12:居睡
文字数 6,277文字
今日十二月五日、部活動再開という日に、舞莉は学校を休んでいる。
「ああ、もう最悪。うつされた。」
三十八度五分。冬の時期にこの熱は、完全に『アレ』だろう。
「基本精霊は病気にはかからないけど、人間には、冬に流行る『インフルエンザ』っていうのがあるんだね。」
バリトンは何やら本を片手に、デジタル体温計とにらめっこをしている。
舞莉の前に、舞莉の弟がインフルエンザにかかっていた。
一昨日、舞莉は母に頼まれて、隔離されている弟に食事を届けたのだ。
もちろんマスクをし、その後に手は洗っている。
しかし高熱が出てしまい、今日病院に行ったらインフルエンザだと診断された。
「抵抗力弱すぎだろ。弟と同じ部屋で寝てるお前の母さん、何でかからないんだろうな?」
さっきカッションは、バリトンからインフルエンザのことについて少し教えてもらっていた。
「仕方ないよ。部活であんなことされて、肉体的にも精神的にも弱ってて、しかも吹部の活動停止。これからどうなるかも分からなかったんだから。」
「確かに、そうだな。」
カッションはふぅ、とため息をつき、「今のうちに休んでおけよ。」と舞莉の頭を撫でる。
一週間後、出席停止期間が終わり、十二日から登校できるようになった。登校許可証をもらいに行ったので、朝練は出なかったが。
本格的に、舞莉のサックス人生がスタートした。
一週間ぶりに音楽室に足を踏み入れる。
『よし、今日からサックスだ。……サックスでいいんだよね。』
舞莉は、既に来ていた古崎先輩にあいさつをした。
「そっか。舞莉ちゃんが来たから、椅子の配置変えないとね。ここを詰めて……じゃあここに座って。」
テナーの席を少し詰めて、舞莉の場所を確保してくれた。
「あ、ありがとうございます。」
てっきり自分がするつもりだったので、何だか申し訳ない気持ちになる。
譜面台を立ててから、舞莉はストラップを持って楽器を取りに行った。
『学校のバリサク、久しぶりに見たはずなのに、そう感じないんだよね。』
塗装がところどころはげていて、金属光沢などとっくの昔に失ってしまったであろう、このバリサク。
部活動停止期間中に、舞莉はセグレートでこのバリサクを使って練習していたのだ。
『でも、この首にくる重みは久しぶりな感じ。』
古崎先輩は、舞莉の慣れた手つきに首を傾げる。
この一ヶ月間、舞莉はバリトンと一緒に『再開してからみんなに迷惑がかからないようにする練習』をしていた。
そもそも、部活動停止になる前は最低音の『ラ』が出せなかったのだ。舞莉が苦戦していると、
「最低音、結構出てくるよ。」
と古崎先輩に言われて、舞莉は肩を落とした。
それを聞いたバリトンは苦笑した。
「バリサクは基礎合奏じゃ、最高音から低いドまで使うからね。結局、全部出せるようにはしておかないとか。」
まだ全然慣れていなかった舞莉は、右手のひらで押すキィを間違って押してしまって、音がひっくり返っているくらいだった。
しかし、今は最低音はしっかり出せて、最高音は少しなら出せるようになっている。
ロングトーンは、低い音域ではテンポ六十で八拍は続かないものの、調子が良ければできるようになった。
たった一ヶ月で。
そんなことを思い出しながら、舞莉はバリサクに息を吹きこもうとした。
「『コソ練』の成果、セグレートじゃなくても見せてね。」
バリトンの声に、舞莉は吹き出しそうになる。
『ちょ、ちょっと!圧かけないでよ。』
「先輩がお前の『アンブシュア練習』を聞いたらびっくりすると思うぞ!」
吹部バッグにこっそり入っているスティックから、カッションの弾んだ声が聞こえた。
『全く、二人して……。』
軽くため息を吐いた舞莉は、よく息を吸って、低い『ソ』の音を出した。
しばらくして部員全員が集まると、部長が手を叩いた。
「今日はパート練にしてください。」
「「「はい!」」」
黒板には、各パートの練習場所が書かれている。新十ヶ条で理科室が使えなくなり、練習場所が変わったからだ。
サックスは理科室前の廊下である。音楽室を出てすぐそこのところだ。
「多分最初は基礎練やると思うから、サックスの方行こうか。」
古崎先輩は譜面台を持って立ち上がった。
あの言い方だと……ずっとサックスと一緒に練習してないってこと?
……え?
舞莉は心がモヤモヤしたまま、マッピにキャップをつけ、先輩と同じように譜面台を持った。
「あ、譜面台、大変なら別々で持ってきていいよ。」
「大丈夫です。」
「そっか。ゆっくりでいいよ。」
これも練習のうち。
譜面台をバリサクにぶつけないように注意しながら、ゆっくり練習場所に向かった。
テナーの先輩が用意してくれていた椅子に座り、パート練習が始まった。
「羽後ちゃん、サックスに来てから初めてのパート練だから……自己紹介するか。と言っても、私と古崎は知ってるよね。」
テナーの先輩も同じ幼稚園だったので知っている。浅木 百合 先輩だ。
「あと知らないのは高松だけか。」
そう言って、親指をアルトの先輩に向けた。
「アルトの高松 真由 でーす! よろしくね〜! パートリーダーでーす!」
高松先輩は朗らかに笑って、こちらに手を振ってきた。
「よろしくお願いします。」
「ちょっとー、堅いよぉ〜」
肩をすくめた高松先輩に、浅木先輩がつっこむ。
「舞莉ちゃんは真面目だからね。高松と違って。」
「私だって真面目だよ! あっ、そうだ。なんて呼んだらいい?」
突然話が変わって、少し混乱する舞莉。
「普通に、名前でいいですけど――」
「『ひばるん』とかどう?」
「ひ、ひばるん!?」
思わず声が裏返る。
奇想天外な発想をするのが、この高松先輩なのだろう。
「私もひばるんって呼ぶ!」
浅木先輩が手を挙げた。
「私は……舞莉ちゃんでいいかな。」
苦笑いをする古崎先輩。
同級生でアルトの古井 優花 と奥谷 遥奈 とテナーの三村 瑠衣 も、高松先輩の案に乗った。
どうやら、古崎先輩以外は、舞莉のことを『ひばるん』と呼ぶことになったらしい。
「あのさ、さっきの基礎合奏、舞莉ちゃんが結構できててさ。」
「えっ、古崎、マジで?」
大袈裟かというほどに驚いている浅木先輩。
「ひばるんすごいじゃん! 滅多に褒めないコイツが褒めてるよ。」
「滅多に褒めないって……褒める相手がいなかっただけだよ。直接の後輩になったの、舞莉ちゃんが初めてだからね。」
なかなか練習が始まらない上に、先輩たちがおしゃべりなので、サックスパートでは舞莉は空気になってしまいそうである。
『予想通り、サックスってにぎやか。』
舞莉は思わず微笑んでいた。
「そろそろ始めないと怒られそうだから、やろうか。まずロングトーンから。」
音楽室の方を見やった高松先輩は、廊下にぽつんと置かれた机にピンクのメトロノームを乗せ、テンポ六十で振り子を動かした。
「あっ、そうだ。これ。三送会でやる曲の楽譜。先週決めたからさ。」
古崎先輩は、自分のファイルから三枚くらいの紙を取り出した。
二曲分の楽譜らしい。
「『キミの夢は、ボクの夢。』と『全力少年』ですか。」
「楽譜は読める……よね。多分、来週くらいには合奏するって言ってたから。」
ら、来週……。
バリサク歴、まだ一ヶ月なんですけど……。
「やっぱり。部活がなかった時に基礎やっておいてよかったね。」
首元から聞こえるバリトンの声。
基礎に特化して練習させていたバリトンの意図が、ようやくここで繋がった。
こうなることを予測してたってことか。
基礎練習が終わると舞莉と古崎先輩は、準備室に移動した。曲練習は低音パートの人たちとするらしい。
舞莉は戸惑った。
あの時、舞莉が森本先生と荒城先生にパート移動の件を話した後、森本先生からこっそり言われたことがあった。
「荒城先生は承諾してくださいましたが、先生としては、ユーフォに行ってもらいたいんですけど……。ユーフォはどうですか?」
舞莉は、金管楽器が全体的に手応えがなかったことと、低音パートには舞莉の苦手な人が数人いることを伝え、ユーフォニアムに移動するのは断った。
バリサクが低音パートの人と一緒に練習することを、舞莉は知らなかったのだ。
「古崎先輩、バリサクって低音にいる方が多いですか?」
ドアを開けかけた古崎先輩に、怖々聞いてみる。
「そうだね。基礎よりは曲練の方が長いからね。だいたいは低音の方かな。」
舞莉の心に、何か重い物がのしかかる。
ドアを開けた先には、ユーフォニアム・チューバ・コントラバスの3つの楽器から成る、低音パートがいた。
もう一人、バスクラリネットの高良 和香奈 もいる。高良先輩の妹である。
狭い準備室では横一列に並ぶのが精一杯で、舞莉は端っこに椅子を置いて座った。
「今日は個人練で。」
「はい」「はい」「はい」
何ともまぬけた、揃っていない返事である。
ちょっとしたカルチャーショックを感じる。
『返事ゆるっ……。まぁ、始めるか。』
舞莉はシャーペンを持って、さっきもらったばかりの楽譜に音階を書きこみ始めた。
低音楽器のバリトンサックスだが、楽譜上ではト音記号で書かれている。フルートのように加線が多いわけでもないので、舞莉は難なく音符を読めている。
シャープがつく音には□、フラットがつく音には○をつけて、指を間違えないようにした。
まずはまだ吹きやすそうな、『キミの夢は、ボクの夢。』から練習することにした。曲名だけでは、どんな曲かは分からない舞莉。
頭の中にバリトンの声が響いてきた。
「リズムは大丈夫かな。四分と八分だけだから。」
『たぶん。最初は……タン、タン、タン、タター、タン、タン、タンで合ってる?』
「合ってるよ。タイに気をつければ。これ、Bはメロディぽいね。珍しい。」
確かに、そこの部分だけ八分音符が多い。低音楽器にはあまりメロディがなく、楽譜が配られたらダメ元でメロディや裏メロを探すらしい。
「他のところはAの繰り返しみたいだね。初心者の舞莉にはぴったり。あまり難しくなくてよかった。」
『そうだね。全力少年の方が難しそう。』
とりあえず、吹いてみることにした。
『あれ、意外とキツい。』
今まで基礎しかやってこなかった舞莉は、タンギングが苦手だったのだ。たかが四分音符でも、間延びしたり早く切りすぎたりしてもかっこ悪い。
それに加え、休符が少ないので息を吸うところが少ないのである。
隣の古崎先輩の音も聞いて、リズムや音一つ一つの長さを確認した。
舞莉がCからの所を練習していると、隣から視線を感じ、マッピから口を放した。
「えっ、すごい。」
他の楽器の音にかき消されるくらいの微かな声で、確かに古崎先輩はそう言った。
でも、さすがにBのメロディ(っぽい)のリズムがあやふやだけど。
すると、古崎先輩が、まさにあやふやなところを練習し始めた。それを聞いた舞莉はハッとした。
『何か聞いたことある! CMで流れてるやつだ!』
たくさんの高校生がこの曲を歌いながらダンスをしている、某スポーツドリンクのCMだ。
そうと分かれば!
頭の中で階名を口ずさみ、音は出さずにキィを動かしてみる。
その後にしっかり吹いて練習した。
ゆっくりのテンポだが、舞莉はサックスパート一日目で、この曲を一通り通すことができた。
『ふぅ、バリ、どう?』
「初日にしてはかなり上出来だよ。まだバリサク歴一ヶ月だとは思えない。」
『ホントに!?じゃあ、今日のセグレート練習は免除?』
「なわけねぇだろ。」
パーカスの棚の上で、三頭身の姿で寝ていたはずのカッションの声が、後ろから聞こえてきた。
「今日も基礎やるよ。半音階と全調スケールもね。あとアルペジオ練習もやってみようか。」
『やるの? あのくそムズいやつ!』
テンポ八十くらいで、指の動きを滑らかにする練習である。十六分音符のオンパレードなのだ。
「パーカスの時は全部できてたんだから、バリサクでもできるようになるだろ。」
『カッション、無茶言わないでよ……!』
その夜のセグレートでの練習で、舞莉が悲鳴を上げたのはご想像の通りである。
舞莉は目を見張るスピードで上達していった。
曲練習も平行し、一週間で半音階が、冬休みに入る直前には全調スケールが半分くらい吹けるようになった。
舞莉のあまりの上達ぶりには、サックスの先輩はもちろん、他のパートの先輩も感心していた。
そして、バリトンも。
「他の一年生は夏までじっくり基礎練習できるけど、舞莉はそうはいかない。心配してたけど、全然大丈夫そうだね。」
「舞莉ってパーカスの時もそうだったな。しっかり教えれば飲みこみ早いし、すげぇ教えがいがある。なぁ、バリ?」
カッションはドラム椅子に足を組んで座り、頬杖をついている。
「うん。教えてて楽しいよ。」
「舞莉、久しぶりにドラムやるか?」
その問いに舞莉は目を輝かせる。
「いいの!?」
「ずっとバリサクの練習も疲れるだろ。たまにはドラム叩いて気分転換もしてくれよな。」
舞莉は床にそっとバリサクを置くと、カッションからスティックを受け取る。
「バリサクの練習しかしちゃいけないって思ってた!久しぶりだから、カッション、多目に見てね。」
手首をぐるぐる回してから、セグレートの中に心地よいビートが響き渡った。
そう。舞莉は飲みこみが早いだけでなく、ブランクがあってもそれを感じさせない才能と技術をもっていた。
趣味でピアノも嗜み、合唱コンクールでは指揮を務め、根からの音楽好きになっていたのだ。
「何か楽器に触ってる時が、舞莉が一番輝いている瞬間かもね。」
「ああ、ドラムもバリサクも、すごく楽しそうにやってるもんな。バリの言う通りだぜ。」
二人の精霊は目を細めて、舞莉の奏でるリズムにノリノリで体を揺らし、指を鳴らした。
そんな舞莉をよく思わない人が一人。
入学した時の最初の席で、舞莉の隣だったハーフの女の子、矢萩 ルイザだ。
チヤホヤされている舞莉を見て、楽器を片づけながら舌打ちをする。
「私だって、先輩押しのけてアンコン出たのに。」
アンサンブルコンテストに出たメンバーの中で、唯一の一年生だった。
「パート移動、私だってしたいし。こんなヘタクソな先輩の元でやりたくないし。」
リュックサックを背負うと、チューナーやストラップをしまっている舞莉を後ろからにらみつける。
「うわ、雨降ってる!」
「うそ! 傘持ってきてないよ!」
「私の傘に入る?」
午前中まで晴れていた空は、だんだんどんよりとして、ついには雨も降り出していた。
最近肩こりが気になり始めた舞莉。
置き勉禁止をしっかり守っていてリュックサックが重たいせいもあるが、バリサクのせいでもあるだろう。六キロを首一本で支えているのだから。
舞莉は暗雲を見上げ、片耳が欠けたネコの折りたたみ傘を開いた。
「ああ、もう最悪。うつされた。」
三十八度五分。冬の時期にこの熱は、完全に『アレ』だろう。
「基本精霊は病気にはかからないけど、人間には、冬に流行る『インフルエンザ』っていうのがあるんだね。」
バリトンは何やら本を片手に、デジタル体温計とにらめっこをしている。
舞莉の前に、舞莉の弟がインフルエンザにかかっていた。
一昨日、舞莉は母に頼まれて、隔離されている弟に食事を届けたのだ。
もちろんマスクをし、その後に手は洗っている。
しかし高熱が出てしまい、今日病院に行ったらインフルエンザだと診断された。
「抵抗力弱すぎだろ。弟と同じ部屋で寝てるお前の母さん、何でかからないんだろうな?」
さっきカッションは、バリトンからインフルエンザのことについて少し教えてもらっていた。
「仕方ないよ。部活であんなことされて、肉体的にも精神的にも弱ってて、しかも吹部の活動停止。これからどうなるかも分からなかったんだから。」
「確かに、そうだな。」
カッションはふぅ、とため息をつき、「今のうちに休んでおけよ。」と舞莉の頭を撫でる。
一週間後、出席停止期間が終わり、十二日から登校できるようになった。登校許可証をもらいに行ったので、朝練は出なかったが。
本格的に、舞莉のサックス人生がスタートした。
一週間ぶりに音楽室に足を踏み入れる。
『よし、今日からサックスだ。……サックスでいいんだよね。』
舞莉は、既に来ていた古崎先輩にあいさつをした。
「そっか。舞莉ちゃんが来たから、椅子の配置変えないとね。ここを詰めて……じゃあここに座って。」
テナーの席を少し詰めて、舞莉の場所を確保してくれた。
「あ、ありがとうございます。」
てっきり自分がするつもりだったので、何だか申し訳ない気持ちになる。
譜面台を立ててから、舞莉はストラップを持って楽器を取りに行った。
『学校のバリサク、久しぶりに見たはずなのに、そう感じないんだよね。』
塗装がところどころはげていて、金属光沢などとっくの昔に失ってしまったであろう、このバリサク。
部活動停止期間中に、舞莉はセグレートでこのバリサクを使って練習していたのだ。
『でも、この首にくる重みは久しぶりな感じ。』
古崎先輩は、舞莉の慣れた手つきに首を傾げる。
この一ヶ月間、舞莉はバリトンと一緒に『再開してからみんなに迷惑がかからないようにする練習』をしていた。
そもそも、部活動停止になる前は最低音の『ラ』が出せなかったのだ。舞莉が苦戦していると、
「最低音、結構出てくるよ。」
と古崎先輩に言われて、舞莉は肩を落とした。
それを聞いたバリトンは苦笑した。
「バリサクは基礎合奏じゃ、最高音から低いドまで使うからね。結局、全部出せるようにはしておかないとか。」
まだ全然慣れていなかった舞莉は、右手のひらで押すキィを間違って押してしまって、音がひっくり返っているくらいだった。
しかし、今は最低音はしっかり出せて、最高音は少しなら出せるようになっている。
ロングトーンは、低い音域ではテンポ六十で八拍は続かないものの、調子が良ければできるようになった。
たった一ヶ月で。
そんなことを思い出しながら、舞莉はバリサクに息を吹きこもうとした。
「『コソ練』の成果、セグレートじゃなくても見せてね。」
バリトンの声に、舞莉は吹き出しそうになる。
『ちょ、ちょっと!圧かけないでよ。』
「先輩がお前の『アンブシュア練習』を聞いたらびっくりすると思うぞ!」
吹部バッグにこっそり入っているスティックから、カッションの弾んだ声が聞こえた。
『全く、二人して……。』
軽くため息を吐いた舞莉は、よく息を吸って、低い『ソ』の音を出した。
しばらくして部員全員が集まると、部長が手を叩いた。
「今日はパート練にしてください。」
「「「はい!」」」
黒板には、各パートの練習場所が書かれている。新十ヶ条で理科室が使えなくなり、練習場所が変わったからだ。
サックスは理科室前の廊下である。音楽室を出てすぐそこのところだ。
「多分最初は基礎練やると思うから、サックスの方行こうか。」
古崎先輩は譜面台を持って立ち上がった。
あの言い方だと……ずっとサックスと一緒に練習してないってこと?
……え?
舞莉は心がモヤモヤしたまま、マッピにキャップをつけ、先輩と同じように譜面台を持った。
「あ、譜面台、大変なら別々で持ってきていいよ。」
「大丈夫です。」
「そっか。ゆっくりでいいよ。」
これも練習のうち。
譜面台をバリサクにぶつけないように注意しながら、ゆっくり練習場所に向かった。
テナーの先輩が用意してくれていた椅子に座り、パート練習が始まった。
「羽後ちゃん、サックスに来てから初めてのパート練だから……自己紹介するか。と言っても、私と古崎は知ってるよね。」
テナーの先輩も同じ幼稚園だったので知っている。
「あと知らないのは高松だけか。」
そう言って、親指をアルトの先輩に向けた。
「アルトの
高松先輩は朗らかに笑って、こちらに手を振ってきた。
「よろしくお願いします。」
「ちょっとー、堅いよぉ〜」
肩をすくめた高松先輩に、浅木先輩がつっこむ。
「舞莉ちゃんは真面目だからね。高松と違って。」
「私だって真面目だよ! あっ、そうだ。なんて呼んだらいい?」
突然話が変わって、少し混乱する舞莉。
「普通に、名前でいいですけど――」
「『ひばるん』とかどう?」
「ひ、ひばるん!?」
思わず声が裏返る。
奇想天外な発想をするのが、この高松先輩なのだろう。
「私もひばるんって呼ぶ!」
浅木先輩が手を挙げた。
「私は……舞莉ちゃんでいいかな。」
苦笑いをする古崎先輩。
同級生でアルトの
どうやら、古崎先輩以外は、舞莉のことを『ひばるん』と呼ぶことになったらしい。
「あのさ、さっきの基礎合奏、舞莉ちゃんが結構できててさ。」
「えっ、古崎、マジで?」
大袈裟かというほどに驚いている浅木先輩。
「ひばるんすごいじゃん! 滅多に褒めないコイツが褒めてるよ。」
「滅多に褒めないって……褒める相手がいなかっただけだよ。直接の後輩になったの、舞莉ちゃんが初めてだからね。」
なかなか練習が始まらない上に、先輩たちがおしゃべりなので、サックスパートでは舞莉は空気になってしまいそうである。
『予想通り、サックスってにぎやか。』
舞莉は思わず微笑んでいた。
「そろそろ始めないと怒られそうだから、やろうか。まずロングトーンから。」
音楽室の方を見やった高松先輩は、廊下にぽつんと置かれた机にピンクのメトロノームを乗せ、テンポ六十で振り子を動かした。
「あっ、そうだ。これ。三送会でやる曲の楽譜。先週決めたからさ。」
古崎先輩は、自分のファイルから三枚くらいの紙を取り出した。
二曲分の楽譜らしい。
「『キミの夢は、ボクの夢。』と『全力少年』ですか。」
「楽譜は読める……よね。多分、来週くらいには合奏するって言ってたから。」
ら、来週……。
バリサク歴、まだ一ヶ月なんですけど……。
「やっぱり。部活がなかった時に基礎やっておいてよかったね。」
首元から聞こえるバリトンの声。
基礎に特化して練習させていたバリトンの意図が、ようやくここで繋がった。
こうなることを予測してたってことか。
基礎練習が終わると舞莉と古崎先輩は、準備室に移動した。曲練習は低音パートの人たちとするらしい。
舞莉は戸惑った。
あの時、舞莉が森本先生と荒城先生にパート移動の件を話した後、森本先生からこっそり言われたことがあった。
「荒城先生は承諾してくださいましたが、先生としては、ユーフォに行ってもらいたいんですけど……。ユーフォはどうですか?」
舞莉は、金管楽器が全体的に手応えがなかったことと、低音パートには舞莉の苦手な人が数人いることを伝え、ユーフォニアムに移動するのは断った。
バリサクが低音パートの人と一緒に練習することを、舞莉は知らなかったのだ。
「古崎先輩、バリサクって低音にいる方が多いですか?」
ドアを開けかけた古崎先輩に、怖々聞いてみる。
「そうだね。基礎よりは曲練の方が長いからね。だいたいは低音の方かな。」
舞莉の心に、何か重い物がのしかかる。
ドアを開けた先には、ユーフォニアム・チューバ・コントラバスの3つの楽器から成る、低音パートがいた。
もう一人、バスクラリネットの
狭い準備室では横一列に並ぶのが精一杯で、舞莉は端っこに椅子を置いて座った。
「今日は個人練で。」
「はい」「はい」「はい」
何ともまぬけた、揃っていない返事である。
ちょっとしたカルチャーショックを感じる。
『返事ゆるっ……。まぁ、始めるか。』
舞莉はシャーペンを持って、さっきもらったばかりの楽譜に音階を書きこみ始めた。
低音楽器のバリトンサックスだが、楽譜上ではト音記号で書かれている。フルートのように加線が多いわけでもないので、舞莉は難なく音符を読めている。
シャープがつく音には□、フラットがつく音には○をつけて、指を間違えないようにした。
まずはまだ吹きやすそうな、『キミの夢は、ボクの夢。』から練習することにした。曲名だけでは、どんな曲かは分からない舞莉。
頭の中にバリトンの声が響いてきた。
「リズムは大丈夫かな。四分と八分だけだから。」
『たぶん。最初は……タン、タン、タン、タター、タン、タン、タンで合ってる?』
「合ってるよ。タイに気をつければ。これ、Bはメロディぽいね。珍しい。」
確かに、そこの部分だけ八分音符が多い。低音楽器にはあまりメロディがなく、楽譜が配られたらダメ元でメロディや裏メロを探すらしい。
「他のところはAの繰り返しみたいだね。初心者の舞莉にはぴったり。あまり難しくなくてよかった。」
『そうだね。全力少年の方が難しそう。』
とりあえず、吹いてみることにした。
『あれ、意外とキツい。』
今まで基礎しかやってこなかった舞莉は、タンギングが苦手だったのだ。たかが四分音符でも、間延びしたり早く切りすぎたりしてもかっこ悪い。
それに加え、休符が少ないので息を吸うところが少ないのである。
隣の古崎先輩の音も聞いて、リズムや音一つ一つの長さを確認した。
舞莉がCからの所を練習していると、隣から視線を感じ、マッピから口を放した。
「えっ、すごい。」
他の楽器の音にかき消されるくらいの微かな声で、確かに古崎先輩はそう言った。
でも、さすがにBのメロディ(っぽい)のリズムがあやふやだけど。
すると、古崎先輩が、まさにあやふやなところを練習し始めた。それを聞いた舞莉はハッとした。
『何か聞いたことある! CMで流れてるやつだ!』
たくさんの高校生がこの曲を歌いながらダンスをしている、某スポーツドリンクのCMだ。
そうと分かれば!
頭の中で階名を口ずさみ、音は出さずにキィを動かしてみる。
その後にしっかり吹いて練習した。
ゆっくりのテンポだが、舞莉はサックスパート一日目で、この曲を一通り通すことができた。
『ふぅ、バリ、どう?』
「初日にしてはかなり上出来だよ。まだバリサク歴一ヶ月だとは思えない。」
『ホントに!?じゃあ、今日のセグレート練習は免除?』
「なわけねぇだろ。」
パーカスの棚の上で、三頭身の姿で寝ていたはずのカッションの声が、後ろから聞こえてきた。
「今日も基礎やるよ。半音階と全調スケールもね。あとアルペジオ練習もやってみようか。」
『やるの? あのくそムズいやつ!』
テンポ八十くらいで、指の動きを滑らかにする練習である。十六分音符のオンパレードなのだ。
「パーカスの時は全部できてたんだから、バリサクでもできるようになるだろ。」
『カッション、無茶言わないでよ……!』
その夜のセグレートでの練習で、舞莉が悲鳴を上げたのはご想像の通りである。
舞莉は目を見張るスピードで上達していった。
曲練習も平行し、一週間で半音階が、冬休みに入る直前には全調スケールが半分くらい吹けるようになった。
舞莉のあまりの上達ぶりには、サックスの先輩はもちろん、他のパートの先輩も感心していた。
そして、バリトンも。
「他の一年生は夏までじっくり基礎練習できるけど、舞莉はそうはいかない。心配してたけど、全然大丈夫そうだね。」
「舞莉ってパーカスの時もそうだったな。しっかり教えれば飲みこみ早いし、すげぇ教えがいがある。なぁ、バリ?」
カッションはドラム椅子に足を組んで座り、頬杖をついている。
「うん。教えてて楽しいよ。」
「舞莉、久しぶりにドラムやるか?」
その問いに舞莉は目を輝かせる。
「いいの!?」
「ずっとバリサクの練習も疲れるだろ。たまにはドラム叩いて気分転換もしてくれよな。」
舞莉は床にそっとバリサクを置くと、カッションからスティックを受け取る。
「バリサクの練習しかしちゃいけないって思ってた!久しぶりだから、カッション、多目に見てね。」
手首をぐるぐる回してから、セグレートの中に心地よいビートが響き渡った。
そう。舞莉は飲みこみが早いだけでなく、ブランクがあってもそれを感じさせない才能と技術をもっていた。
趣味でピアノも嗜み、合唱コンクールでは指揮を務め、根からの音楽好きになっていたのだ。
「何か楽器に触ってる時が、舞莉が一番輝いている瞬間かもね。」
「ああ、ドラムもバリサクも、すごく楽しそうにやってるもんな。バリの言う通りだぜ。」
二人の精霊は目を細めて、舞莉の奏でるリズムにノリノリで体を揺らし、指を鳴らした。
そんな舞莉をよく思わない人が一人。
入学した時の最初の席で、舞莉の隣だったハーフの女の子、
チヤホヤされている舞莉を見て、楽器を片づけながら舌打ちをする。
「私だって、先輩押しのけてアンコン出たのに。」
アンサンブルコンテストに出たメンバーの中で、唯一の一年生だった。
「パート移動、私だってしたいし。こんなヘタクソな先輩の元でやりたくないし。」
リュックサックを背負うと、チューナーやストラップをしまっている舞莉を後ろからにらみつける。
「うわ、雨降ってる!」
「うそ! 傘持ってきてないよ!」
「私の傘に入る?」
午前中まで晴れていた空は、だんだんどんよりとして、ついには雨も降り出していた。
最近肩こりが気になり始めた舞莉。
置き勉禁止をしっかり守っていてリュックサックが重たいせいもあるが、バリサクのせいでもあるだろう。六キロを首一本で支えているのだから。
舞莉は暗雲を見上げ、片耳が欠けたネコの折りたたみ傘を開いた。