鳥の夢 ――日の面
文字数 13,354文字
1
翌朝の空は、雲一つなく晴れ渡っていた。
館の門前広場は、すでに多くの男たちで溢れかえり、鉄と汗の匂いに満ちている。それにまじって時折かすかに酒と焦げた木の香が漂うのは、夕べ遅くまで館中が浮かれ騒いだ宴の残 りだった。
矛を掲げて整列する徒の兵士たちの前に、馬を引いた舎人が並ぶ。
「旅のご無事をお祈りしております。神々のご加護がございますように」
彼らと向かい合って並ぶ我々山の王族を代表し、父が一歩前に進み出て、清めの手を打った。私たちもそれに倣う。
小鷹王子はただ一人すでに馬上にあった。
あの美しい白馬に黄金の馬具をつけ、自らも同じように光り輝く金銅の鎧に身を包んで、私たちを見下ろしている。冑はかぶっておらず、その代わりに金の冠が頭に嵌められていた。それは立て飾りのない一見すっきりとしたものだったが、指二本分ほどの幅の中に細かい透かし彫りがなされていて、王子のつややかな黒髪によく映えていた。
私は、ただただ身を小さくし、父や叔父たちの後ろで顔を伏せていた。
何故、誰も私に何も言わないのか分からない。
宴の間中も、その後の長い夜も、私はただ一人、館の西外れに隔離された女棟の自室で縮こまって過ごした。王子を拒んだことでどんなお叱りがあるのか――あるいは、王子が寝所に現れるのではないのかと。
だが、結局は何も起こらなかったのだ。
誰もが皆、私のことなど忘れ去ってしまったようだった。
私にはもう、それが良いことなのか悪いことなのか、嬉しいのか悲しいのかさえ分からない。
騒ぎ疲れていた館は、夜が明けて随分立ってからようやく目覚めて、一時ににぎやかになった。私のところに小染がやってきたのは、更にずっと後のことである。
しかしその小染も、ただ私にいつも通りの朝の挨拶を述べ、着替えを手伝ってくれただけだ。彼女に手を引かれてこの庭に出てからも、私に声をかける人はいなかった。
まるで、私という存在がそこにないかのように。
だが、もし何か言われたとしても、何と答えればいいのか。
ただひたすらに――私はうつむいているしか出来なかった。
「万歳!」
「小鷹王子、ご出立!」
どっ、と歓声が上がった。広場に溢れていた兵士たちが一斉に動き出し、列を成して門を出て行く。
「万歳!」
「万歳!」
宴の準備や兵士たちの世話をさせるために一時的に召し出した領民たちが、最後の仕事を全うするため、従兄弟たちの指図で言祝ぎの声を上げる。女たちの振る領巾 や袖が、虹色の幡のように揺れた。
「告茱の姫」
不意に、太い男の声で名を呼ばれ、私はびくっとした。
いつの間にか、目の前にあの隻眼の舎人、熊名が立っていた。今日の彼は短甲をつけ、左手に長い矛を携えて武装している。
「姫。王子から、これを」
熊名が右手を差し出した。その大きな手のひらの上に乗っていたのは、確かに昨日王子の指に嵌っていた金の指輪だった。蛇が自分の尾を咥えて輪になっている形。
「すまなかったと言っておいでだ」
私は驚いて、もう門の辺りまで馬を進めている小鷹王子を見た。
王子は私と目が合うと、一瞬、どんな顔をしていいのか分からない、というように唇を歪ませ、それからぷいと横を向いた。
「小鷹――王子――?」
王子が去っていく。
山から吹き下ろす風に、王子の耳連から垂れた長い下げ髪がなびいた。
私はぼんやりとその後ろ姿を見送る。
『おれはお前が気に入った――おれと一緒に首都へ行かぬか』
王子の、自信に満ちた若い声が、また耳元でこだましたような気がした。
私は、蛇の指輪を握りしめた。
二の社への道を、楽しげに下りていた王子。
滝のほとりに座って、じっと水面を見つめていた王子。
私の名を呼んだ声、私の腕を掴んだ指、抱き寄せられた固い胸、息づかい――――
胸が、顔が熱い。頬が焼ける。
息が詰まるような気さえして、私は胸を押さえた。そしてその場にうずくまった。
「まあ、どうなさいましたの姫さま」
誰かが私を揺さぶっている。
「姫さま――――」
何故だろう――閉じたはずのまぶたの裏に、白馬に乗った王子が舎人たちを引きつれ、山をはるかに下っていくのが、くっきりと浮かび上がる。
それはやがて下手の集落から出てきた兵士や賎奴たちの列と合流し、川のようになって山間の道を流れていく。あの「二の社」から溢れた沢が、他の沢と集まって大川となるがごとく。
水の青に染められたあまたの幡を掲げ、陽の光に鎧の止め金をきらめかせ。
ああ――何という美しい若者だろう。
金色の鎧と額の冠が日を受けて光っている。
川の流れを切り裂いて進む鮎のように。
私はそれを空から見下ろしているのだった。
(何故私はこんな幻を見ているのだ)
「姫さましっかり、どうなさったのです?」
気が――気が遠くなる。
視界は突然暗闇に閉ざされた。
途端に耳を打つ、うちよせてくる悲鳴、馬の狂ったようないななき。
ああ――赤い――赤い。
血が。血が流れている。赤い。赤い。
「姫さま、どうなさったのです? 赤いって、何が――?」
「姫さま!」
「誰か、姫さまが! 来椋(こむく)、来椋!」
「姫さま、どうなさったのです! 誰か、誰か姫さまを!」
小染の声が遠い。
ここはどこなのか――――
(山の館の正門の前のはず)
今はいつなのか――――
(初夏のよく晴れた日の朝、小鷹王子の一行を皆で見送っていたはず)
手も、足も動かない。目も見えない。やがて耳も聞こえなくなった。
私は、暗い――真っ暗な淵へ、ゆらゆらと沈んでいった。
2
私は――誰だろう。分からない。
遠くにかすかな光が見える。あそこへ行かなければ。
手を、足を動かそうとする。だが上手く動かない。
腕は――前に向かって伸ばすことが出来ない。
足は――縮こまり、体にぴったりと付いていた。力が入らない。
光が近づいてくる。徐々に大きくなってくる。
闇は揺らめきながら後方へ押し流されていく。遠く、ごうごうと風が鳴っている。
私は、突然光の中へ飛び出した。
私は両腕をとっさに開いた。風が私の腕を――体をふわりと押し上げた。
鳥だ――――
私は鳥になっている。
二本の腕は翼になって、打ち振るたびに風を捕らえ、私を上へ、前へ進ませた。
体の感覚も、足の感覚も、あっという間になくなった。
私は――鳥になって空を飛んでいるのだ。
羽ばたく。羽ばたく。
果てしなく青い空が広がっていた。
見下ろせば、幾重にも重なる山々の緑。その間を縫って流れる糸のような沢。
沢はやがて一つに縒り集まり、次第に豊かな流れとなって、やがて大きな湿地へと注ぎ込む。
山の民の領地の、一番北の端。
幼い頃父に連れられ遊びに来たことがある。その時は秋で――無数の蜻蛉が舞っていた。
今は――夏だ。丈なす草が沼地を覆っている。蛙の声がする。
きらきらと陽光を受ける広い川が、ゆるやかにうねり流れていく。
その湿地を、街道が横切っていく。
我らの祖先が何世代もかけて作った盛り土、丸木を何百とつないで敷き詰めた道。
あれは、かつて私も歩いたことのある道――――
ここを越えればもうすぐに、大王家の直轄領だ。
今、その道をゆっくりと進んでいく、鎧を着た兵士たちの列。
その中ほどにひときわ目立つ、白馬に乗った金の鎧の若者。
笑っている。手綱を引く隻眼の大男に何か言いかけて、楽しそうに笑っている。
回りの騎馬兵も、その声を聞いて微笑みを浮かべている。
草と水の、さわやかな香りに満ちた風が、さわさわと音を立てながら過ぎていく。
知らず知らずに私は、その隊列の上に舞い降りていった。
何という美しさだろう。
切れ長の目、つやつやとした黒髪。明るくよく通る声。
ああ、若者が私に気付いた。見上げて、指差して――何かを言った。
傍らに馬を進めていた兵士が、背中にさしていた弓を取り出し、私に向かって矢を番えた。
私はびっくりして再び高く舞い上がった。若者たちはどっと涌いた。本気で狙ったのではないようだった。
私は、けれども、急に恥ずかしくなって、もう彼のそばに降りていくことが出来なくなった。それに今度こそ打ち落とされるかもしれない。
私は――高く高く飛んだ。
見る見るうちに兵士たちの列は遠ざかり、広い湿地が一目で見渡せるようになった。
と――――
湿地の果てで、何かがきらりと光った。
一つではない。あそこでも、ここでも。
兵士たちの群れが進んでいく街道の先、川下の一帯。少し地が乾き始める辺り。
生い茂る芦やがまの穂の中に、何かが潜んでいる。
きらり、きらり、と草の中に光る、それは――鉄の矛先だった。
私は驚いてそちらへ近づいていった。
何ということだろう。あそこにも、ここにも、一面に。
鎧甲に身を固め、盾と矛や剣で武装した兵士が、身を伏せて息を殺している。
百人――二百人。いや――五百人はいるだろう。
その様子は――到底、彼らを迎えに来たものとは思えなかった。
のんびりと湿原を抜けていく若者と、彼の兵士たちは、まだ何も気付いていない。
いけない、そっちに行ってはいけない!
引き返して! それ以上前に進んではだめ!
私は街道を進む列の上へと舞い戻り、声を限りに叫んだ。
けれども――それは、ぴりぴりと囀る鳥の声にしかならない。
ああ、また彼が私を指差した。笑わないで。ねえ、笑っている場合ではないわ。
引き返して!
この先には危険が待っているの!
今すぐ進むのをやめて! 引き返して!
だが――私のその囀りは、やはり彼にはまるで届かなかったのである。
草むらから武装した兵士たちが飛び出してくる。
不意をつかれた行列は一斉に崩れた。
悲鳴、怒号、混乱。馬のいななき。
無数の矢が飛び交う。
何故なの――どうしてこんなことに!
私はやみくもに草原を飛びまわった。
飛び散る大蛇の鱗のように、あちこちでひらめく剣、戟、盾。
沼地は瞬く間に、血みどろの戦場と化した。
首のない屍が、体中に矢を生やした骸が、まだ生きていても泳ぐことの出来ぬ男が深い沼に足を取られ、あるいは川を流れていく。
悲鳴、雄叫び、絶叫。
私は高く、低く飛びながら、金の鎧を――白馬の若者を探した。
何故なの。もうこの向こうは大王家の領地だわ。
ついさっきまで、あの人は笑っていた。
回りの舎人たちも微笑み、ふざけあっていた。
これは何? このおびただしい数の兵士たちは何者なの?
「何故だ!」
突然、その声が轟いた。私ははっとしてそちらを見た。
ああ――いた。川岸に生い茂る芦の中に、あの人の金の鎧が光っている。
「この兵士たちは何者だ! 何故こんな所に、これほどの兵士が伏せられていたのだ!」
彼は絶叫した。
あの光り輝くような白馬の姿は見えない。彼は徒で芦群を踏み分け、血糊でべったりと染まった剣を振りかざし、返り血と汗と泥にまみれ、襲いかかる兵士を切り伏せている。そのそばでは人々から頭一つも抜きん出た大男が長々とした戟をふりまわしている。
「この向こうは直轄地ではないか! 山の民の裏切りか!」
すでに彼らは明らかに、追われ、狩りたてられる側に回ってしまっていた。もう、彼らの背は川だった。大きく蛇行する流れがえぐった深い淵が、緑色の口を開けていた。
彼の美しい貌 から余裕の色はうせ、脂汗に泥がこびりついて耕作奴 のように汚れ――けれども双の瞳だけが、まるで炎のようだ。
「王子、我らははめられたのだ!」
隻眼の大男が彼の前に飛び出し、切りかかって来た兵士の首を一息に跳ね上げた。
「これは――俺には分かる、これは山の一族ではない、首都の兵士だ!大兄王子 の――雄隼王子 の兵士たちだ!」
「兄上だと!?」
彼の表情が見る見る歪む。
その時だった。
流れ矢か。それとも狙い定めて放ったのか。
彼の肩口を、太い矢が襲った。
「王子――っ!」
隻眼の舎人が、片手で彼を抱きとめる。この時とばかり押し寄せる兵士たち。
隻眼の男は意を決し、主を腕に抱いたまま、右手の戟を握り直した。襲いかかる兵士と縺れ合い、彼らは淵へと落ちていった。
男の腕の中から、若者は空を仰いだ。彼は確かに私を見た。そしてわずかに笑った。
水音が響いた。
3
「小鷹王子――――!!」
声にならない自分の声で、私は目覚めた。
薄暗かった。しばらくぼんやりと天井を見上げていて――私はようやく、そこが山の館の、自分の部屋であることに気付いた。
ゆっくりと頭を巡らせる。私は帳台に寝かされていた。いつの間に着替えさせられたのだろう、夜着の貫頭衣を着ている。
入り口の所で小染が、丁度燈台に火を入れようとしていた。
「小染……」
私が名を呼ぶと、小染はぎょっとしたように振り返った。
「姫さま……私がお分かりになるのですか?」
「何を言っているの……?」
「ひ、姫さま――ようございました!」
小染は私に駆け寄ってきて、掴みかかるようにして私の手を取った。
「ど――どうしたの小染」
「本当にようございました――もしやあのまま正気に戻られないのではと、本当にご心配申し上げたのですよ!」
「一体――何のことなの?」
私は、何を言われているのかまるで分からず、ただ涙をぽろぽろとこぼす小染を見つめることしか出来なかった。
小染はひとしきり泣いた後、自分の袖口で顔を拭い、それからやっと話し始めた。
「それでは姫さまはやはり、何も覚えておられないのですね……」
「覚えていない……って?」
「姫さまは、小鷹王子をお見送りした後、急にお倒れになられたのです」
「それは――覚えているわ」
「皆たいそう驚いて、大慌てでこちらへ姫さまをお運びしたのです。それからずっと眠っておられたのですが、お昼過ぎに急にお目を開けられて――――」
「目を――開けた?」
「ええそうですわ。それがどうでしょう。お目は確かに開いているのに、まるで何も見えておられないようで、お名前をお呼びしても、お体を揺すぶっても、まるきりお返事がなかったのですよ」
「…………」
「その後もずっと、うとうとと微睡んでは急に何か叫びだしたり、立ち上がってどこかへ歩いていこうとしたり、両手を激しく動かしたり――わたくし、姫さまがどうかなさってしまったのだと――――」
「今は――いつなの?」
「もうすぐ明け方ですわ」
小染は本当にほっとしたように、枕元から水差しを取って、湯飲みに注いでくれた。
「私――夢を見ていたの」
小染の差し出した湯飲みを受け取りながら、私は呟いた。
「夢――?」
「ええ――長い不思議な夢。きっとそのせいなのね――――」
よかった。あれは夢。
私の、ただの夢だったのだ。
不吉な夢ではあるが、夢は夢に過ぎない。
私は再び水差しを差し出す小染に湯飲みを向けながら、ようやく少し微笑んだ。
「おかしいの。私は鳥になっていたの」
「まあ、鳥に?」
「そうなの。小さな鳥になって、山の上をどこまでも飛んだわ」
あの風の匂い。青い空。くっきりと思い出せる。
「そうしてね――ほら、ずっと昔、小染も行ったでしょう。北の、大王家の直轄領との間に広がっている、あの沼地まで辿り着いたの。そうしたらね、下を小鷹王子の兵士の列がずっと歩いていて――――」
私は少し目を伏せた。
「不吉な夢だったわ。よくない夢。後でまた一の社に参って捧げ物をしておくわ――あんなことがあるはずがないのにね。小鷹王子が――首都の兵士に待ち伏せされるだなんて」
かちかちかち……と奇妙な音がした。私は音のする方に目をやった。
小染の手にした水差しが小刻みに震えている。
「小染――どうしたの?」
「姫さま、それは――――」
小染は真っ青になっていた。
今度は私が湯飲みを取り落とす番だった。
「どうしたの、小染――?」
「し、失礼いたします」
小染は慌てて身を翻そうとした。しかし私はとっさに彼女の腕を捕らえた。
「ねえ、どうしたの? 何があったの?」
私は問いつめた。小染は困りはてたように視線を彷徨わせ――やがてうつむいて、私の顔を見ないまま言った。
「姫さまの夢は――正夢でございます」
「正夢――――?」
何を言われているのか判らず、私は呆然として小染の横顔を見た。
「小染――教えてちょうだい。何があったの? 小鷹王子に何が――――」
「姫さま――――」
小染は大きく息を吐き、覚悟を決めたように私に向き直った。
「姫さまはお気を失っておられたのでご存じないのですが――小鷹王子がこちらをお発ちになって幾らもせぬうちに、東の街道を回って別の馳使 いがいらしたのです」
「別の――?」
「はい――それは『野守 の一族 』の早馬 でしたが、小鷹王子の兄君で日継王子であらせられる、雄隼王子の御命を携えておいででした」
「雄隼――王子」
聞き覚えのある名だった。父から聞いた中央の事情の中でだろうか。
――いや、そうではない。
そうだ――それはあの夢の中で。
(王子、我らははめられたのだ!)
そう――あの隻眼の舎人、熊名が叫んだあの言葉。
(これは山の一族ではない、中央の兵士だ! 大兄王子の――雄隼王子の兵士たちだ!)
「小鷹王子は、密かに大王への反乱を企てておいでだったのです」
小染は身を震わせた。
「反乱……?」
「『海辺の一族』を後ろ盾に、大兄雄隼王子を亡き者にし、自らが日継王子になろうと計画しておられたそうです。この巡行は、その為の根回しであったとか――それが発覚したので、大王はもはや、王子を首都へは入れないとおっしゃって――――」
「そんな――――」
私は、言葉を失った。
「こちらにも、厳しいご命令がありました。万一逃げ戻ってくる兵士があっても、決して館に入れるなと――――」
あれは夢ではなかった。
あれは――本当の出来事だったのか。
「あれほど神々に愛されておいでだったように見えましたのにねえ……」
小染は深々と嘆息した。
「そのご寵愛に自惚れておしまいになったのかもしれませんねえ――姫さま、どうなさいました?」
私の目から、熱いものがこぼれて、頬を伝っていた。
後から後から――それは溢れて、胸を、掛け物を濡らしていく。
「そんなはず――そんなはずがないわ」
私は顔を覆ってすすり泣いた。
小染がためらいがちに、私の背をさすろうとする。
「違うわ――違うのよ小染――――」
私は言った。
「あの人は――反乱なんか企てていない――――」
涙で声にならない。しゃくり上げ、鼻をすすり――私はそれでも口に出さずにはいられない。
「あの人は、あの人は――――」
『おれは、ただいろいろなところを見たいだけなのだ。雲より高い山々や、外つ国まで続くという海原や――――』
そう言った時の無邪気な顔。
「あの人は――――そんな人じゃない」
「さあ姫さま、もうお休みになって。まだお体の具合も本当ではないのですから――小染も下がって少し眠らせていただきます」
言いながら小染が、そっと私の手に何かを握らせた。
「朝になりましたら何か食べるものをお持ちいたしますので」
ためらうようにそう言い残すと、彼女は出て行ってしまった。
部屋は再び暗がりに戻った。
私は、手を開き、小染に渡されたものを顔に近づけた。
それは――あの指輪だった。
あの時、熊名が私に渡してくれた、あの金の指輪。
その蛇の細工を握りしめ、私は再び泣き伏した。
どのぐらいの間泣いていたのだろうか。
頭が痛かった。
流石に涙も涸れたのか、もう出なくなった。喉がひりひりする。
私は鼻をすすり上げ、腫れ上がっているであろう顔を手の甲で拭った。
それから――握りしめていた手をもう一度開き、指輪を見た。
小鷹王子が、確か、左手の薬指に嵌めていた指輪。
震える手でつまみ、自分の指に嵌めてみる。
私の薬指には大きすぎた。中指にもまだ少し緩いが、親指では入らない。
中指に中指に指輪を嵌め、その左手を右手で包み込む。
「小鷹王子――――」
目を伏せて、重ねた手を額に押し当てた。
「王子――――」
私は、あの人に、命を救われた礼すらまともに言っていない。
まぶたの裏に、あの夢の光景が甦る。
緑色に淀む淵。落ちていく隻眼の舎人と、黄金の鎧を着た若者。
今ごろ二人の骸は、あの川を流れているのだろうか。
他のあまたの兵士たちの屍と一緒になって、赤く染まった川をどこまでも。
「――――」
そう思いながら――私は何故か、奇妙に鼓動が速まっていくのを感じた。
(私が見たのは――二人が川に落ちたところだけだわ)
そうだ――あの時の熊名は、落ちたのではなく、自分から飛び込んだのではなかったか?
「死んだとは――限らないわ」
私は呟いた。そしてその自分の言葉に、何か奇妙な確信を持った。
「そうだわ――死んだとは限らない。どこかに泳ぎ着いて、生きているかもしれない」
そうだ。
私は両手を握りしめた。
じんわりと汗ばんでくる。体が火照ってくる。
(そうだわ――きっとそうに違いない)
私は帳台から降りた。不思議に力がみなぎってくる気がする。
私は一の社で猪に襲われて、今ごろはもう命がないはずだった。
王子がいてくれたから、私は今生きているのだ。
今度は、私が彼の力にならなくては。
きっと神々はそのために、私にあの夢をお授けになったに違いない。
私は、夜着を脱ぎ捨て、壁の棚から正装の絹の衣服を取り出した。薄桃の上衣をつけ、なめし革の沓を履く。髪を整えて紐で一つにきちんと縛る。
(父に――父に会わなければ)
私は唇をかみしめて部屋を出た。
女棟は寝静まって、人の気配もない。回り縁に出ると、東の空はわずかに白み始めている。
階段を下りて、庭を横切り、父がいるはずの正殿へと向かう。
庭には人影がなかったが、正殿の軒下には幾つもの明かりが揺れていた。まだ父たちは話し合いをしているのかもしれない。
正門にも裏門にも、明々と篝火が灯っているのが見える。逃げ帰ってくる兵士が入らぬよう、普段にもまして厳しく見張っていたのだろう。立ち並ぶ倉と、その向こうに見える馬小屋の陰が濃い。
空気は冷たかったが私は全く寒さを感じなかった。
正殿の西の階段に後少し、と言うところで、私は突然、後ろから声をかけられて飛び上がりそうになった。
「……告茱姉 」
「……来椋――!」
そこに立っていたのは来椋だった。脚絆をつけ、毛皮の上衣を着て、腰には小刀を差している。どこかの警備に出るか、あるいは帰ってきたところか。
「何してるんだよ、こんなところで」
あくびをかみ殺したような息の後、彼は言った。
「正殿よ。父上に会いに行くの」
「伯父上――首長 に?」
彼は首をかしげた。
「こんな時間にか? やめとけよ」
「父上はどこ? まだ広間で叔父上たちと話をしている?」
私はかまわず尋ねた。
「いや――どうだろう。もう終わったんじゃないかな、今は多分部屋で寝ていると思う」
「そう」
再び正殿へ歩き出そうとする私の前に、彼は慌てたように回り込んでくる。
「だから待てってば。首長は寝てるって言ったじゃないか!巫女姫 が男の寝室へ乗り込んでいく気かよ!?」
「そんなことはどうでもいいの。今行かなくてはいけないのよ。そこをどいて来椋」
「一体どうしたんだよ告茱姉――何の用があって……」
言いかけて、来椋ははっと息をのんだ。
「……小鷹王子のことか」
「そうよ――私は王子からちゃんと聞いたの。あの人は大王の密命を受けて豪族たちを監視していた訳でもないし、ましてや、反乱の根回しをするために旅をしていた訳でもないわ。あの人はただ、本当に、珍しいものや美しい場所を見たいと思っていただけなのよ」
「そんなこと分かるもんか」
来椋は何故か、怒ったように口答えした。
「そりゃ表向きはそう言うに決まってるじゃないか!」
「お前はあの人と何も話していないでしょう!」
「じゃあ姉 は何の話をしたっていうんだい! あの美しい王子に口説かれて、何でも鵜呑みにしているだけじゃ――――」
私は来椋に最後まで言わせなかった。自分でも驚くほど強い反発が一瞬でわき上がり、その頬を平手で撲った。
「告茱姉――――」
来椋は、ぽかんと口を開けて私を見た。まさか私から撲たれるとは思ってもいなかったのだろう。
「私は王子を信じるわ」
「告茱姉――――」
「父上は、私を王子に差し出そうとした」
私は、来椋が父その人であるかのように睨みつけた。
「王子とつながりを持ちたくて、巫女である私を、儀式もせずにその立場から下ろしてまで」
「それは――おれも驚いて、そのう……ひどいと思ったけど、でも、結局何もなかったんだろう?」
来椋は言いにくそうに言う。
「だったら良かったじゃないか――――」
「それなのに、今度は手のひらを返すのね。それとも、誰か王子から直接、反乱の時には手を貸してくれと頼まれたものがいるのかしら」
「それは――――」
「王子に罪なんかないわ。あの人を捕らえるのに手を貸したりしたら、それこそ神々のお怒りにあうわ」
「告茱姉――じゃあ姉はどうしろって言うんだい」
「王子を捜してほしいのよ! 首都の兵士たちに殺されてしまう前に!」
「いや、だって王子はもうとっくに死――――」
「いいえ!」
私は叫ぶように遮った。
「王子はまだ生きているわ! 私を待っているのよ!」
何の証拠もありはしないのに、私は言った。
そう口にした途端に、私の目からは涙が溢れた。
空がさっきよりも明るくなった気がする。小さな星は消えはじめている。
来椋は、今度は泣きそうな顔で私の腕に手をかけようとした。
「告茱姉は……小鷹王子と……何もなかったんだろう……? 皆、今となってはそれでよかったと言っているのに」
来椋の声は震えていた。私は彼の手を振り払った。
「何もなくても何かあっても、そんなことどうだっていい。ただ私は王子を助けたいの。私はあの人を――――」
「……好きになったんだね」
来椋は、ため息をつくように言った。童児のような従弟にそう言われて、私は急に恥ずかしくなった。
「お前には関係ないでしょう。さあどいて」
「そうは行かないよ――――」
来椋はなおも両手を広げて私の前に立ちふさがった。
「もし姉の言ったことが本当だったとしても、おれたちに――首長に何が出来るって言うんだ。おれたちは取るに足りない鄙の民だ。大王に逆らったらどうなると思う? おれたち王族だけじゃない、領民 たちのことも考えろよ!」
私は――言葉を失った。
来椋は正しい。
逆賊の汚名を着せられた豪族とその領民がどうなるかは、語り部たちが伝える昔語りにも明らかだ。
「姉は、この館に火を放たれ、その中でおれたちが焼き殺されるのが見たいのかい。領民たちが腕に焼き印を押されて、首都の市で奴婢として売られていってもいいというのか――姉には首長がただずるいだけに見えるかもしれないが、それが政 というものじゃないのかい」
私は唇をかみしめた。
「さあ――もう戻りなよ」
来椋は困ったように、妙に優しい声で言った。
「姉の気持ちは、きっと王子に――神々にも届くよ。だって姉は巫女姫だもの。おれも首長に、もし王子を見つけても殺さないように、なるべく丁寧に扱って首都までお送りするようにお願いしてみるよ――だから」
来椋は私の肩に手をかけ、正殿に背を向けさせた。
「行こう。女棟まで送ってやるよ――どうせおれ、これから裏門の門番なんだ」
来椋に押しやられるようにして、私はよろよろと歩き出した。
もう――私に出来ることは何もないのだろうか。
このまま――小鷹王子は、父の命を受けた山の男たちか、あるいは首都の兵士たちに捕縛され、首都で裁きを受けて――おそらくは処刑され――――
そして私は何事もなかったかのように、祈りの日々に戻るのだろうか。
それとももう私は巫女の任を解かれ――父が許した一族の誰かが、私の臥所に招かれるのを待たなければならないのかもしれない。
私は――左手を握りしめた。
中指に嵌ったあの指輪。
『美しいではないか――幾重にも重なった山の色合いや、棚田の縞模様』
『何という涼やかな風だろう』
何でもない鄙の景色を美しいと言った人。
水の社の滝壺を目を細めて眺めていた人。
絹の服から匂ったあの香り。腕にきらめいていた幾つもの腕輪。
明るい声。少し意地悪そうな笑い方。
私の手首を掴んだあの指――私を抱きしめた固い胸。
「――もう戻ることなんか出来ない」
私は呟いた。
「え――なんだって?」
来椋が聞き返す。私はそれには答えず――彼を突き飛ばすようにして走り出した。
「告茱姉!」
そうだ、もう戻れない。何も知らなかった――あの人を知らなかった頃へ戻ることなんか出来ない。
私は走った。裳裾をからげて、髪をなびかせて。裏門に向かって一直線に。
だが、後少しというところで、追いかけてきた来椋に腕を掴まれてしまった。
「離して!」
「どこへ行く気なんだ!」
「王子を探しに行くの! 一人で行くのよ! 私にしか出来ない、あの人はきっと私を待っている」
「何を馬鹿なことを!」
来椋は私に怒鳴りつけた。
「姉一人で何が出来るっていうんだ! 首都の兵士も王子を探してうろうろしているかもしれないのに、そんなところに女一人で出て行って、もし見つかったら何をされると思うんだ!」
「離しなさい!」
私は体をひねって暴れた。自分でも思いがけないような力が出て、小柄な来椋はよろけて手を弛めた。私は彼から飛びはなれた。
「どうしても止める気なら、その腰の小刀で私を刺しなさい!」
私は、手負いの獣のように吠えた。自分のものとは思えない低い声がはじけた。
「私の様子がおかしくなったのは皆知っているのでしょう! 気が触れて暴れたので殺したと言えば、誰もお前を責めたりはしないわ!」
「そんなことが出来る訳がないじゃないかっ!」
来椋が叫んだ。その悲壮な響きに、私は一瞬黙りこむ。
睨み合う沈黙が過ぎた。
来椋は、怒っているような、悲しんでいるような、複雑な顔で私をじっと見つめている。
「――本気なのか」
来椋が絞り出すように言った。
「ええ」
私はきっぱりと答える。
「お前の言う通りだわ。父上は首長よ――表だって王子を助けることは出来ない――でも、もし出来るなら来椋、父上に伝えてちょうだい。せめて――山の民に王子を追わせないで。首都の兵士たちが王子を捜すのを止められなくても、王子の従者たちを館に入れることが出来ないとしても、山の民をあまた繰り出して、鹿を狩るように王子に矢を射かけないで、と」
再び沈黙が流れた。
来椋は何度も何か言いかけて口をつぐみ、それからゆっくりとため息を吐いた。
「――分かった」
その声は震えていた。
「おれの言うことなんて聞いてもらえるかどうか分からないけれど……首長には必ずそう伝えるよ」
「あ、ありがとう来椋」
私は思わず彼の痩せた手を握ろうとした。しかし来椋はその手を振り払い、目を合わせようともせずに、口の中でぼそぼそと続けた。
「それに、そのままで行っても仕方がないだろ。麻呂女に乗っていけよ」
「え――――?」
私は耳を疑って聞き返した。彼は目を逸らしたまま、あごで門の方を示した。
薄明の空に浮かび上がる、門のそばの見張り台の上に人影がない。
「おれがあんまり遅いもんだから、先の見張り番はもう寝に行ったんだろう。みんな疲れているんだ、宴の後すぐにこの騒ぎで、男衆の殆どがろくに眠っていないからな――だから」
来椋は早口で、吐き出すように言った。
「今なら裏門を抜け出せる。麻呂女に乗っていくんだ――誰かに姉のことを聞かれたら、気が触れて、高笑いしながら山へ入っていったと言ってやるよ!」
翌朝の空は、雲一つなく晴れ渡っていた。
館の門前広場は、すでに多くの男たちで溢れかえり、鉄と汗の匂いに満ちている。それにまじって時折かすかに酒と焦げた木の香が漂うのは、夕べ遅くまで館中が浮かれ騒いだ宴の
矛を掲げて整列する徒の兵士たちの前に、馬を引いた舎人が並ぶ。
「旅のご無事をお祈りしております。神々のご加護がございますように」
彼らと向かい合って並ぶ我々山の王族を代表し、父が一歩前に進み出て、清めの手を打った。私たちもそれに倣う。
小鷹王子はただ一人すでに馬上にあった。
あの美しい白馬に黄金の馬具をつけ、自らも同じように光り輝く金銅の鎧に身を包んで、私たちを見下ろしている。冑はかぶっておらず、その代わりに金の冠が頭に嵌められていた。それは立て飾りのない一見すっきりとしたものだったが、指二本分ほどの幅の中に細かい透かし彫りがなされていて、王子のつややかな黒髪によく映えていた。
私は、ただただ身を小さくし、父や叔父たちの後ろで顔を伏せていた。
何故、誰も私に何も言わないのか分からない。
宴の間中も、その後の長い夜も、私はただ一人、館の西外れに隔離された女棟の自室で縮こまって過ごした。王子を拒んだことでどんなお叱りがあるのか――あるいは、王子が寝所に現れるのではないのかと。
だが、結局は何も起こらなかったのだ。
誰もが皆、私のことなど忘れ去ってしまったようだった。
私にはもう、それが良いことなのか悪いことなのか、嬉しいのか悲しいのかさえ分からない。
騒ぎ疲れていた館は、夜が明けて随分立ってからようやく目覚めて、一時ににぎやかになった。私のところに小染がやってきたのは、更にずっと後のことである。
しかしその小染も、ただ私にいつも通りの朝の挨拶を述べ、着替えを手伝ってくれただけだ。彼女に手を引かれてこの庭に出てからも、私に声をかける人はいなかった。
まるで、私という存在がそこにないかのように。
だが、もし何か言われたとしても、何と答えればいいのか。
ただひたすらに――私はうつむいているしか出来なかった。
「万歳!」
「小鷹王子、ご出立!」
どっ、と歓声が上がった。広場に溢れていた兵士たちが一斉に動き出し、列を成して門を出て行く。
「万歳!」
「万歳!」
宴の準備や兵士たちの世話をさせるために一時的に召し出した領民たちが、最後の仕事を全うするため、従兄弟たちの指図で言祝ぎの声を上げる。女たちの振る
「告茱の姫」
不意に、太い男の声で名を呼ばれ、私はびくっとした。
いつの間にか、目の前にあの隻眼の舎人、熊名が立っていた。今日の彼は短甲をつけ、左手に長い矛を携えて武装している。
「姫。王子から、これを」
熊名が右手を差し出した。その大きな手のひらの上に乗っていたのは、確かに昨日王子の指に嵌っていた金の指輪だった。蛇が自分の尾を咥えて輪になっている形。
「すまなかったと言っておいでだ」
私は驚いて、もう門の辺りまで馬を進めている小鷹王子を見た。
王子は私と目が合うと、一瞬、どんな顔をしていいのか分からない、というように唇を歪ませ、それからぷいと横を向いた。
「小鷹――王子――?」
王子が去っていく。
山から吹き下ろす風に、王子の耳連から垂れた長い下げ髪がなびいた。
私はぼんやりとその後ろ姿を見送る。
『おれはお前が気に入った――おれと一緒に首都へ行かぬか』
王子の、自信に満ちた若い声が、また耳元でこだましたような気がした。
私は、蛇の指輪を握りしめた。
二の社への道を、楽しげに下りていた王子。
滝のほとりに座って、じっと水面を見つめていた王子。
私の名を呼んだ声、私の腕を掴んだ指、抱き寄せられた固い胸、息づかい――――
胸が、顔が熱い。頬が焼ける。
息が詰まるような気さえして、私は胸を押さえた。そしてその場にうずくまった。
「まあ、どうなさいましたの姫さま」
誰かが私を揺さぶっている。
「姫さま――――」
何故だろう――閉じたはずのまぶたの裏に、白馬に乗った王子が舎人たちを引きつれ、山をはるかに下っていくのが、くっきりと浮かび上がる。
それはやがて下手の集落から出てきた兵士や賎奴たちの列と合流し、川のようになって山間の道を流れていく。あの「二の社」から溢れた沢が、他の沢と集まって大川となるがごとく。
水の青に染められたあまたの幡を掲げ、陽の光に鎧の止め金をきらめかせ。
ああ――何という美しい若者だろう。
金色の鎧と額の冠が日を受けて光っている。
川の流れを切り裂いて進む鮎のように。
私はそれを空から見下ろしているのだった。
(何故私はこんな幻を見ているのだ)
「姫さましっかり、どうなさったのです?」
気が――気が遠くなる。
視界は突然暗闇に閉ざされた。
途端に耳を打つ、うちよせてくる悲鳴、馬の狂ったようないななき。
ああ――赤い――赤い。
血が。血が流れている。赤い。赤い。
「姫さま、どうなさったのです? 赤いって、何が――?」
「姫さま!」
「誰か、姫さまが! 来椋(こむく)、来椋!」
「姫さま、どうなさったのです! 誰か、誰か姫さまを!」
小染の声が遠い。
ここはどこなのか――――
(山の館の正門の前のはず)
今はいつなのか――――
(初夏のよく晴れた日の朝、小鷹王子の一行を皆で見送っていたはず)
手も、足も動かない。目も見えない。やがて耳も聞こえなくなった。
私は、暗い――真っ暗な淵へ、ゆらゆらと沈んでいった。
2
私は――誰だろう。分からない。
遠くにかすかな光が見える。あそこへ行かなければ。
手を、足を動かそうとする。だが上手く動かない。
腕は――前に向かって伸ばすことが出来ない。
足は――縮こまり、体にぴったりと付いていた。力が入らない。
光が近づいてくる。徐々に大きくなってくる。
闇は揺らめきながら後方へ押し流されていく。遠く、ごうごうと風が鳴っている。
私は、突然光の中へ飛び出した。
私は両腕をとっさに開いた。風が私の腕を――体をふわりと押し上げた。
鳥だ――――
私は鳥になっている。
二本の腕は翼になって、打ち振るたびに風を捕らえ、私を上へ、前へ進ませた。
体の感覚も、足の感覚も、あっという間になくなった。
私は――鳥になって空を飛んでいるのだ。
羽ばたく。羽ばたく。
果てしなく青い空が広がっていた。
見下ろせば、幾重にも重なる山々の緑。その間を縫って流れる糸のような沢。
沢はやがて一つに縒り集まり、次第に豊かな流れとなって、やがて大きな湿地へと注ぎ込む。
山の民の領地の、一番北の端。
幼い頃父に連れられ遊びに来たことがある。その時は秋で――無数の蜻蛉が舞っていた。
今は――夏だ。丈なす草が沼地を覆っている。蛙の声がする。
きらきらと陽光を受ける広い川が、ゆるやかにうねり流れていく。
その湿地を、街道が横切っていく。
我らの祖先が何世代もかけて作った盛り土、丸木を何百とつないで敷き詰めた道。
あれは、かつて私も歩いたことのある道――――
ここを越えればもうすぐに、大王家の直轄領だ。
今、その道をゆっくりと進んでいく、鎧を着た兵士たちの列。
その中ほどにひときわ目立つ、白馬に乗った金の鎧の若者。
笑っている。手綱を引く隻眼の大男に何か言いかけて、楽しそうに笑っている。
回りの騎馬兵も、その声を聞いて微笑みを浮かべている。
草と水の、さわやかな香りに満ちた風が、さわさわと音を立てながら過ぎていく。
知らず知らずに私は、その隊列の上に舞い降りていった。
何という美しさだろう。
切れ長の目、つやつやとした黒髪。明るくよく通る声。
ああ、若者が私に気付いた。見上げて、指差して――何かを言った。
傍らに馬を進めていた兵士が、背中にさしていた弓を取り出し、私に向かって矢を番えた。
私はびっくりして再び高く舞い上がった。若者たちはどっと涌いた。本気で狙ったのではないようだった。
私は、けれども、急に恥ずかしくなって、もう彼のそばに降りていくことが出来なくなった。それに今度こそ打ち落とされるかもしれない。
私は――高く高く飛んだ。
見る見るうちに兵士たちの列は遠ざかり、広い湿地が一目で見渡せるようになった。
と――――
湿地の果てで、何かがきらりと光った。
一つではない。あそこでも、ここでも。
兵士たちの群れが進んでいく街道の先、川下の一帯。少し地が乾き始める辺り。
生い茂る芦やがまの穂の中に、何かが潜んでいる。
きらり、きらり、と草の中に光る、それは――鉄の矛先だった。
私は驚いてそちらへ近づいていった。
何ということだろう。あそこにも、ここにも、一面に。
鎧甲に身を固め、盾と矛や剣で武装した兵士が、身を伏せて息を殺している。
百人――二百人。いや――五百人はいるだろう。
その様子は――到底、彼らを迎えに来たものとは思えなかった。
のんびりと湿原を抜けていく若者と、彼の兵士たちは、まだ何も気付いていない。
いけない、そっちに行ってはいけない!
引き返して! それ以上前に進んではだめ!
私は街道を進む列の上へと舞い戻り、声を限りに叫んだ。
けれども――それは、ぴりぴりと囀る鳥の声にしかならない。
ああ、また彼が私を指差した。笑わないで。ねえ、笑っている場合ではないわ。
引き返して!
この先には危険が待っているの!
今すぐ進むのをやめて! 引き返して!
だが――私のその囀りは、やはり彼にはまるで届かなかったのである。
草むらから武装した兵士たちが飛び出してくる。
不意をつかれた行列は一斉に崩れた。
悲鳴、怒号、混乱。馬のいななき。
無数の矢が飛び交う。
何故なの――どうしてこんなことに!
私はやみくもに草原を飛びまわった。
飛び散る大蛇の鱗のように、あちこちでひらめく剣、戟、盾。
沼地は瞬く間に、血みどろの戦場と化した。
首のない屍が、体中に矢を生やした骸が、まだ生きていても泳ぐことの出来ぬ男が深い沼に足を取られ、あるいは川を流れていく。
悲鳴、雄叫び、絶叫。
私は高く、低く飛びながら、金の鎧を――白馬の若者を探した。
何故なの。もうこの向こうは大王家の領地だわ。
ついさっきまで、あの人は笑っていた。
回りの舎人たちも微笑み、ふざけあっていた。
これは何? このおびただしい数の兵士たちは何者なの?
「何故だ!」
突然、その声が轟いた。私ははっとしてそちらを見た。
ああ――いた。川岸に生い茂る芦の中に、あの人の金の鎧が光っている。
「この兵士たちは何者だ! 何故こんな所に、これほどの兵士が伏せられていたのだ!」
彼は絶叫した。
あの光り輝くような白馬の姿は見えない。彼は徒で芦群を踏み分け、血糊でべったりと染まった剣を振りかざし、返り血と汗と泥にまみれ、襲いかかる兵士を切り伏せている。そのそばでは人々から頭一つも抜きん出た大男が長々とした戟をふりまわしている。
「この向こうは直轄地ではないか! 山の民の裏切りか!」
すでに彼らは明らかに、追われ、狩りたてられる側に回ってしまっていた。もう、彼らの背は川だった。大きく蛇行する流れがえぐった深い淵が、緑色の口を開けていた。
彼の美しい
「王子、我らははめられたのだ!」
隻眼の大男が彼の前に飛び出し、切りかかって来た兵士の首を一息に跳ね上げた。
「これは――俺には分かる、これは山の一族ではない、首都の兵士だ!
「兄上だと!?」
彼の表情が見る見る歪む。
その時だった。
流れ矢か。それとも狙い定めて放ったのか。
彼の肩口を、太い矢が襲った。
「王子――っ!」
隻眼の舎人が、片手で彼を抱きとめる。この時とばかり押し寄せる兵士たち。
隻眼の男は意を決し、主を腕に抱いたまま、右手の戟を握り直した。襲いかかる兵士と縺れ合い、彼らは淵へと落ちていった。
男の腕の中から、若者は空を仰いだ。彼は確かに私を見た。そしてわずかに笑った。
水音が響いた。
3
「小鷹王子――――!!」
声にならない自分の声で、私は目覚めた。
薄暗かった。しばらくぼんやりと天井を見上げていて――私はようやく、そこが山の館の、自分の部屋であることに気付いた。
ゆっくりと頭を巡らせる。私は帳台に寝かされていた。いつの間に着替えさせられたのだろう、夜着の貫頭衣を着ている。
入り口の所で小染が、丁度燈台に火を入れようとしていた。
「小染……」
私が名を呼ぶと、小染はぎょっとしたように振り返った。
「姫さま……私がお分かりになるのですか?」
「何を言っているの……?」
「ひ、姫さま――ようございました!」
小染は私に駆け寄ってきて、掴みかかるようにして私の手を取った。
「ど――どうしたの小染」
「本当にようございました――もしやあのまま正気に戻られないのではと、本当にご心配申し上げたのですよ!」
「一体――何のことなの?」
私は、何を言われているのかまるで分からず、ただ涙をぽろぽろとこぼす小染を見つめることしか出来なかった。
小染はひとしきり泣いた後、自分の袖口で顔を拭い、それからやっと話し始めた。
「それでは姫さまはやはり、何も覚えておられないのですね……」
「覚えていない……って?」
「姫さまは、小鷹王子をお見送りした後、急にお倒れになられたのです」
「それは――覚えているわ」
「皆たいそう驚いて、大慌てでこちらへ姫さまをお運びしたのです。それからずっと眠っておられたのですが、お昼過ぎに急にお目を開けられて――――」
「目を――開けた?」
「ええそうですわ。それがどうでしょう。お目は確かに開いているのに、まるで何も見えておられないようで、お名前をお呼びしても、お体を揺すぶっても、まるきりお返事がなかったのですよ」
「…………」
「その後もずっと、うとうとと微睡んでは急に何か叫びだしたり、立ち上がってどこかへ歩いていこうとしたり、両手を激しく動かしたり――わたくし、姫さまがどうかなさってしまったのだと――――」
「今は――いつなの?」
「もうすぐ明け方ですわ」
小染は本当にほっとしたように、枕元から水差しを取って、湯飲みに注いでくれた。
「私――夢を見ていたの」
小染の差し出した湯飲みを受け取りながら、私は呟いた。
「夢――?」
「ええ――長い不思議な夢。きっとそのせいなのね――――」
よかった。あれは夢。
私の、ただの夢だったのだ。
不吉な夢ではあるが、夢は夢に過ぎない。
私は再び水差しを差し出す小染に湯飲みを向けながら、ようやく少し微笑んだ。
「おかしいの。私は鳥になっていたの」
「まあ、鳥に?」
「そうなの。小さな鳥になって、山の上をどこまでも飛んだわ」
あの風の匂い。青い空。くっきりと思い出せる。
「そうしてね――ほら、ずっと昔、小染も行ったでしょう。北の、大王家の直轄領との間に広がっている、あの沼地まで辿り着いたの。そうしたらね、下を小鷹王子の兵士の列がずっと歩いていて――――」
私は少し目を伏せた。
「不吉な夢だったわ。よくない夢。後でまた一の社に参って捧げ物をしておくわ――あんなことがあるはずがないのにね。小鷹王子が――首都の兵士に待ち伏せされるだなんて」
かちかちかち……と奇妙な音がした。私は音のする方に目をやった。
小染の手にした水差しが小刻みに震えている。
「小染――どうしたの?」
「姫さま、それは――――」
小染は真っ青になっていた。
今度は私が湯飲みを取り落とす番だった。
「どうしたの、小染――?」
「し、失礼いたします」
小染は慌てて身を翻そうとした。しかし私はとっさに彼女の腕を捕らえた。
「ねえ、どうしたの? 何があったの?」
私は問いつめた。小染は困りはてたように視線を彷徨わせ――やがてうつむいて、私の顔を見ないまま言った。
「姫さまの夢は――正夢でございます」
「正夢――――?」
何を言われているのか判らず、私は呆然として小染の横顔を見た。
「小染――教えてちょうだい。何があったの? 小鷹王子に何が――――」
「姫さま――――」
小染は大きく息を吐き、覚悟を決めたように私に向き直った。
「姫さまはお気を失っておられたのでご存じないのですが――小鷹王子がこちらをお発ちになって幾らもせぬうちに、東の街道を回って別の
「別の――?」
「はい――それは『
「雄隼――王子」
聞き覚えのある名だった。父から聞いた中央の事情の中でだろうか。
――いや、そうではない。
そうだ――それはあの夢の中で。
(王子、我らははめられたのだ!)
そう――あの隻眼の舎人、熊名が叫んだあの言葉。
(これは山の一族ではない、中央の兵士だ! 大兄王子の――雄隼王子の兵士たちだ!)
「小鷹王子は、密かに大王への反乱を企てておいでだったのです」
小染は身を震わせた。
「反乱……?」
「『海辺の一族』を後ろ盾に、大兄雄隼王子を亡き者にし、自らが日継王子になろうと計画しておられたそうです。この巡行は、その為の根回しであったとか――それが発覚したので、大王はもはや、王子を首都へは入れないとおっしゃって――――」
「そんな――――」
私は、言葉を失った。
「こちらにも、厳しいご命令がありました。万一逃げ戻ってくる兵士があっても、決して館に入れるなと――――」
あれは夢ではなかった。
あれは――本当の出来事だったのか。
「あれほど神々に愛されておいでだったように見えましたのにねえ……」
小染は深々と嘆息した。
「そのご寵愛に自惚れておしまいになったのかもしれませんねえ――姫さま、どうなさいました?」
私の目から、熱いものがこぼれて、頬を伝っていた。
後から後から――それは溢れて、胸を、掛け物を濡らしていく。
「そんなはず――そんなはずがないわ」
私は顔を覆ってすすり泣いた。
小染がためらいがちに、私の背をさすろうとする。
「違うわ――違うのよ小染――――」
私は言った。
「あの人は――反乱なんか企てていない――――」
涙で声にならない。しゃくり上げ、鼻をすすり――私はそれでも口に出さずにはいられない。
「あの人は、あの人は――――」
『おれは、ただいろいろなところを見たいだけなのだ。雲より高い山々や、外つ国まで続くという海原や――――』
そう言った時の無邪気な顔。
「あの人は――――そんな人じゃない」
「さあ姫さま、もうお休みになって。まだお体の具合も本当ではないのですから――小染も下がって少し眠らせていただきます」
言いながら小染が、そっと私の手に何かを握らせた。
「朝になりましたら何か食べるものをお持ちいたしますので」
ためらうようにそう言い残すと、彼女は出て行ってしまった。
部屋は再び暗がりに戻った。
私は、手を開き、小染に渡されたものを顔に近づけた。
それは――あの指輪だった。
あの時、熊名が私に渡してくれた、あの金の指輪。
その蛇の細工を握りしめ、私は再び泣き伏した。
どのぐらいの間泣いていたのだろうか。
頭が痛かった。
流石に涙も涸れたのか、もう出なくなった。喉がひりひりする。
私は鼻をすすり上げ、腫れ上がっているであろう顔を手の甲で拭った。
それから――握りしめていた手をもう一度開き、指輪を見た。
小鷹王子が、確か、左手の薬指に嵌めていた指輪。
震える手でつまみ、自分の指に嵌めてみる。
私の薬指には大きすぎた。中指にもまだ少し緩いが、親指では入らない。
中指に中指に指輪を嵌め、その左手を右手で包み込む。
「小鷹王子――――」
目を伏せて、重ねた手を額に押し当てた。
「王子――――」
私は、あの人に、命を救われた礼すらまともに言っていない。
まぶたの裏に、あの夢の光景が甦る。
緑色に淀む淵。落ちていく隻眼の舎人と、黄金の鎧を着た若者。
今ごろ二人の骸は、あの川を流れているのだろうか。
他のあまたの兵士たちの屍と一緒になって、赤く染まった川をどこまでも。
「――――」
そう思いながら――私は何故か、奇妙に鼓動が速まっていくのを感じた。
(私が見たのは――二人が川に落ちたところだけだわ)
そうだ――あの時の熊名は、落ちたのではなく、自分から飛び込んだのではなかったか?
「死んだとは――限らないわ」
私は呟いた。そしてその自分の言葉に、何か奇妙な確信を持った。
「そうだわ――死んだとは限らない。どこかに泳ぎ着いて、生きているかもしれない」
そうだ。
私は両手を握りしめた。
じんわりと汗ばんでくる。体が火照ってくる。
(そうだわ――きっとそうに違いない)
私は帳台から降りた。不思議に力がみなぎってくる気がする。
私は一の社で猪に襲われて、今ごろはもう命がないはずだった。
王子がいてくれたから、私は今生きているのだ。
今度は、私が彼の力にならなくては。
きっと神々はそのために、私にあの夢をお授けになったに違いない。
私は、夜着を脱ぎ捨て、壁の棚から正装の絹の衣服を取り出した。薄桃の上衣をつけ、なめし革の沓を履く。髪を整えて紐で一つにきちんと縛る。
(父に――父に会わなければ)
私は唇をかみしめて部屋を出た。
女棟は寝静まって、人の気配もない。回り縁に出ると、東の空はわずかに白み始めている。
階段を下りて、庭を横切り、父がいるはずの正殿へと向かう。
庭には人影がなかったが、正殿の軒下には幾つもの明かりが揺れていた。まだ父たちは話し合いをしているのかもしれない。
正門にも裏門にも、明々と篝火が灯っているのが見える。逃げ帰ってくる兵士が入らぬよう、普段にもまして厳しく見張っていたのだろう。立ち並ぶ倉と、その向こうに見える馬小屋の陰が濃い。
空気は冷たかったが私は全く寒さを感じなかった。
正殿の西の階段に後少し、と言うところで、私は突然、後ろから声をかけられて飛び上がりそうになった。
「……
「……来椋――!」
そこに立っていたのは来椋だった。脚絆をつけ、毛皮の上衣を着て、腰には小刀を差している。どこかの警備に出るか、あるいは帰ってきたところか。
「何してるんだよ、こんなところで」
あくびをかみ殺したような息の後、彼は言った。
「正殿よ。父上に会いに行くの」
「伯父上――
彼は首をかしげた。
「こんな時間にか? やめとけよ」
「父上はどこ? まだ広間で叔父上たちと話をしている?」
私はかまわず尋ねた。
「いや――どうだろう。もう終わったんじゃないかな、今は多分部屋で寝ていると思う」
「そう」
再び正殿へ歩き出そうとする私の前に、彼は慌てたように回り込んでくる。
「だから待てってば。首長は寝てるって言ったじゃないか!
「そんなことはどうでもいいの。今行かなくてはいけないのよ。そこをどいて来椋」
「一体どうしたんだよ告茱姉――何の用があって……」
言いかけて、来椋ははっと息をのんだ。
「……小鷹王子のことか」
「そうよ――私は王子からちゃんと聞いたの。あの人は大王の密命を受けて豪族たちを監視していた訳でもないし、ましてや、反乱の根回しをするために旅をしていた訳でもないわ。あの人はただ、本当に、珍しいものや美しい場所を見たいと思っていただけなのよ」
「そんなこと分かるもんか」
来椋は何故か、怒ったように口答えした。
「そりゃ表向きはそう言うに決まってるじゃないか!」
「お前はあの人と何も話していないでしょう!」
「じゃあ
私は来椋に最後まで言わせなかった。自分でも驚くほど強い反発が一瞬でわき上がり、その頬を平手で撲った。
「告茱姉――――」
来椋は、ぽかんと口を開けて私を見た。まさか私から撲たれるとは思ってもいなかったのだろう。
「私は王子を信じるわ」
「告茱姉――――」
「父上は、私を王子に差し出そうとした」
私は、来椋が父その人であるかのように睨みつけた。
「王子とつながりを持ちたくて、巫女である私を、儀式もせずにその立場から下ろしてまで」
「それは――おれも驚いて、そのう……ひどいと思ったけど、でも、結局何もなかったんだろう?」
来椋は言いにくそうに言う。
「だったら良かったじゃないか――――」
「それなのに、今度は手のひらを返すのね。それとも、誰か王子から直接、反乱の時には手を貸してくれと頼まれたものがいるのかしら」
「それは――――」
「王子に罪なんかないわ。あの人を捕らえるのに手を貸したりしたら、それこそ神々のお怒りにあうわ」
「告茱姉――じゃあ姉はどうしろって言うんだい」
「王子を捜してほしいのよ! 首都の兵士たちに殺されてしまう前に!」
「いや、だって王子はもうとっくに死――――」
「いいえ!」
私は叫ぶように遮った。
「王子はまだ生きているわ! 私を待っているのよ!」
何の証拠もありはしないのに、私は言った。
そう口にした途端に、私の目からは涙が溢れた。
空がさっきよりも明るくなった気がする。小さな星は消えはじめている。
来椋は、今度は泣きそうな顔で私の腕に手をかけようとした。
「告茱姉は……小鷹王子と……何もなかったんだろう……? 皆、今となってはそれでよかったと言っているのに」
来椋の声は震えていた。私は彼の手を振り払った。
「何もなくても何かあっても、そんなことどうだっていい。ただ私は王子を助けたいの。私はあの人を――――」
「……好きになったんだね」
来椋は、ため息をつくように言った。童児のような従弟にそう言われて、私は急に恥ずかしくなった。
「お前には関係ないでしょう。さあどいて」
「そうは行かないよ――――」
来椋はなおも両手を広げて私の前に立ちふさがった。
「もし姉の言ったことが本当だったとしても、おれたちに――首長に何が出来るって言うんだ。おれたちは取るに足りない鄙の民だ。大王に逆らったらどうなると思う? おれたち王族だけじゃない、
私は――言葉を失った。
来椋は正しい。
逆賊の汚名を着せられた豪族とその領民がどうなるかは、語り部たちが伝える昔語りにも明らかだ。
「姉は、この館に火を放たれ、その中でおれたちが焼き殺されるのが見たいのかい。領民たちが腕に焼き印を押されて、首都の市で奴婢として売られていってもいいというのか――姉には首長がただずるいだけに見えるかもしれないが、それが
私は唇をかみしめた。
「さあ――もう戻りなよ」
来椋は困ったように、妙に優しい声で言った。
「姉の気持ちは、きっと王子に――神々にも届くよ。だって姉は巫女姫だもの。おれも首長に、もし王子を見つけても殺さないように、なるべく丁寧に扱って首都までお送りするようにお願いしてみるよ――だから」
来椋は私の肩に手をかけ、正殿に背を向けさせた。
「行こう。女棟まで送ってやるよ――どうせおれ、これから裏門の門番なんだ」
来椋に押しやられるようにして、私はよろよろと歩き出した。
もう――私に出来ることは何もないのだろうか。
このまま――小鷹王子は、父の命を受けた山の男たちか、あるいは首都の兵士たちに捕縛され、首都で裁きを受けて――おそらくは処刑され――――
そして私は何事もなかったかのように、祈りの日々に戻るのだろうか。
それとももう私は巫女の任を解かれ――父が許した一族の誰かが、私の臥所に招かれるのを待たなければならないのかもしれない。
私は――左手を握りしめた。
中指に嵌ったあの指輪。
『美しいではないか――幾重にも重なった山の色合いや、棚田の縞模様』
『何という涼やかな風だろう』
何でもない鄙の景色を美しいと言った人。
水の社の滝壺を目を細めて眺めていた人。
絹の服から匂ったあの香り。腕にきらめいていた幾つもの腕輪。
明るい声。少し意地悪そうな笑い方。
私の手首を掴んだあの指――私を抱きしめた固い胸。
「――もう戻ることなんか出来ない」
私は呟いた。
「え――なんだって?」
来椋が聞き返す。私はそれには答えず――彼を突き飛ばすようにして走り出した。
「告茱姉!」
そうだ、もう戻れない。何も知らなかった――あの人を知らなかった頃へ戻ることなんか出来ない。
私は走った。裳裾をからげて、髪をなびかせて。裏門に向かって一直線に。
だが、後少しというところで、追いかけてきた来椋に腕を掴まれてしまった。
「離して!」
「どこへ行く気なんだ!」
「王子を探しに行くの! 一人で行くのよ! 私にしか出来ない、あの人はきっと私を待っている」
「何を馬鹿なことを!」
来椋は私に怒鳴りつけた。
「姉一人で何が出来るっていうんだ! 首都の兵士も王子を探してうろうろしているかもしれないのに、そんなところに女一人で出て行って、もし見つかったら何をされると思うんだ!」
「離しなさい!」
私は体をひねって暴れた。自分でも思いがけないような力が出て、小柄な来椋はよろけて手を弛めた。私は彼から飛びはなれた。
「どうしても止める気なら、その腰の小刀で私を刺しなさい!」
私は、手負いの獣のように吠えた。自分のものとは思えない低い声がはじけた。
「私の様子がおかしくなったのは皆知っているのでしょう! 気が触れて暴れたので殺したと言えば、誰もお前を責めたりはしないわ!」
「そんなことが出来る訳がないじゃないかっ!」
来椋が叫んだ。その悲壮な響きに、私は一瞬黙りこむ。
睨み合う沈黙が過ぎた。
来椋は、怒っているような、悲しんでいるような、複雑な顔で私をじっと見つめている。
「――本気なのか」
来椋が絞り出すように言った。
「ええ」
私はきっぱりと答える。
「お前の言う通りだわ。父上は首長よ――表だって王子を助けることは出来ない――でも、もし出来るなら来椋、父上に伝えてちょうだい。せめて――山の民に王子を追わせないで。首都の兵士たちが王子を捜すのを止められなくても、王子の従者たちを館に入れることが出来ないとしても、山の民をあまた繰り出して、鹿を狩るように王子に矢を射かけないで、と」
再び沈黙が流れた。
来椋は何度も何か言いかけて口をつぐみ、それからゆっくりとため息を吐いた。
「――分かった」
その声は震えていた。
「おれの言うことなんて聞いてもらえるかどうか分からないけれど……首長には必ずそう伝えるよ」
「あ、ありがとう来椋」
私は思わず彼の痩せた手を握ろうとした。しかし来椋はその手を振り払い、目を合わせようともせずに、口の中でぼそぼそと続けた。
「それに、そのままで行っても仕方がないだろ。麻呂女に乗っていけよ」
「え――――?」
私は耳を疑って聞き返した。彼は目を逸らしたまま、あごで門の方を示した。
薄明の空に浮かび上がる、門のそばの見張り台の上に人影がない。
「おれがあんまり遅いもんだから、先の見張り番はもう寝に行ったんだろう。みんな疲れているんだ、宴の後すぐにこの騒ぎで、男衆の殆どがろくに眠っていないからな――だから」
来椋は早口で、吐き出すように言った。
「今なら裏門を抜け出せる。麻呂女に乗っていくんだ――誰かに姉のことを聞かれたら、気が触れて、高笑いしながら山へ入っていったと言ってやるよ!」