夢こそ真実《まこと》 ――月の面

文字数 10,780文字



 長かった夜が明けた。
 一夜のうちに「小鷹王子謀反」の報は首都を駆けめぐり、王宮は勿論、西の市辺りも騒然としていたという。
 父王はかねてからの病で伏せっており、今日も正殿に姿を見せていない。
 広間で、夜明けとともに詰めかけてきた豪族たちを仕切るのは、俺と当麻の役目だった。
「いったいまことなのか、小鷹王子が謀反などと」
 信じられぬ、と呟いたのは、「湖の一族」の首長だった。当麻が、ぬう、と首を伸ばして聞き返す。
「何を仰せになりますかな。こちらは確かな証拠を握っておるのですぞ」
「その証拠とは何です、大臣」
 当麻は胸をはった。
「海辺の一族の内部から、密かに知らせるものがありましてな」
「海辺の民から――――」
「それではやはり、大后さまが」
 十余人の首長たちは互いに顔を見合わせ、ざわざわと私語を始める。
 母后の小鷹への肩入れは、確かに目に余るほどだった。実際に、小鷹を次の大王に、と言い出したことも一度や二度ではない。首長たちは皆それを知っている。
「だが近頃、小鷹王子自身は、そういった母后のご自分への期待や干渉を、むしろ疎んじておられたようにお見受けしたが」
「そうだ、表向きは母后に礼を尽くしておられたが、少しずつ距離を置こうとされていたように思える――――」
 そう。彼らの言う通りだった。
 小鷹は、ともすれば自分を担ぎだそうとする母方の豪族とのつきあいを、少しずつ薄めようとしていた。
 母はどうしても、小鷹に海辺の民から后を取ろうとしていたが、それを拒んだのは小鷹の方だったと聞く。
「王子には、今のご自分のお立場で満足されているとばかり」
「おおよ、ついぞ政にもご興味のない様子であられたが――――」
 信じられぬ、何かの間違いでは、と(おみ)たちは口々に言う。
「海辺の方では、先頃首長が身罷って、後を継いだ嫡男とその弟との間で何やら揉めているとの話だが、この話もその辺りの血の熱い若者が先走っただけのことで、王子は何も知らなかったのではないのか」
 そうだ、そうだ、と幾人かが頷いた。
 そう――それは真実だ。
 臣らよ、お前たちは正しい。
 全ては当麻の仕組んだこと。
 海辺の館に間諜を送り込み、新しく首長となった異母兄(まませ)とそりの合わぬ弟を言葉巧みにそそのかした。小鷹王子が反乱を望んでいると言って。
 当の小鷹は――何も知らないのだ。
 だが。
 俺は、手にした玉杖で、床を、どん、と突いた。臣たちが静まりかえる。
「確かに――傍目には、小鷹は末王子であることを喜び、受け入れているように見えていた。だが、考えてもみるがいい。あれだけの才に恵まれ、人に愛された男が、王座を夢に見ないということがあると思うのか」
 はっ、と、幾人かが息を呑んだ。
「臣らならどうだ。もしも自分が、大王と大后の間に男児として生まれ、やまとで一、二を争う大豪族を後ろ盾に持ち、あの美貌と剣や弓の腕を備えて、忠実な召人をあまた使っているとしたら。なぜ自分は、日継王子になれぬのだろうと考えないと思うのか」
 しん、と、広間が静まりかえる。
 皆、口ひげを噛み、あごに手を当て、視線を宙に向けている。
 そうだ。そうだろう。男なら誰でもそう思うはずだ。
 それが男というものだ。
「確かに――わたくしも、小鷹王子は無欲すぎると思ったことがございました」
 呟いたのは、「北の一族」の首長だった。俺は重々しく頷いてみせる。
「それが――無欲に見せていただけだ、とは思わぬのか」
「それは――――」
「まさか、そんな、しかし確かに――――」
 再び臣たちはざわめいた。だが、見交わされる視線には、確かに納得の色が見えている。
「それでは、王子は我々をずっと謀っておられたのか」
「あの屈託のないご様子は、皆作り事だったのか」
「この日のためにずっと、海辺の民と――?」
 あり得ない、とは誰も言わなかった。
 あり得るかも知れぬ、と、皆思っていたのだ。
 どうだ小鷹、と、俺は胸の内に呟く。
 誰もが皆、お前の謀反を待っていたのだ。
 お前が俺を切り伏せて、大王となる日を待っていた。
 神代の戦乱は遙か昔に終わりを告げた。我こそはと思い上がった荒くれ者の豪族どもが天津神の元に膝を屈してから、時は過ぎた。
 だが――男たちの中には、嵐と混乱を望む血が今も流れている。
 お前は、起たねばならぬ。
 それが、お前に科せられた運命というものなのだ。
 俺は、心の底に渦巻く奇妙な傷みを押し殺し、再び玉杖を床に打ち付けた。そして、もっとも重々しく響くように低い声で命じた。
「すでに小鷹の王子宮は我の兵士たちによって押さえた。臣らは各の召人たちに内通者がおらぬかをよくよく調べよ。市や街道に人を放ち、小鷹が捕らえられるまでの間、民らの動きや流言を封じるのだ」
 臣たちの頭が、稲穂のようにいっせいに垂れた。

 さあ、小鷹。
 来るがいい。俺を殺しに。
 きらめく金の鎧に身を包み、白馬に乗った同母弟が、浅黒い肌の海辺の民をあまた従えて、西からの街道を攻め上ってくる様が目に見えるようだ。
 美しい。なんという美しい光景だろう。
 そして俺は――それと戦うのだ。
 俺が――俺だけが、唯一の日継王子だと言うことを、天下万民に知らしめるために。
 小鷹が欲しくてたまらぬものを持っているのはこの俺だと、人々に認めさせるために。
 支度は調った。
 俺は目を伏せ――再びここに至るまでの道を思い返していた。


 
 俺が初めてあの夢を――小鷹に殺される夢を見てから一年あまりの間は平穏だった。
 俺は父の助言通り、弟たちと競うことをやめた。勝たなければと思うこともなくなった。
 今まで以上に政務に精を出し、勉学にも取り組んだ。
 夜は五人の后の部屋を順に訪れ、愛してもいない女たちに優しく接し、抱いた。
 それまでずっと、義務のように感じていた諸々のこと、出来れば避けたいと思っていた様々に、今は耐えられると思えた。
 疲れて眠った夜には必ずあの夢を見た。
 夢は、日を追って生々しくなっていった。
 暗がりの中、獣のようにきらめく瞳。佩刀の柄、高らかに床板を踏む足音。足結の鈴。腕に、足首に巻かれた宝珠のこすれあう音。
『妬ましい――あなたが妬ましい』
 夢の中の小鷹は、呪詛の言葉を炎のように吐きながら、ある時は俺に馬乗りになって首を絞め、ある時は佩刀を抜いて胸を貫いた。
『なぜ俺が末王子なのだ――いいや、古来、弟が相続した例など枚挙にいとまがない。我らが父王もそうではないか』
 小鷹の傍らには、常にあの隻眼の舎人がいた。彼の左目は、あの日俺が斬りつけたそのままに血が滴っていた。
『いつか必ず、おれはあなたを殺す』
 小鷹は唇を歪めて笑った。
 その顔の美しさに、俺はいつも恍惚となった。
(憎め――俺を憎むのだ小鷹)
 貫かれながら、縊られながら、俺は哄笑した。
(俺が日継王子だ。俺だけが唯一の存在なのだ――――)

 だが――その日々は長くは続かなかった。
 そう、あれは――昨年の春のことである。

 その日、俺は十人余りの舎人を連れ、首都の南東で進められている河川工事を視察に行った。
 父が即位した直後から三十年近くも続いている大工事が、もう後数ヶ月で終わろうとしているのだ。
 南の山麓から流れ出し、網の目のように枝分かれしているその川を大きな二本の流れにまとめ、その間を広大な耕地に変えるのである。
 すでに、西を巡って本流となる水路は完成していた。東から大きく迂回するもう一方が、もうその目前まで迫っている。
 俺は、その工事現場が一望できる高台に簡単な天幕を張り、工事の責任者たちからの説明を受けていた。
 掘り進められた水路にはまだ水が満たされておらず、掘り返された赤い土と積み上げられた土嚢が真新しい。土手の上には補強のために植え込まれた松の幼木が、まだ頼りなげな枝を風にそよがせている。
 水路の最先端部分では、今この間もあまたの男たちによって工事が進められていた。春はまだ浅く、吹きすぎていく風はともすれば冷たかったが、男たちは皆上半身は裸で、汗にまみれながら土を掘り、天秤棒や台車でそれを運んでいる。
「今年は冬の天候(そら)が荒れ気味でしたので」
 この工事を長きにわたって統括している、「山辺の一族」の若長がうやうやしく跪き、絹の絵図面を俺に捧げた。彼の後ろには現場の責任者たちが数人並んでいる。
「思うように作業が進みませず、予定よりやや遅れております――農繁期に入る前に何とか掘り通すだけでも終えてしまいたいのですが」
「田植えまでの完成は無理か」
 俺は言った。若長は、ちらりと後ろの男たちと視線を交わし、それから応えた。
「掘り抜くだけでしたらなんとか――しかし仕上げをして水を通すとなりますと――――」
「それでは意味がない」
 俺はやや強く言った。
「なんとしても完成させるのだ――――」
 言いかけた俺の視界の端に、気になるものが入った。
「――――?」
 土手に人だかりが出来ている。
 さっきまでは、裸の工夫たちが、あたかも蟻の行列のごとく整然と土を運んでいた。だが今はその列が乱れ、十数人の男たちが一カ所に固まっていた。それどころか、今もその人数は増えていきつつある。
「おい、あれはどうしたのだ――何があったのか」
 俺は椅子から立ち上がった。山辺の若長も、他の男たちもいっせいに立ってそちらを見た。
 工夫たちは、何かを中心にたむろしている。
 中心にいるのは――白い衣の若い男だ。
 白い衣。
 こんな工事現場に、白い衣?
「あっ――――」
 俺の舎人の一人で、目のいい男が叫んだ。
「向こうに、真っ白な馬がつながれているのが見えます。その傍らに数人の男――水色の幡が見えました、あれは――――」
 言わなくても分かる。
 それは、小鷹の馬と、その舎人たちだ。
 あの白い衣の男は――小鷹か。
「あいつは何をしているのだ!」
 俺は思わず怒鳴っていた。回りの従者や若長たちが驚いて硬直し、ものを取り落としたり姿勢を正すのを見て、やっと我に返る。
 わざとらしく咳払いし、俺は言った。
「いや――俺も驚いたのでな。あれは俺の同母弟、末王子小鷹ではないかと」
「は、左様でございましょう」
 若長は、特に驚いた風もなく答えた。その当たり前の様子にまた苛立ちの芽が頭をもたげる。
「なんだ――その言いぶりは。まるで珍しくもないようだな」
「は、はい」
 若長は頷き、後ろの男たちを見やった。設計士の一人が頷き、俺にではなく若長に応える形で口を開いた。日継王子への直答は許されていないのだ。
「小鷹さまは月に一度はお顔をお見せになります。工夫たちとはもうすっかり顔見知りで――」
 何と言うことか。
 俺は――また無性に腹が立ってきた。
 その怒りが、いったい何なのか、とっさには分からない。
 顔色を変えた俺を扱いかねて、舎人たちも若長も逡巡している。
 何が気に触ったのか、何を言われるのか、何を言えばいいのかと、互いに目を見交わし、俺の次の言葉を推し量っている。
 そして俺自身も、同じように戸惑っている。
 俺は、何に対して怒っているのだ。
 何が気にくわないのだ。
 冷静になれ、と誰かが耳のそばで囁く。
 そうだ。ここは怒りを見せるところではない。
 しっかりしろ――お前は日継王子だ。
 後いくらもなく、あの黄金の玉座に座る身だ。
 癇癪持ちと実の母に罵られた、十年前の過ちを繰り返してはならぬ。
「そうか――どうやら同母弟は、多忙な俺に代わり、普段から視察をしていてくれたと見える」
 俺は、かろうじて息を整え、若長に命じた。
「小鷹とは、もう長い間話もしていない。ここで出会ったのは何かの縁でもあろう。ここへ来るように言ってくれ」
「は――――」
 若長は一礼し、俺の舎人と共に駆け去っていった。

 ほどなくして、小鷹は、数人の舎人と共に俺の天幕にやってきた。勿論熊名も一緒である。小鷹の傍らに、大きな影のように寄り添っている。
「久しぶりだな、小鷹」
 俺の言葉に、小鷹は慇懃に礼をした。
「お元気そうでなによりです」
 だが、彼のその態度には、どこか不満が見え隠れしていた。
 それは、楽しい遊びを中断させられた童児の不満だった。
「お前は、あんなところで何をしていたのだ」
 俺は尋ねた。
「工事を見ていました」
 小鷹は答えた。
「お前に視察の任が与えられたと聞いたことはないが」
「別に――誰かに命ぜられてきている訳ではありません。ただ、おれが見たいから見ているのです」
「見て、どうするのだ」
 俺は苛々として畳みかける。
「見るにしてもあれほど近くで見なくてもよかろう。あれでは工夫たちの気が散る。工夫頭もやりにくいであろう」
「それは――そうかもしれませんが」
 小鷹はむっとしたように反論した。
「近くで見なければ分からないこともあります。石積みを崩れないようにする工夫や、現場で歌われている歌」
「だから――それが何の役に立つのかと聞いているのだ」
「役に?」
 小鷹は失笑した。
「役になど立ちませぬ。ただおれは知りたいし、見たいだけだ」
「意味が分からぬな」
 俺は大げさに顔を歪めてみせた。
 小鷹の言うことは、いつもひどく突拍子もないことばかりだ。
 俺には、本当に理解が出来ない。
 石積みを崩れないようにする工夫など、大王の王子が知って何の得がある。
 そんなものは、設計技師や現場の工夫たちが知っていればいいことではないか。
「俺たちの役目は、そんなことではないだろう――お前はもっと、全体のことを考える習慣をつけた方がよい」
「そうでしょうか」
 小鷹は再び憮然として言った。
「役に立たぬことは、してはならないのですか?」
 全く意味が分からぬ。
 ただ確実に言えることは、こうして現場に気安く現れ、工夫たちに声をかけたりする王子を、人々は愛するだろうということだ。 
 それが目的だというならば――それは俺にも理解できる。
 小鷹は目を細めて、天幕から眼下に広がる工事現場を見わたしていた。
「それでは兄上、ご視察の邪魔になってはいけませんので、この辺で失礼いたします」
 小鷹はそう言って、礼をした。
 ああ――そうだ。
 思い返せば、この時、俺は小鷹を黙って帰すべきだったのだ。
 だが、俺は彼を引き留めてしまった。
「そう焦らずともよいであろう」
 焦っていたのは俺の方だ。
 俺は次第に苛々し始めていた。
維主鹿(いすか)が生まれた時の祝いでも、お前とは殆ど話すことも出来なかったのだし」
 維主鹿とは、つい先日生まれたばかりの俺の嫡男の名前だった。一の后である雉鹿(きじか)が生んだ第一王子(いちのみこ)である。
「その節は失礼いたしました」
「皆嘆いておったぞ。小鷹王子はあまりにあっさりとお帰りになった、と」
 俺は意地悪く言った。
「さすがにお前でも、気を悪くしているのだろうかとな」
「何故におれが、気を悪くせねばならぬのです」
 小鷹は怪訝そうに聞き返した。
「あの日は、あまたの御使者で兄上の宮殿はごった返していた。同母弟だからと長居をしてはご迷惑になると思っただけです」
「俺の即位の時には、もっとゆっくりと祝ってくれるのだろうな」
 俺はさらに言った。
 やめておけば良かったのだ。小鷹の見開いた切れ長の瞳に、一点の曇りもないのを感じていながら。
「勿論です――なぜそのようなことを」
 なぜ。
 なぜかと、小鷹は問うた。
 まるで意味の分からぬというような顔をして。
 それは、全く本心からの言葉だとしか思えなかった。
 俺は――狼狽し始めていた。
「父王は――近頃伏せりがちになっておいでだ」
「はい。昨日もお見舞いに上がりましたが――気弱になっておいでのようでした」
「父王に万一のことがあったら――俺が大王だ」
 小鷹は俺が何を言おうとしているのか計りかねるという顔で、ただじっと俺を見つめていた。
 その邪気のない顔。
 それは、俺の夜毎の夢に現れる小鷹と、あまりにも違っていた。
「俺が大王になったら、雉鹿が大后に立つ。そして、維主鹿が日継王子になるだろう」
 俺の言葉がこれほど空しく響くのはなぜだ。
「あのような、まだ首も据わらぬ赤子が日継王子になるのだ――悔しかろう、小鷹」
 言わなければ良かった。
 そんなことを尋ねなければ良かったのだ。
 小鷹は――ますます目を見開き、呆れたように笑った。
「なぜおれが悔しがると――維主鹿王子は兄上の御嫡男。雉鹿后は野守の当麻の一の姫だ。全てが当然で、あり得べき形ではありませぬか」
 なぜだ。
 なぜお前は、顔色一つ変えずにそんなことを言う。
 なぜ内心の悔しさを押し隠すそぶりの一つも見せぬのだ。
 俺は、震える声をこらえて同母弟に尋ねた。問うべきではない問いを。
「小鷹。お前は、あの黄金の玉座を夢見たことはないのか」
 小鷹は虚を突かれたような顔になり、やがてさも可笑しそうに笑った。
「玉座はあなたのものでしょう兄上。おれはあのようなものはいらない。欲しいとも思ったことはない」
 欲しいとも思ったことはない――――?
 俺は、後ろ頭を岩で殴りつけられたような衝撃を受けた。
 俺の狼狽にまるで気付かぬように、小鷹はその場で大きくのびをして、遠くを見るような顔になった。
「俺は、大王になんてなりたくない。頼まれてもごめんです。そんなことより、おれはやりたいことがあるのです」
 眼下にはあまたの工夫たちが土を運ぶ列が延々と続いている。掘り下げられた大溝、積み上げられた土嚢。その向こうでは、運び出した土を湿地に入れて均す作業が続いている。すでに完成した西の本流が水をたたえている。雲が切れて光が差し、その水面にはね返っている。
「おれは――首都を出て、この秋津島をくまなく歩いてみたい。色鮮やかな魚が泳ぐという南の海や、身の丈の何倍も雪が積もるという北国の冬、火を噴く山や、氷の洞窟をこの目で見てみたい」
 小鷹は俺を振り返った。
「この国を端から端まで歩くことが出来たなら、次は異国へも行ってみたい。半島や大陸の外つ国へ。今は母上が何かとうるさいのでなかなかそうも参りませぬが、もし兄上がご即位になりましたら、どうかおれに、そんな任務をお与えください」
「そんな――任務を?」
 俺は痴呆のように繰り返した。小鷹はにっこりと笑った。
「半島の国々からは、まれに彼の国の王子や豪族の子弟が文書や物を携えてやってくることもあるではありませんか。兄上が異国に重要な文書をお送りになる時、この小鷹が使者としてたちましょう。大王の同母弟として、必ずやお役目を果たしてごらんにいれますよ」
 小鷹は傍らに立つ熊名を振り仰いだ。
「この熊名も、共に行くと言ってくれています」
 熊名は無言で頷いた。
 何を言っているのだ。
 この男は何を言っている?
 俺にはまるで分からない。
『おれはあのようなものはいらない。欲しいとも思ったことはない』
 あのようなもの、とはなんだ。
『俺は、大王になんてなりたくない。頼まれてもごめんです』
 俺のたった一つの誇り。
 お前が持ち得ず、俺だけが持っていたたった一つの。
『あのようなものはいらない』
 俺は――目の前が真っ暗になった。
 気が付くと、すでに小鷹はいなかった。
 黙りこんでしまった俺に静かに礼をして、舎人たちを連れて去っていったと、後に聞いた。
 俺は、天幕の椅子に力なく座り、ただじっと――足下を見つめていた。



 けれども――――
 それからも、俺は夢を見続けたのだ。
 小鷹が俺を殺しに来る夢を。
 夢の中の小鷹は、ますます美しく、そして饒舌だった。
 いかに自分が、俺を妬んでいるか、大王の座を――日継王子の尊称を欲しているかを飽くことなく語った。
『今日こそ必ずあなたを殺して、その座を奪い取る』
 小鷹は毎夜そう宣言し、俺の臥所を血に染めた。
 けれども――それは夢に過ぎなかったのだ。
 汗みずくになって目覚め、俺は自分がたった一人であることに気付くのだ。

 春ももう終わろうとしていた、ある夜のことだった。
 風もなく、月もなく、薄い雲が空を覆い、湿った土の匂いが庭から俺の寝室にも染み入ってきていた。
「恐れながら、日継王子さま」
 采女(うねめ)の一人が、おどおどと俺に告げた。
「大臣当麻さまがお見えになっておられます。内々のお話があるとか――――」
「当麻が?」
 大臣は、供も連れずに一人でやってきた。そして、案内の采女や、戸口の見張りをしている舎人を、呼ぶまで来るなと言って遠ざけた。
 黒紫の衣に、手燭を持ったその姿は、悪い夢に出てくる黄泉の神のようにも見えた。
「このような時間に、お寝間まで参りまして申し訳ございませぬ」
「用件は何だ」
 俺は苛々と言った。こんな時間に、こんな場所でしか話せぬ話をしようとして来たに違いないのに、今さら何を言っているのだろう。
「まずはこちらを――よいものでございます」
 大臣は、左手に提げていた小さな須恵器の壺を差し出した。そして、俺の帳台の傍らに置かれた黒檀の卓に歩み寄り、その上に伏せられていた玻璃の杯に、壺の中身を注いだ。
「それは――――」
 俺はぎょっとして、その杯を凝視した。血だ。真っ赤な血。
 しかし当麻は、ほほほ、と女のように笑った。
「これは血ではございませぬ。遠い西の国の酒でございます」
「酒だと……?」
 俺はその杯を手に取り、匂いを嗅いだ。確かに血とは全く違う、少し酸いような甘いような香りがする。
「西の国で取れます果物を醸して造る酒なのだそうです。その果物が赤いので、この酒もこのように赤いのだとか――大変に美味でございますので、どうぞお召し上がりください」
 俺は杯に口を付けた。確かに酒だった。熱く薫り高い液が喉を滑り降りる。えもいわれぬ芳香が鼻と口に残った。
 大臣はそれを見届けてから、ぬっと首を突き出しておもむろに言った。
「雉鹿から相談を受けましたのですが――王子、近頃何やら悩んでおられるとか」
「……何を、いきなり」
 俺は動揺した。しかし当麻は気にせず話し続ける。
「毎晩ひどくうなされておられるとお聞きしました。いやいや、閨でのことを父に漏らすはしたない女と思わないでやっていただきたい。あれはあれで思いあまって相談してきたのでございます」
 俺は、何も言えずに黙っていた。
 血の気が引いてくる。
 当麻は、再び杯に赤い酒を注いだ。そして奥まった小さな目を見開き、俺に顔を近づける。
「どうかこの当麻めをご信頼になって、隠さずおうちあけください。その夢とは――どんな夢なのでございますか」
 俺は答えなかった。杯を手にとって、飲み干した。
 よい香りなのに、なかなかに強い酒だ。
 当麻はまた酒を注ぐ。
「雉鹿は申しておりました――王子は、いつも、同母弟のお名前を呼んでおられる、と」
 それも――聞かれていたのか。
 この男は何を言おうとしているのだ。雉鹿は何をどこまで喋ったのだ。
 赤い酒をあおる。
「小鷹王子は、夢の中で――何をなさるのです」
 当麻の目が闇の中でぎらりと光った。
「夢だ、当麻」
 俺は吐きすてるように言い、顔を背けた。当麻は俺が手にしている杯にまた酒を注いだ。
「夢は――時折真実を映し出しますぞ」
 当麻は言った。
「真実を――――?」
「左様でございます。卜師も巫女も、夢にて真実を言い当てることがありまする。人の魂は夜になると天駆けり、昼の世で出来ぬことを果たそうとするとも――――」
「昼の世で出来ぬことを――――」
「ささ、どうぞもっとお飲みください。この酒は封を切りますと日持ちがいたしませぬ。お残しになると、明日にはもう酸いばかりで香りがなくなってしまいます」
 当麻は俺の手に手を添えて、杯を口に運ばせる。
「夢の中の小鷹王子は――昼の王子と様子が違うのでございましょう?」
 当麻は囁いた。俺は――頷いた。
 赤い。酒が赤い。玻璃の杯の中で、血のように赤い。
「夢の中の小鷹は――月の神のように美しい」
 俺は呟く。
「そして恐ろしい」
「小鷹王子は――雄隼さまを殺そうとなさるのですか」
「そうだ」
 視界の隅が暗さを増していく。ほのかに揺れる灯明が当麻の黒紫の輪郭だけを浮かび上がらせる。
「小鷹は――自分こそが大王にふさわしいと――――」
「それは――もしかしたら、小鷹王子の本心なのではありませぬか」
 当麻は言った。俺はうつろな目で大臣を見返す。
「本心?」
「そうです。小鷹王子の魂が夜毎にこの部屋に舞い降りているのではありませぬか?」
 ああ――もし本当にそうであれば、どんなにいいだろうか。
 赤い酒が揺れている。
 血のように赤い酒。
 小鷹に掻ききられた俺の喉から溢れた血。
「そうなのだろうか」
 俺はうつむいて、目を閉じる。もう座っていることも難しい。
「そうかもしれぬ」
 そうだと――俺も思いたかった。
 そうであるべきだと、俺は思っていた。
『おれはあのようなものはいらない。欲しいとも思ったことはない』
 あんな言葉は、小鷹の口から洩れるべきではない。
 あの美しい、才溢れる同母弟。
 人々にも神々にも愛されている末王子。
『この国を端から端まで歩くことが出来たなら、次は異国へも行ってみたい。半島や大陸の外つ国へ』
 その口から紡がれるのは、そんな童児のような夢であってはならぬ。
 小鷹。お前は、お前を愛する人々がお前に託した望みのことを考えたことがあるのか。
 お前に許される夢はたった一つだ。
 それは、反乱の夢だ。
「雄隼さま――早速に、卜師と巫女どもに占わせましょう。日継王子の夢は重要です。それは神々のご意志を映す鏡でもありますれば」
 当麻はそう囁いた。
 赤い酒が、灯明に光って揺れていた。
 夢の中の、小鷹の瞳のように。

 気が付くと――当麻の姿はもうなかった。
 俺は酒の酔いに誘われて眠り――翌朝遅く目覚めた。
 その時には、もう全てが動き出していたのだ。
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登場人物紹介

小鷹王子(おだかのみこ)

やまとの大王の末王子。17歳(数え年)。美貌で素直な性格で、誰からも愛されるが、政治には興味がなく、自分の気の向くままに暮らしている。

告茱姫(つぐみのひめ)

首都の南に小さな領地を持つ豪族の娘。17歳(数え年)。幼いころから巫女として育てられたので、世の中のことをなにもしらない。

雄隼王子(おばやのみこ)

大王の長子。小鷹とは同母兄弟。25歳(数え年)。誰からも尊重される立派な日継王子(皇太子)だったが、なぜか小鷹に異様な嫉妬心を燃やす。

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