第38話

文字数 976文字

 一颯も最初の前菜に手を付けた時に気付いた……。

(これは、俺のミスだ……)

 音色でもさすがに外側から順にナイフとフォークを使っていくことぐらい知っている。しかし音色は左利きだ。慣れた箸の持ち方でさえ綺麗ではないのに、右手側に置かれたナイフを扱いきれる自信など無い。
 もちろん左に持ち替えて使用すること自体はマナー違反ではない(* フォーマルな場では持ち替えることはマナー違反とされている場合も有)、しかしながら、配膳は右利き用。さらには『美しい』とされる日本文化は右が作法とされている。
 主催者は旧財閥上がりの古狸たち。さらにはこのクラスの催しであれば、あらかじめメートル(ホールの責任者)に伝えておけば、持ち直す必要の無いように整えてくれていたはずだ。テーブルセットは自分で変えてはならない。
 今からギャルソンに頼んでも体裁が悪い。

(左手に持ち替えてもいいのかしら? プロトコール……国際儀礼なんて知らないわよ……)
 音色は迷いながらも右手にナイフを持つ。箸よりはましだろう、そんな安易な考えだった。
 華やかな前菜を前に手が震える。ナイフを、落してしまった……。

 慌てて拾おうかと身体を傾けかけたが、『拾わないのがマナー』と思い出す。待つことなく給仕がスマートに新しいナイフと交換してくれる。
 しかしこのことが音色を更に気持ちを追い込んでしまう。

「料理の度に持ち替えてもいいんだよ」

 一颯もここでそう言わざるを得なかった。遅かったかもしれない、しかし一颯にしても苦渋の決断だ。それを音色に悟られないよう、『無理させてすまなかった』と表情を作る。

(このままだと社長の金をむしり取る前に捨てられてしまう……)

 そんな下心……いや邪心が音色の心を支配する。汗が噴き出てきた。慌てて自分のハンカチを額に当てる……そのハンカチの隙間から一颯が首を振るのが見える。

(あ、ここでは自分のハンカチを出してはいけなかった!)

 気付いたときにはすでに遅い……。全ての色を失った……。『微笑んでいればいい』それすらもできるわけもなく、車内で教わったナプキンの使い方、フォークとナイフの使い方、スープの飲み方、パンの食べ方、ドリンクマナー等々を復習する作業を繰り返した。

 見た目の鮮やかな料理をただ呑み込んで消費するだけの作業に没頭するしかなく、何も心に残るものはなかった。
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