聞き、顔を上げた。もはや彼の目には主の顔など見えないのに。
「どうだ、小鷹」
俺は同母弟に声をかけた。
「忠実なこの男が嬲り殺されるのをみるのは辛かろう――お前が俺に赦しを請うならば、せめてひと思いにこの男の息の根は止めてやる」
泣け、小鷹。
泣いて、俺に許しを請え。
取り乱し、俺にすがって、生命請いをしろ。
「申し訳ありませんでしたと言え! 黄金の玉座がどうしても欲しかったのですと泣け!」
俺は心の奥で、血を吐くように呟く。
(俺は、許してやる。そうすれば許してやる。お前を抱きしめ、接吻し、その縄を解いてやる)
――だが、小鷹は泣かなかった。
歯を食いしばり、真っ白になった顔で、小鷹は俺を振り返った。
そして、おそらくは熊名に聞こえるように、きっぱりと言い切った。
「おれは、大王になりたいと思ったことなど一度としてありませぬ!」
小鷹は俺をにらみつける。
「信じてもらえぬのは承知しております。ですが兄上、おれは嘘はつけない。兄上の治世の記録には、おれは反乱者として記されるのでしょう。後の世の人々もそれを信じるのかもしれぬ。だが兄上だけは、それが偽りだと最初からご存じのはずだ」
「黙れ小鷹!」
俺は小鷹の膝の辺りを蹴り上げた。小鷹はよろめき、傍らにいた賎奴の肩に倒れこんだ。
「殺せ! 嬲れ!」
俺は熊名を取り押さえている処刑奴に命じた。腰帯一つの彼らは顔色一つ変えず、熊名を押さえ込んでいた矛をぐるりと持ち帰ると、左右から同時に振り下ろした。
「熊名!」
太股を貫かれ、肩を突かれ、熊名は仰向けに転がった。だが彼は呻き声一つ上げなかった。
「熊名ぁ!」
「小鷹! 赦しを請え! 泣け!」
俺は狂気のように叫んだが、小鷹はもう振り向きもしない。
「もっと嬲れ!」
小鷹は熊名から目を逸らさなかった。舎人の腹が裂け、臓腑が土の上に散らばっても、腕と足を胴から切り離されても。
俺の方がたまらず顔を背けてしまった。辺りにいる俺の従者たちももうとうに参ってしまい、あちこちで反吐を吐き散らしていた。
「熊名!」
耳が聞こえているか、生きているかさえ定かでない男の名を小鷹は呼ぶ。
「熊名! 熊名! 聞こえているか、おれの熊名よ!」
呻き声すら立てぬまま、いつの間にか熊名は事切れていた。だが彼がいつ死んだにしろ、彼は愛する王子の声を聞きながら死んだだろう。
舎人の凄惨な処刑が終わり、賎奴たちが無惨な遺骸を引いていった。それを見送ってから、小鷹はゆっくりと俺を振り返った。
彼は泣いていなかった。目の辺りが真っ赤に充血してはいたが。
「何故許せと言わぬ」
俺は力なく言った。小鷹は震える声で答えた。
「熊名にはこれから黄泉の国で詫びます」
それから、自分の両脇に立つ賎奴を見回した。
「さあ、何をしている。大兄王子が焦れておられる。早くおれをあの松の下へ連れて行け」
松の枝には太い藤蔓の縄がかけられ、真下には木の踏み台が据えられてある。小鷹は自らそこへと歩みよっていく。
「小鷹! 何故許せと言わぬのだ!」
俺は悲鳴のように叫んだ。
頼む、言ってくれ。
たった一言。
しかし、小鷹は答えなかった。無言のまま踏み台を上る。賎奴の一人が共に台に上り、彼の細い首に縄をかけた。
「小鷹――――」
小鷹は、縄の輪の中から俺を見た。
俺は――どんな顔をしていただろうか。
俺はどうしたいのだ。
分からない。もう何も分からない。
「言い残すことはございますか」
台から下りた賎奴が、決まり通り小鷹に尋ねる。
俺は心の中で叫んでいた。
許してくれと言え。言ってくれ。
だが小鷹は、薄く笑った。
「兄上の治世の平穏をお祈りいたします。黄泉比良坂では、先に行った
「お前は――お前はまだそんなことを!」
俺は喚いて小鷹に掴みかかろうとした。
だが――その瞬間。
小鷹は自ら、勢いよく踏み台を蹴って飛んだ。
「あっ――――!」
台を抜く役目の賎奴が小さく叫んだ。
がくん、と小鷹の体が宙に揺れた。
あっけない最期だった。首の骨の折れる、鈍い音がした。
お前がいけない。
俺は声にならない声で叫ぶ。
お前がいけないのだ、美しき同母弟よ。
お前が俺の首に、縄をかけに来なかったからだ。
毎夜の夢の、お前の指の跡が、俺の首には今も残っているというのに。
俺は呆然と、小鷹の死に顔を見ていた。
笑いさえとどめた、その顔を。
「おだ……か」
気が付くと、俺は弟の屍にすがりついていた。
彼の体からはみるみる熱が失せていく。
「下ろせ! 小鷹を下ろしてくれ!」
賎奴に怒鳴りちらしながら、俺は自ら台に上ろうとした。だが、やっと我に返ったらしい舎人三人に取り押さえられる。
「離せ!」
俺がもがいている間に、二人の賎奴が小鷹の体を下ろした。俺は舎人たちを振りほどき、地面に横たえられた小鷹に駆け寄った。
小鷹の死に顔は血と泥に汚れていても、なお美しく、誇り高かった。
「おだか――――」
ふいに、俺の視界は歪み、頬を熱いものが伝った。
泣いているらしい、と俺はしびれた頭でぼんやり思う。
抱き上げた弟の体はもう冷たい。
「おだか――――」
これが――俺の望んだことだったのか。
分からぬ。もう何も分からぬ。
俺は泣いた。小鷹の体を抱きしめて泣いた。
いつまでも、俺は泣き続けた――――