第3話

文字数 1,491文字

 数ヵ月後のある日、僕は学校から帰るとすぐ、友達の家へ出かけた。その友達の家の自転車に乗るのだ。大人用なので、サドルに座ると、友達も僕もまだペダルに足が届かなかったが、フレームに片足を入れてこぐ、三角乗りはできるようになっていた。それはあまり速度を出せない。その日は河原へ行った。土手の下の、原っぱが比較的平らな場所を探し、土手の上へ登る。自転車を支えてもらいサドルに跨り、急な坂を一気に降下する。スリルがあって楽しかった。時間を忘れ、夕暮れまで遊んだ。帰り道、土手端の所々にコスモスが群生していた。それらは夕日に映えてとても綺麗だった。僕は二、三本 手折(たお)った。
 家に着くと、母と妹は僕を待ちかねていた。妹の誕生日だったのだ。その日が食堂の仕事が休みとは知らなかった。僕も妹も、それまで誕生会をしてもらったことはなかったので、誕生日を気にしていなかった。母は食堂で覚えたカツカレーを作って待っていた。小さなケーキとジュースも買っていた。持って帰ったコスモスを見て母は、ちょうど良かった、と言ってサイダーの空瓶に活けた。それを卓袱台に飾ると、「あぁ綺麗ね、ありがとう」と僕に笑顔をみせた。何の気なしに持って帰ったコスモスだが、それが役に立ったことが嬉しかった。電球の明かりの下で、コスモスは輝いていた。三人でカツカレーとケーキを食べ終えると、母は妹にプレゼントを渡した。それはビニール製のズック靴入れだった。それまで妹は――僕もだが――ズック靴を手縫いの布袋に入れて学校へ通っていた。妹ははにかみながら受け取った。母は優しく笑っている。僕は妹がプレゼントを貰うことは羨ましかったが、楽しさのほうが大きかった。
 ――裸電球、卓袱台のコスモス、ふんわりと喜んでいる妹と母。
 あの日の情景を思い出すと、穏やかな気持ちになる。
 
 僕と妹は、一日十円の小遣いを貰っていた。駄菓子やビー玉などを買ったりして使っていた。妹の誕生日の次の日、僕は妹に、小遣いは半分しか使わないようしよう、と提案をした。次の月には母の誕生日が来るからだった。二人で貯金をすることにした。
 誕生日の日、妹を連れて母へのプレゼントを買いに行った。母は本が好きなので本屋に入った。単行本は何を選べばよいかわからず、またほとんどが二人の小遣いでは足りないものばかりだ。いろいろ迷ったあげく、婦人月刊誌にした。店の人は、本を買うのにあれこれ相談している僕たちを不思議に思ったのだろう、何に使うの? と訊いてきた。母への誕生日プレゼントだ、と答えたら奇麗な包装紙で包んでくれた。
 残ったお金で少しのお菓子を買い、晩ご飯を食べないで母を待った。
 母が帰ってきた。母は、僕たちがご飯を食べていないのでいぶかしがった。僕と妹は、お誕生日おめでとう、と言って母の前へ進んだ。そして僕は「二人で、お小遣いをためて買ったプレゼントだよ」と、本を渡した。母は驚いた表情をみせてから笑顔で受け取った。畳に座って丁寧に包装紙をはがした。僕たちも座って母の手元を見つめる。母は静かに包装紙をはがしていたが、うつむいたまま顔を上げなくなった。肩が小刻みに上下している。そして解いた本を畳の上に置くと、両手でそれぞれ僕と妹を引き寄せた。僕と妹は強く抱きしめられた。母は泣いていた。初めは胸で泣いていたが、喉から声を出して泣き始めた。妹も泣き出した。僕も泣いた。三人で抱き合ったまま泣いた。
 その夜は母を真ん中にして三人一緒に寝た。
 愛しさをともなう哀しさは、むしろ温かさを増幅させる。この、胸を締めつけるような、『切ない幸福感』。その後、経験していない。
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