日はまた昇る
文字数 5,433文字
1
「告茱! 帰ったよ!」
来椋の声が坂の下から聞こえた。私は塩漬けの壺をかき回す手を止めて顔を上げる。
家に続く細い坂を、麻呂女に乗った来椋が登ってくるところだ。鞍の後ろに雉が二羽、足同士を結び振り分けて吊り下げられている。
体つきはほっそりとしているが、すっかり背は伸びて私より高くなった来椋が、馬の上から手を振った。私にではなく、私が背に負っている赤子にだ。
入り口近くで馬を下りた来椋は、雉を担ぐのももどかしく、出迎えに出た私に駆け寄ってきて、背中の赤子をのぞきこむ。
「あー、あー」
生まれてもうすぐ半年になる娘は、近頃しきりに声を出すようになった。来椋は自分にそっくりなこの娘にすっかり夢中で、家にいる時は片時もそばから離さない。襁褓を替えたり湯を使わせたり、王族の男がするはずのない赤子の世話を喜々としてこなしている。
「おうおう、いい子にしていたか、うん?」
「来椋、そんな汚れた手で触らないで。早く洗ってきてちょうだい」
私が笑いながら言うと来椋はおどけた様子で頭を掻いた。
「はいはい、分かってるよ告茱姉」
「もう……いやね、そんな昔の呼び方を」
玄関脇の水瓶の方へと歩いていく来椋の後ろ姿を、私は微笑みながら見る。背中の娘を揺すり上げ、それから大きく息を吸って庭の生け垣の向こうを眺めた。
初夏の長い日がもうすぐ終わろうとしている。陽は西の山の端に落ちかかり、吹き下ろす風が涼しい。
この家は、狭い盆地のはずれにある高台にあった。庭先に立てばゆるやかに広がる田畑が見渡せる。田植えも終わり、夏に収穫する青菜もすっかりと生えそろって、緑や青の小さな布を幾つもつぎはぎにしたような盆地。あちこちに散らばる人々の家から、夕餉の支度の煙が細くたちのぼっていた。
その美しい光景に、私はまた、かすかに胸の奥が痛むのを感じる。
(そうだわ――あれは丁度今ごろだった。こんな穏やかな初夏の日の夕暮れだったわ)
私は目を細め、その緑の盆地からゆっくりと、左手にそびえる小高い山に視線を転じた。
あの山の上に「一の社」がある。
私があの人と初めて出会ったあの場所が。
今はもう、次の巫女が守る、一族の祈りの場所。
(もう――あれから三年が経つんだわ)
たった数日で私の運命を変えた、あの嵐のような出来事。
まるで夢のような――だがけして夢ではない、あの記憶。
2
あの時――小鷹王子と「二の社」で別れてから自分がどうしたのか、私ははっきりと思い出すことが出来ない。
気が付くと、私は、馬の背に乗せられて、山道を揺られていた。
私を抱きかかえて馬を操っていたのは来椋だった。
「来椋――?」
私は朦朧とした頭で従弟の名を呼んだ。小柄な来椋は私の体を支えかね、厳しい顔をして手綱をくりながら私を睨んでいた。
「来椋――絵図面はここよ……」
私は彼に笑いかけたと思う。
「小鷹王子が返してくれたわ……あなたをとても誉めていた……これは一族の宝だって……大切にしなさいって……」
「もういいから。喋るなよ」
怒ったような声を覚えている。
そのまま私はまた気を失ったのだろう。次に目覚めたのは、どこかの建物の中だった。
山の館の自室ではなく、それは掘っ立て柱の平屋だった、むき出しの地面の上に木で組まれた簡素な寝台に私は寝かされていた。
後で分かったのだが、それは山の館の一番はずれにある、召人の女たちが寝起きしている建物だったのだ。
私は高熱を発し、それから十日近くの間、ただそこで夢と現を行き来していた。
私の世話をしてくれたのは、その建物に暮らす召人の娘たちだった。
父は、勝手に館を飛び出していった私に激怒し、探す必要などないと言ったらしい。
「でも来椋さまが、こっそり一人でお館を抜けだして探しに行かれたのですよ」
彼女たちはそう言った。
私は「二の社」から少し離れた山中で、ぼんやりと座り込んでいたという。
裂けた衣服をまとい、意識も定かでないまま館に連れもどされた私を見て、父は首都の兵士たちに嬲られ汚されたのだと思い込んでますます怒り狂い、もうけして私を王族の姫として扱わぬようにと命じたのだった。
「お気の毒に、姫さま」
娘たちは交代で私の世話をし、自分たちの食べ物を削って私に与えてくれた。私が懐深く秘めていた王子の勾玉をも、父たち王族の目からひたすらに隠してくれた。
私は今も、彼女たちへの深い感謝の気持ちを持ち続けている。彼女らは後に、私のこの上ない友人となった。
やがて私がなんとか起きあがれるようになった頃――小鷹王子の死の報せがもたらされた。
私にそれを伝えたのは、父の目を盗みこっそりとしのんできた小染だった。
「王子さまは、やはり絞首刑に処されたそうでございます――」
その時は、ただそれを聞いただけで私は泣き崩れ、小染もすぐに去ってしまったのだが、やがて彼の凄惨な死の有様は、不吉を運ぶ黒い風のように、人から人へと伝えられ、ずっと後になって私の耳にも届いた。
小鷹王子は丘の上に吊された後、その首は切られて宮殿の門に晒され、胴は川に沈められたそうだ。それらの全てに大兄雄隼王子が自ら立ち会われたという。それほどに日継王子の、同母弟に対する憎しみは深かったのだろうか。
小鷹王子の宮は火をかけられ、熊名をはじめとする彼の舎人や仕えていた女たちも、皆むごい殺され方をしたとのことだった。
王子の処刑の衝撃で、大后さまはお気が触れてしまわれた。そして海辺の民は小鷹王子に荷担しようとしていた罪に問われ、領地の半分を召し上げられた。そう、彼らが誇った大きな港すらも。
王子が旅して歩いた先の豪族たちも皆、王子の反乱に荷担するつもりだったのではないかとの嫌疑をかけられ、やはり領地を召し上げられたり、多くの貢ぎ物を差し出して赦しを請うたりしたらしい。幸いにして我らが山の民にはあまりに矮小であった故か、何の咎めもなかったのだと言うが。
「身の潔白を晴らすため、首長自らが首都に上り、宮門に晒された小鷹王子の首に唾をはきかけたり、石を投げたりした者もいるとのことですわ。なんというむごいお話でしょう――――」
首都では、小鷹王子の名は強い禁忌だと言われながら、噂は噂を呼んで人々の涙を誘った。
父は、私の体が回復したと聞くやいなや、二つの罰のうちいずれかを選ぶようにと命じてきた。私が小鷹王子にあまりに惹かれているのを疎ましく思ったのだろう。
一つは、毒杯による自死。
今一つは、館からの追放であった。
王族の娘として誇りを持ったまま死ぬか、ただの女として領民の男の妻となるか、いずれかを選べと。
私の胸の内に、ほんの一瞬だけ、死ねば黄泉の国で王子に会えるかもしれぬという考えが閃いた。だが――それをかき消したのもまた王子の言葉だった。
小鷹王子は私に言った――ただ一人の自分の女として、この山で生きろと。
自分のためだけに生きられず、愛も死も自ら選ぶことが出来ないのが王族だというならば、小鷹王子を追って何もかも捨てようとした私は、もうとうに王族ではなくなっていたのだ。
だから――王族の姫と呼ばれなくなっても、巫女でなくなっても、私は生きていこう。
どんなになっても生きていくことだけが、今の私に出来るただ一つのことなのだから。
やがて、父に命じられたその日がやってきた。
その朝、私は麻の簡素な衣服を着、沓もはかず、友なる娘たちが隠しておいてくれた王子の勾玉だけを懐に納めて、寝起きしていた小屋を出た。
館は静まりかえって、見送る者の一人もいない。父に強く止められているのだろう、小染も姿を見せなかった。どこかに閉じこめられているのかもしれない。
私は、門番の男たちが無言で開けた門をくぐった。
夏を告げる蝉が、やかましく鳴き始めていた。
私は、振り返ることもなくただ一人、遥か山裾に広がる領民の集落を目指して歩き出そうとした。集落の入り口には、あらかじめ父から報せを受けた一人の男が――私の夫となる男が待っているはずだった。
だが――私は気付いた。
その道の先に、馬を引いた男が一人立っていることに。
集落からの迎えかと思ったが、それなら馬など連れているはずがない。
「――あ……あなたは!」
「告茱姉、一緒に行こう」
そう言って微笑んだ、それは他ならぬ来椋だった。
3
「告茱。腹が減ったよ、飯にしてくれないか」
馬を小屋につないで戻ってきた来椋が言った。私は追憶から我に返る。
その時、玄関の扉を押しあけて、小さな影が庭に転がり出てきた。
「おお鷹生 、起きたのかい」
私より先に、来椋が駆け寄って抱き上げたのは、生まれて二年になる男の子だ。
「ちち、おかえり」
鷹生はにっこりと笑い、まばらな髭の生えた来椋の顔をその小さな手で触った。
私が負ぶっている娘が来椋に瓜二つなのに比べ、この息子は来椋にはまるで似ていない。
そう――鷹生は、来椋の子ではないのだ。
私は目を細め、鷹生を見つめる。
ああ――よく似てきた。
あの人に。
私の思いを感じたのかどうか、来椋の方が私を振り返って笑った。
「鷹生は日に日にあの方に似てくるなあ」
「――ええ」
私も笑い返す。
ゆっくりと日は黄味を強め、東の空は薄紫に変わろうとしている。
最初はぎこちなく始まった私と来椋の暮らしは、今はゆるぎない日常になった。
私とともに王族を捨てると言った来椋は、館の男衆たちに激しく嗤われたが、さほど引き留められることもなく許されたという。いや、許されたというより、勝手にしろと見捨てられたのだろう。それほどに彼の、一族での存在は軽かった。
『それでも、麻呂女を連れて行くと言ったら、流石に叱られたけれどもね』
来椋は後にそう言って笑った。馬はこの山では貴重なのだ。それでも彼はしつこく粘り、ついにあの絵図面と引き替えにして麻呂女を手に入れたのだった。
私と来椋はいったん盆地の集落の農夫頭の家に身を寄せ、そこで新しい生活を始めることになった。
王族の娘として生まれた時からかしずかれ、巫女として人と隔てられて育ち、自分のことすら何一つ出来ない私と、痩せて小さく力もない来椋を、集落の民たちは気の毒がりこそすれ誰も疎んじることなく、高台の良い場所に家を建てるのを手伝い、土の耕し方を教えてくれた。
その恩に報いるために、私たちは今、領民と王族の間に立って、両方の言い分をきちんと相手に伝えられるように働いている。
今――私はとても幸せだ。
「はは、おなかすいた」
鷹生が言う。
「そうね、ごはんね」
私は優しく笑いかける。来椋が鷹生の背を軽く叩きながら家の中へと消えた。
私もその後を追おうとしながら、ふと振り返り、もう一度庭先からの景色を見渡した。
小鷹王子。
今あなたはどこにいるのですか?
昨年、あなたの父王と母后は、相次いで身罷りました。
大兄雄隼王子は、父王の都を廃し、その南の平原に新たな首都を築いて、そこで即位なさいました。今は雄隼大王と呼ばれておいでです。
その即位の式は荘厳で立派だったけれど、どこかもの寂しく感じられたと聞きました。
王子。口さがない人々は噂をしています。
大王は、夜な夜な死霊に苦しめられていると。
それは、小鷹王子、罪なくして死んでいったあなたの死霊だと。
けれど私は知っています。
王子、あなたは死霊になって兄上のそばに留まったりはしていない。
あなたの魂はきっと、天駆けて大八州を越え、今は遠い異国を旅しているのでしょう。
あの美しい白馬に乗って、隻眼の舎人を従えて。
小鷹王子。そこはどんなところですか?
一年中が真夏のままの緑濃く深い森に、極彩色の鳥が飛び交っていますか?
石で出来た大きな都に、金色の髪と碧玉の瞳をした人々が暮らしていますか?
あなたが見たいと言っていた、火を噴く山や、海の中に生える宝の木はありましたか?
小鷹王子。
鷹生は――やはりあなたのような人になるのでしょうか。
少しわがままで自惚れが強く、けれど素直で優しかったあなた。
人の見ない夢を見ていたあなた。
王子。私はこれからも、ここで生きていきます。
私を愛してくれる人たちと一緒に。あなたの愛した美しい景色の中で。
ずっと忘れません。
あなたのこと。あなたが教えてくれたこと。
私の髪を風が撫でていく。
背中の娘が少し愚図り始めた。
「よしよし、お前もお腹が減ってきたのね」
私は娘を揺すり上げる。家の中から、来椋と鷹生がふざけあう笑い声が聞こえてくる。
それを聞くと、私の胸は温かくなり、知らず知らず笑みがこぼれるのだった。
「ねえ、ごはんまだ?」
鷹生の澄んだ声が聞こえた。
「今行きますよ」
私は大きく返事をし、それからゆっくりと家に向かって歩き出した。
(了)
「告茱! 帰ったよ!」
来椋の声が坂の下から聞こえた。私は塩漬けの壺をかき回す手を止めて顔を上げる。
家に続く細い坂を、麻呂女に乗った来椋が登ってくるところだ。鞍の後ろに雉が二羽、足同士を結び振り分けて吊り下げられている。
体つきはほっそりとしているが、すっかり背は伸びて私より高くなった来椋が、馬の上から手を振った。私にではなく、私が背に負っている赤子にだ。
入り口近くで馬を下りた来椋は、雉を担ぐのももどかしく、出迎えに出た私に駆け寄ってきて、背中の赤子をのぞきこむ。
「あー、あー」
生まれてもうすぐ半年になる娘は、近頃しきりに声を出すようになった。来椋は自分にそっくりなこの娘にすっかり夢中で、家にいる時は片時もそばから離さない。襁褓を替えたり湯を使わせたり、王族の男がするはずのない赤子の世話を喜々としてこなしている。
「おうおう、いい子にしていたか、うん?」
「来椋、そんな汚れた手で触らないで。早く洗ってきてちょうだい」
私が笑いながら言うと来椋はおどけた様子で頭を掻いた。
「はいはい、分かってるよ告茱姉」
「もう……いやね、そんな昔の呼び方を」
玄関脇の水瓶の方へと歩いていく来椋の後ろ姿を、私は微笑みながら見る。背中の娘を揺すり上げ、それから大きく息を吸って庭の生け垣の向こうを眺めた。
初夏の長い日がもうすぐ終わろうとしている。陽は西の山の端に落ちかかり、吹き下ろす風が涼しい。
この家は、狭い盆地のはずれにある高台にあった。庭先に立てばゆるやかに広がる田畑が見渡せる。田植えも終わり、夏に収穫する青菜もすっかりと生えそろって、緑や青の小さな布を幾つもつぎはぎにしたような盆地。あちこちに散らばる人々の家から、夕餉の支度の煙が細くたちのぼっていた。
その美しい光景に、私はまた、かすかに胸の奥が痛むのを感じる。
(そうだわ――あれは丁度今ごろだった。こんな穏やかな初夏の日の夕暮れだったわ)
私は目を細め、その緑の盆地からゆっくりと、左手にそびえる小高い山に視線を転じた。
あの山の上に「一の社」がある。
私があの人と初めて出会ったあの場所が。
今はもう、次の巫女が守る、一族の祈りの場所。
(もう――あれから三年が経つんだわ)
たった数日で私の運命を変えた、あの嵐のような出来事。
まるで夢のような――だがけして夢ではない、あの記憶。
2
あの時――小鷹王子と「二の社」で別れてから自分がどうしたのか、私ははっきりと思い出すことが出来ない。
気が付くと、私は、馬の背に乗せられて、山道を揺られていた。
私を抱きかかえて馬を操っていたのは来椋だった。
「来椋――?」
私は朦朧とした頭で従弟の名を呼んだ。小柄な来椋は私の体を支えかね、厳しい顔をして手綱をくりながら私を睨んでいた。
「来椋――絵図面はここよ……」
私は彼に笑いかけたと思う。
「小鷹王子が返してくれたわ……あなたをとても誉めていた……これは一族の宝だって……大切にしなさいって……」
「もういいから。喋るなよ」
怒ったような声を覚えている。
そのまま私はまた気を失ったのだろう。次に目覚めたのは、どこかの建物の中だった。
山の館の自室ではなく、それは掘っ立て柱の平屋だった、むき出しの地面の上に木で組まれた簡素な寝台に私は寝かされていた。
後で分かったのだが、それは山の館の一番はずれにある、召人の女たちが寝起きしている建物だったのだ。
私は高熱を発し、それから十日近くの間、ただそこで夢と現を行き来していた。
私の世話をしてくれたのは、その建物に暮らす召人の娘たちだった。
父は、勝手に館を飛び出していった私に激怒し、探す必要などないと言ったらしい。
「でも来椋さまが、こっそり一人でお館を抜けだして探しに行かれたのですよ」
彼女たちはそう言った。
私は「二の社」から少し離れた山中で、ぼんやりと座り込んでいたという。
裂けた衣服をまとい、意識も定かでないまま館に連れもどされた私を見て、父は首都の兵士たちに嬲られ汚されたのだと思い込んでますます怒り狂い、もうけして私を王族の姫として扱わぬようにと命じたのだった。
「お気の毒に、姫さま」
娘たちは交代で私の世話をし、自分たちの食べ物を削って私に与えてくれた。私が懐深く秘めていた王子の勾玉をも、父たち王族の目からひたすらに隠してくれた。
私は今も、彼女たちへの深い感謝の気持ちを持ち続けている。彼女らは後に、私のこの上ない友人となった。
やがて私がなんとか起きあがれるようになった頃――小鷹王子の死の報せがもたらされた。
私にそれを伝えたのは、父の目を盗みこっそりとしのんできた小染だった。
「王子さまは、やはり絞首刑に処されたそうでございます――」
その時は、ただそれを聞いただけで私は泣き崩れ、小染もすぐに去ってしまったのだが、やがて彼の凄惨な死の有様は、不吉を運ぶ黒い風のように、人から人へと伝えられ、ずっと後になって私の耳にも届いた。
小鷹王子は丘の上に吊された後、その首は切られて宮殿の門に晒され、胴は川に沈められたそうだ。それらの全てに大兄雄隼王子が自ら立ち会われたという。それほどに日継王子の、同母弟に対する憎しみは深かったのだろうか。
小鷹王子の宮は火をかけられ、熊名をはじめとする彼の舎人や仕えていた女たちも、皆むごい殺され方をしたとのことだった。
王子の処刑の衝撃で、大后さまはお気が触れてしまわれた。そして海辺の民は小鷹王子に荷担しようとしていた罪に問われ、領地の半分を召し上げられた。そう、彼らが誇った大きな港すらも。
王子が旅して歩いた先の豪族たちも皆、王子の反乱に荷担するつもりだったのではないかとの嫌疑をかけられ、やはり領地を召し上げられたり、多くの貢ぎ物を差し出して赦しを請うたりしたらしい。幸いにして我らが山の民にはあまりに矮小であった故か、何の咎めもなかったのだと言うが。
「身の潔白を晴らすため、首長自らが首都に上り、宮門に晒された小鷹王子の首に唾をはきかけたり、石を投げたりした者もいるとのことですわ。なんというむごいお話でしょう――――」
首都では、小鷹王子の名は強い禁忌だと言われながら、噂は噂を呼んで人々の涙を誘った。
父は、私の体が回復したと聞くやいなや、二つの罰のうちいずれかを選ぶようにと命じてきた。私が小鷹王子にあまりに惹かれているのを疎ましく思ったのだろう。
一つは、毒杯による自死。
今一つは、館からの追放であった。
王族の娘として誇りを持ったまま死ぬか、ただの女として領民の男の妻となるか、いずれかを選べと。
私の胸の内に、ほんの一瞬だけ、死ねば黄泉の国で王子に会えるかもしれぬという考えが閃いた。だが――それをかき消したのもまた王子の言葉だった。
小鷹王子は私に言った――ただ一人の自分の女として、この山で生きろと。
自分のためだけに生きられず、愛も死も自ら選ぶことが出来ないのが王族だというならば、小鷹王子を追って何もかも捨てようとした私は、もうとうに王族ではなくなっていたのだ。
だから――王族の姫と呼ばれなくなっても、巫女でなくなっても、私は生きていこう。
どんなになっても生きていくことだけが、今の私に出来るただ一つのことなのだから。
やがて、父に命じられたその日がやってきた。
その朝、私は麻の簡素な衣服を着、沓もはかず、友なる娘たちが隠しておいてくれた王子の勾玉だけを懐に納めて、寝起きしていた小屋を出た。
館は静まりかえって、見送る者の一人もいない。父に強く止められているのだろう、小染も姿を見せなかった。どこかに閉じこめられているのかもしれない。
私は、門番の男たちが無言で開けた門をくぐった。
夏を告げる蝉が、やかましく鳴き始めていた。
私は、振り返ることもなくただ一人、遥か山裾に広がる領民の集落を目指して歩き出そうとした。集落の入り口には、あらかじめ父から報せを受けた一人の男が――私の夫となる男が待っているはずだった。
だが――私は気付いた。
その道の先に、馬を引いた男が一人立っていることに。
集落からの迎えかと思ったが、それなら馬など連れているはずがない。
「――あ……あなたは!」
「告茱姉、一緒に行こう」
そう言って微笑んだ、それは他ならぬ来椋だった。
3
「告茱。腹が減ったよ、飯にしてくれないか」
馬を小屋につないで戻ってきた来椋が言った。私は追憶から我に返る。
その時、玄関の扉を押しあけて、小さな影が庭に転がり出てきた。
「おお
私より先に、来椋が駆け寄って抱き上げたのは、生まれて二年になる男の子だ。
「ちち、おかえり」
鷹生はにっこりと笑い、まばらな髭の生えた来椋の顔をその小さな手で触った。
私が負ぶっている娘が来椋に瓜二つなのに比べ、この息子は来椋にはまるで似ていない。
そう――鷹生は、来椋の子ではないのだ。
私は目を細め、鷹生を見つめる。
ああ――よく似てきた。
あの人に。
私の思いを感じたのかどうか、来椋の方が私を振り返って笑った。
「鷹生は日に日にあの方に似てくるなあ」
「――ええ」
私も笑い返す。
ゆっくりと日は黄味を強め、東の空は薄紫に変わろうとしている。
最初はぎこちなく始まった私と来椋の暮らしは、今はゆるぎない日常になった。
私とともに王族を捨てると言った来椋は、館の男衆たちに激しく嗤われたが、さほど引き留められることもなく許されたという。いや、許されたというより、勝手にしろと見捨てられたのだろう。それほどに彼の、一族での存在は軽かった。
『それでも、麻呂女を連れて行くと言ったら、流石に叱られたけれどもね』
来椋は後にそう言って笑った。馬はこの山では貴重なのだ。それでも彼はしつこく粘り、ついにあの絵図面と引き替えにして麻呂女を手に入れたのだった。
私と来椋はいったん盆地の集落の農夫頭の家に身を寄せ、そこで新しい生活を始めることになった。
王族の娘として生まれた時からかしずかれ、巫女として人と隔てられて育ち、自分のことすら何一つ出来ない私と、痩せて小さく力もない来椋を、集落の民たちは気の毒がりこそすれ誰も疎んじることなく、高台の良い場所に家を建てるのを手伝い、土の耕し方を教えてくれた。
その恩に報いるために、私たちは今、領民と王族の間に立って、両方の言い分をきちんと相手に伝えられるように働いている。
今――私はとても幸せだ。
「はは、おなかすいた」
鷹生が言う。
「そうね、ごはんね」
私は優しく笑いかける。来椋が鷹生の背を軽く叩きながら家の中へと消えた。
私もその後を追おうとしながら、ふと振り返り、もう一度庭先からの景色を見渡した。
小鷹王子。
今あなたはどこにいるのですか?
昨年、あなたの父王と母后は、相次いで身罷りました。
大兄雄隼王子は、父王の都を廃し、その南の平原に新たな首都を築いて、そこで即位なさいました。今は雄隼大王と呼ばれておいでです。
その即位の式は荘厳で立派だったけれど、どこかもの寂しく感じられたと聞きました。
王子。口さがない人々は噂をしています。
大王は、夜な夜な死霊に苦しめられていると。
それは、小鷹王子、罪なくして死んでいったあなたの死霊だと。
けれど私は知っています。
王子、あなたは死霊になって兄上のそばに留まったりはしていない。
あなたの魂はきっと、天駆けて大八州を越え、今は遠い異国を旅しているのでしょう。
あの美しい白馬に乗って、隻眼の舎人を従えて。
小鷹王子。そこはどんなところですか?
一年中が真夏のままの緑濃く深い森に、極彩色の鳥が飛び交っていますか?
石で出来た大きな都に、金色の髪と碧玉の瞳をした人々が暮らしていますか?
あなたが見たいと言っていた、火を噴く山や、海の中に生える宝の木はありましたか?
小鷹王子。
鷹生は――やはりあなたのような人になるのでしょうか。
少しわがままで自惚れが強く、けれど素直で優しかったあなた。
人の見ない夢を見ていたあなた。
王子。私はこれからも、ここで生きていきます。
私を愛してくれる人たちと一緒に。あなたの愛した美しい景色の中で。
ずっと忘れません。
あなたのこと。あなたが教えてくれたこと。
私の髪を風が撫でていく。
背中の娘が少し愚図り始めた。
「よしよし、お前もお腹が減ってきたのね」
私は娘を揺すり上げる。家の中から、来椋と鷹生がふざけあう笑い声が聞こえてくる。
それを聞くと、私の胸は温かくなり、知らず知らず笑みがこぼれるのだった。
「ねえ、ごはんまだ?」
鷹生の澄んだ声が聞こえた。
「今行きますよ」
私は大きく返事をし、それからゆっくりと家に向かって歩き出した。
(了)