第6話

文字数 1,775文字

 A市での生活は思い出せることが多くない。印象に残ることが少ないのは、それは、おそらく、母と妹が居なかったからだ。
 父の奥さんは丁寧に扱ってくれたと思う。学校で必要なものは全て揃えてくれた。着る服もみすぼらしいものはなかった。持ってきた服は着せたがらなかった。粗末なものが多かったからだ。それらはいつの間にか無くなっていた。
 学校では、転校生ということで先生も学級のみんなもよい環境を作ってくれた。特に隣の席になった女の子は親切だった。言葉も皆と違う。その女の子も、春に転校してきたのだそうだ。兵庫の人で父親の転勤でこちらへ来たのだ。女の子は成績が良く授業中よく教えてくれた。その影響があり僕も勉強が好きになった。授業もしっかり聴いた。家でもよく勉強をした。そのことは、母との約束でもあった。
 父は毎日帰りが遅かった。奥さんとは、ご飯を食べるとき以外一緒に過ごす時間がなかった。なんとなく奥さんは妹の方を望んでいたので嬉しくないのだろうと思っていたし、『お母さん』と呼ばないでいたからだ。用事があるとき以外、僕のほうから口をきくことはなかった。その用事も学校のこと以外はほとんどなかった。
 そうして数ヶ月過ごしたある日、父が僕の部屋に入ってきて、おまえなぜおかあさんと呼ばないのか? と訊いてきた。僕は少々強い口調で、「僕のお母さんは一人だけだもの」と答えた。部屋の外で、逃げる足音が聞こえた。奥さんだった。

 妹とは手紙を交換していた。母はアイスキャンデー売りと食堂の仕事を辞めて、病院の炊事の仕事をするようになっていた。僕はいつも母の写真を眺めながら妹の手紙を読んでいた。
 五年生の秋に届いた手紙は僕を驚かせた。母は、薬局のおじさん――妹の文でだが――と結婚をしたいらしい、と書かれてあった。母が働く病院で薬を作っている人だそうだ。薬剤師なのだろう。妹は何度か会ったらしく、優しい人だ、とも書いてあった。
 僕は事情も何も聞かず、『このままお母さんが他の男の人と結婚してしまえば、僕はお母さんの子供でなくなってしまう気がする』と、反対の手紙を書いた。『これは、お母さんにも見せてください』とも書いた。
 ――このとき、僕は、母が幸せになる機会を奪った。
 次の週、母から手紙が届いた。
『お兄ちゃん、しんぱいかけてごめんね。お母さんは、結こんはしません。あの人はとてもいい人だったし、もうしこまれたので少しは考えたけれど。お母さんの大事な人は、はなれていてもお兄ちゃんだよ……』
 今思えば、このことを相手に伝える時、母は苦しんだに違いない。自身の気持ちを諦める意味でも。

 その頃から父は家へ帰らないことが多くなった。奥さんの様子も変だった。
 あとで知ったことだが、事業が良くない状態になっていたのだ。
 同じ頃、僕は入院をした。
 ネフローゼという病気だ。入院は四週間ほどだった。入院の手続きをした後は、奥さんは病院へは来なかった。父もたまに顔を出すだけだった。僕は毎日母の写真を眺めて過ごした。
 三週目に母と妹が来た。
 その日、――入院してからは毎日だったが――母が来るのを期待して、耳をそばだてていた。カーテン越しに、廊下で看護婦と話す母の声が聞こえてきた。僕は気が付かない振りをしようと、窓の方を向いてベッドに腰をかけた。胸が蒸発しそうな気分だった。だが、看護婦との会話が終わらず、母と妹はなかなか病室に入って来ない。短い時間だったろうが、我慢しきれずベッドから降りた。すると、足音と妹の元気な声が響いた。
「お兄ちゃん!」背中に聞いた。
 僕は振り返った。
 ――あぁ、――母と妹がいる。
 僕は目を大きく開いた。瞼を閉じると二人の姿が消えてしまいそうな気がした。
 二人は笑顔で近づいてくる。僕は網膜に、もっとはっきり捉えようとした。が、二人の姿は急に滲んでいった。こらえていた寂しさが、涙とともに溢れてきたのだ。しょっぱい味が口の中を満たした。その口からの、くしゃくしゃになった言葉とともに、僕は母のもとへ駆け込んでいった。僕は放って置かれたことを責めるように、母にしがみついて号泣した。母は黙って僕を胸に抱いてくれた。
 結局、父は奥さんと別れた。仕事を失敗し、破産したのだ。家も手放した。
 僕は母と妹と暮すことになった。また、三人での貧しい生活が始まった。
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