第5話

文字数 2,110文字

 父はこの町を出て行った後、今の奥さんと知り合った。そして母と離婚した。そのことはこの前年、母の名字が旧姓に変わったとき聞いていた。でも、僕と妹の姓はそのままだった。
 そのとき母は、「お父さんとお母さんは他人になったけれど、お母さんとの親子の関係は変わらないよ。生活も今までどおりだから心配しないで」と言っていた。
 実際、何も変わらないので気にしていなかった。
 だが、父とも親子であるということだったのだ。――戸籍の上でも。
 母は続ける。
 父は、近畿地方の、戦前は大きな商家だった家の三男として生まれた。だが終戦後、家は衰退した。名古屋の紡績会社に就職をして、近郊に住んでいた母と知り合った。そして結婚した。結婚後、友達に誘われて母とともに四国に来て、台所用品の販売の仕事を始めた。それが上手くいったのは一年くらいだけだった。その後は勤め先を得て仕事をしていたが、長続きしなかった。幾つか仕事を変えた。とうとう、ここには自分に向いている仕事はない、と言って町を出た。母は言わなかったが、お酒を飲んで迷惑をかけていたのはこの頃だったのだろう。母には身寄りがなかった。両親は亡くなり、一人だけの兄も数年前に病死して、実家には兄嫁しかいなかった。この地で生きていくほか、すべがなかった。
「お父さんは新しい奥さんと知り合ってよかったんだよ」
 ここで母は、ほーっと息をついだ。
 父は奥さんと知り合って、資金を援助してもらい事業を始めた。それは成功し、お金持ちになった。
「だけどね、新しい奥さんは、体が弱い人で子供を生めないの」
 ああ痩せていたな、と思ったが黙って聞いていた。
 それで……お父さんは、と少し間を置いた。
 僕か妹のどちらかを引き取って育てたいと、言ってきたのだ。
 僕は、昨日の夜の父と奥さんの会話を思い出した。奥さんが、女の子の方がいい、と言ったことだ。
 母はここまで話すと、僕と妹を見た。そして、妹に「お父さんの所へ行きたいか?」と訊いた。無邪気な妹は「うん」と答えた。母は悲しそうな顔で「おまえはどう?」と僕に訊いてきた。僕は答えることが出来なかった。あさはかにも、行ってもいいかな、と考えたのだが母が悲しむと思った。
 だが、母は僕のほうを薦めた。上の学校に進学させるのは男である僕の方が良いと考えたのだ。
「お母さんはおまえを高校や大学へ進学させてやれない。お父さんの所へ行きなさい。そしていっぱい勉強して立派な大人になりなさい」
 母は、一言ずつ区切って言った。咽の奥からしぼりだすような、詰まった声だった。

 八月から僕は父のもとで暮らすことになった。
 出発の前の日、母はアルバムから自分の写真を一枚はがして僕にくれた。四、五年前の写真だろうか、髪はパーマでまとめられ、白いブラウスと長いスカートに身を包み、微笑んでいる姿は映画のポスターのようだった。とても奇麗だと思った。それと翌日着ていく新しいシャツとズボン、靴も出してくれた。この日のために買ってくれたものだ。それまで僕は、A市へ行くのを楽しみにしていたところもあった。だが、無言で仕度をしている母の姿を見たら、しぼむようにそれが失せていった。母と別離(わか)れる――。この時、実感となって湧いてきた。
 当日、駅にはかなり早く着いた。汽車の時間まで一時間以上ある。駅前の食堂で早い昼ご飯を食べた。静かな食事だった。僕は、何か言わなければいけないと思ったが言葉が出てこなかった。ようやく、妹が「お兄ちゃん、お手紙ちょうだいね」と言った。
 僕は助かった。
「うん、書くよ。おまえも書いてな」
 自然に妹から母へ視線を移した。
 母は僕に言った。
「お父さんと向こうのお母さんの言うことを聞きなさいね」
 母の言葉に、胸が裂けるような気持ちになった。向こうのお母さんって? もう僕はお母さんの子供ではないの?
 お母さん、僕行くのを止める。ここへ残ると、言い出しそうになった。
 それを留めさせたのは妹だった。
「お兄ちゃん、お父さんの奥さんを、お母さんって呼ぶの? ダメよ。お母さんと間違うから。別に呼んで」
「そうだよな。お母さんとは呼ばないよ。僕のお母さんは、お母さんだけもの」僕は応えた。
 母の目は潤んでいた。僕は涙をこらえた。
 僕は一人でA市まで行く。降りる駅は終点なので間違うことはない。駅のホームでは母が中になり三人手をつないで汽車を待った。五月の時のようにわくわくはしなかった。
 煙をはき出しながら黒い機関車がホームへ滑り込んできた。僕は乗降口前でためらっていたが、母に背中を押されて乗り込んだ。車内に入ってホーム側の席を見つけた。座ると同時に列車はゆっくり動き出す。僕は窓を開けようとしたが、出来なかった。列車の動きとともに、母と妹も一緒に歩き出した。母は何かを言っているが聞き取れない。僕は窓のガラスに顔を押し付けて母の口元を見た。列車の速度とともに二人の足も速くなる。が、ついてこれるはずもなく、やがて母と妹は離れていった。
 小さくなっていく妹が「お兄ちゃーーん、さよなら―」と叫ぶ様子が見えた。
 二人の姿が見えなくなると僕は流れる涙を拭いもせず、しゃくりあげていた。
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