第1話

文字数 2,460文字

[ プロローグ ] 平成三年

 その日、何件かの顧客へ製品の説明に廻った。僕の勤める会社、LA金属は新技術を開発した。僕は技術部の課長だが、専門的な説明をしてほしいと依頼され、営業部員と一緒に廻ったのだ。予定より早く終わった。午後四時前だったが会社へ戻ってもすぐ終業時刻になってしまう。急ぐ仕事もなかったので、そのまま家へ送ってもらった。
 家へ着いて着替えていたら、玄関から息子の声が聞こえた。学校から帰ってきたらしい。台所へ向かう足音がした。すぐ居間に来るだろう、と少し待ったが来ない。また何かつまみ食いでもしているのだろうか、台所を覗くと妻と何か話している。僕を見て、妻は息子との会話を中断して、息子がメガネを落としたらしいと言った。
 息子は小学四年生だ。困ったことに早くも近視になりこの春からメガネをかけている。
「落としたって? 壊したのか」
「いえ、失くしたらしいの」
 妻もまだ、きちんと話を聞いていないらしい。
 僕は息子から話を聞いた。
 息子は、学校の自然観察の授業で植物園に行った。そこには散策路も整備されていて、池なども巡ることが出来る。息子は、池の飛び石を歩いている途中でメガネを外した時、誤って池の中に落としてしまったのだ。狭い飛び石の上なので、立ち止まっているわけにもいかず次の石へと進んだ。
 その後も、皆と一緒の行動なので、そのまま帰って来てしまったのだ。
 僕は訊いた。
「何故、捜そうとしなかったのだ」
「皆から遅れるのがいけないと思ったの」
「先生からでも植物園の人に話してもらえばよかったじゃないか」
「でも、池の水も濁っていて見えなかったし」
「新しいメガネを買ってあげましょう」
 妻が横から口を出した。
「ちょっと待ってくれ。無条件になんでも買ってあげるのはいいことではないんだよ」
 僕は妻に言った。
 給料のやりくりについては、僕はあまり口を出さないが、子供たちに簡単に物を買え与えることには、以前からひとこと言いたいと思っていた。先日も中学一年の上の娘のキャンプで使用するシェラーフを買った。学校からは、毛布かシェラーフを用意してください、と通知がきていた。おそらくこのキャンプでしか使用することがない物だ。一度しか使わない物に数万円も使った。「毛布でよかったじゃないか」と言ったが、「他の子が、皆シェラーフを持ってきたら可哀そうでしょう」と言う。皆がシェラーフを持ってくるとは考えられなかった。公立の中学校なので余裕のない家庭もあるだろう。買ってしまったのものは仕方ないと、その時はあと何も言わなかった。
 子供たちに不自由でない生活をさせるのはいいとして、そのために親は苦労して働いていることも知ってもらわなければならない。
「簡単にお金を得ているのではないことも知らしめようよ。きみの家計のやりくりも簡単ではないだろう」と、声を落として言った。
 妻は意外とあっさり頷いた。
 僕は昨年のことも思い出していた。
 欲しがっていたラジコンカーを誕生日にプレゼントした。十日後それを友達のラジコンカーと競争させて遊んでいたのだが、その友達が誤って息子のラジコンカーを壊してしまったのだ。友達の親は謝りに来た。妻は「子供のことですからいいんです。また遊んでください」と、弁償を断った。息子は惜しんだが、自分が壊したのでないので、平気な顔をしていた。息子をも妻をも責められないが、僕は何か腑に落ちない気持ちだった。息子が平気な顔をしていたからだろう。
「その池は深いのか?」僕は息子に訊いた。
「わからない。でも見つからないでしょう」
「見つからないでしょう、だ?」
「メガネが無ければ困るだろう。捜そうと思わなかったのか」
「池の中だよ」
 息子の、他人事(ひとごと)のような言葉に、ふつふつと怒りがわいてきた。だが、ここは怒りを抑えしっかり教え込もうとも思った。
「誰に買ってもらったものだと思っているのだ」
 僕は息子の頬をぶった。「このためにどれほど働くか解っているのか!」大きな声で怒鳴りつけた。
 息子は少しの時間驚きの表情を見せた。そして、泣き出した。ぶたれたことが衝撃だったのだろう。強くはぶっていなかった。
 僕は子供をぶったのは初めてだった。
 手が痛かった。僕はその手を、そっと自分の頬に持っていった。
 ――こんな感じだったのだろうか。

 一つの考えが浮かんだ。
 泣いている息子に「今からメガネを捜しに行くぞ。もう泣くな」と言って、車の鍵を持った。
 メガネは見つからなくてもよいと考えていた。息子に、親から買ってもらったものを大切にする気持ちを持ってもらいたかった。池とはいっても、子供たちに飛び石の上を散策させるくらいだから、深くはないだろう。もし、深かったら持っていった玉網(たもあみ)で掬うだけでもよい。
 植物園に着いて事情を話すと、池の底はコンクリートで深さも三十センチほどなので、捜してみてくださいとのことだった。息子に裸足になって池に入るよう言った。息子の膝くらいまでの深さだった。半ズボンに半袖シャツの息子は手で池の底をあさっていった。閉園間際のこの時間、もう他の入園客はほとんどいなかった。今は七月、午後五時はまだ日も高く暑かった。しばらくすると息子の「あ、あった!」と声が聞こえた。振り向いた顔は汗と泥水で汚れていた。息子は笑っていた。僕はタオルを差し出して、池から上がる息子を迎えた。
 車に戻ってから息子に言った。
「何でもすぐ買えるわけでないんだよ。このメガネを買うとすると、おまえの食事の半月分にはなるだろうよ。見つからないと大変だったんだから」
 息子はシートベルトを締めながら聞いている。
「お母さんも、助かった、と言うぞ」
「お父さん、ありがとう」助手席の息子は僕を見上げて言った。
「さっきは、ぶってごめんな」
 ぶったときの痛みがよみがえってきた。そして、甘酸っぱい感傷がこみあげてきた。
 僕は子供の頃のことを思い出す。
 郷愁……。いい響きだ。
 古い記憶のアルバムを紐解く……。時は遡る。
 昭和のあの時。四国のあの地。
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