15:門出

文字数 10,638文字

 次の日の放課後、舞莉が音楽室に行くと、朝から出しっぱなしの椅子が出迎えてくれていた。

「今日も合奏か。」

 黒板には『五時までパート練』『五時から合奏』と書いてある。

『吹部だけ部活あり、とか最悪。』

 窓から校庭を見下ろしても誰もいない。他の部の人たちはみんな下校しているのだ。吹部だけ、スイメイモールでの発表のために居残っている、というわけだ。

「やらかした分の取り返しかなぁ!」
といじってくる陸上部の男子を華麗にスルーして、音楽室に来た。


 ほぼやることのなかったパート練が終わり、低音パートは隣の音楽室に移動する。

「今日からスイメイモールバージョンにするから……、司会はこことここの言葉を変えればいいかな。」

 今日使った司会の原稿に、ボールペンで書きこんでいる高松先輩。

 合奏が始まった。どうやら顧問の森本先生は来ないようだ。

「まず、スイメイモールでは『ポカリ』吹きません。時間の都合上。」

 なるほど、『ポカリ』抜いてきたか。確かに、スイメイモールのお客さんは若者だけじゃないしね。いいチョイス。

「『若者』とか十三歳のお前が言うなよ。ババくせぇ。」
と、年齢不詳の精霊・カッション。

『うそ、聞こえてた?』
「独り言と俺らに伝える念、使い分けろって。」
『はぁい。』

 独り言にちょっと気持ちが乗っかっちゃうと、二人に届いちゃうのかな……。まぁ、いいや。

「あと、今日やってみた感じ、『全力少年』を吹いてる時って何もダンスとかしないじゃん。だから何かパフォーマンスを入れようと思っててさ。」

 そういえばそうだった。ポップスの曲では、『キミの夢は、ボクの夢。』は『ポカリガチダンス』があったし、『Under The Sea』はダンスパフォーマンス、『前前前世』は寸劇があったもんね。

「だから、誰かに歌ってもらおうかなって。」

 う、歌!?

「うちらじゃ低すぎて歌えないから、パーカスの男子二人、どっちかで歌える人いない?」
「俺ドラムなんだけど……。」
 大島先輩が自分を指さして訴える。

「じゃあ司くんで。」
「えぇっ、俺ですか⁉︎」
「歌詞分かる?」
「と、途中までしか。」
「本番は明後日だけど、頑張って覚えてきて。覚えられなかったら歌詞見ながらでもいいから。」

 舞莉には、『先輩』という特権を使って、後輩に半ば強制させているようにしか思えなかった。

「それは、いくらなんでも無理があると思うんですけど。」
 腕を組み、舞莉はボソッと言った――つもりだった。

「えっ? 無理かな。」

 高松先輩がこちらを向いている。き、聞こえちゃった⁉︎
 聞こえちゃったんなら、とぼけられないな。しょうがない。

「あの……本番まであと二日なのに、まだ歌詞も分からない状態じゃキツすぎます。歌は楽器より、うまいヘタが分かりやすいと思うんですよ。司がヘタだっていうわけじゃないですが、変声期の声じゃ安定しませんし、やらない方がいい気がします。」

 それっぽいこと言えたかな。あっ、これもつけ足そ。

「それに、一曲くらい何もパフォーマンスなしで、私たちの演奏を聴いてもらってもいいんじゃないですか。」

 高松先輩からは何も言葉は帰ってこない。
 やべ、ぐうの音も出てない。言いすぎたかな。

「す、すみません。出しゃばりすぎました。」

「確かに、ひばるんの言う通りかもな、高松。」
 テナーの浅木先輩がうなずいている。

「やめた方がいい?」
 部員全員をキョロキョロ見ながら尋ねる高松先輩。

「うん。」
「歌いらないかもね。」
「いらない、いらない。」

 ど、同意してくれてる!

「じゃあ、この話はなしで。ごめんね、司くん。」
 高松先輩は手を合わせて謝る。

「やるじゃん、お前。」
 三頭身のカッションが、舞莉のほほをプニプニつついている。

「舞莉も、言う時はちゃんと言うんだね。」
 首元からのバリトンの声。

「舞莉は、ダメだと思ったことにはちゃんと言える性格だからな。」
「そうなの?」
「ああいう言葉に、俺は救われた。客観的に考えられてる。まぁ、舞莉は立ち位置がコロコロ変わるから、何考えてるのか分からねぇのが面白いんだけどな。」

 主体的に考えて相手に寄り添い、客観的に考えて物事に向き合う。

 そうは言っても、自身の問題と直面すると、その思考ができなくなるのが舞莉である。


「羽後ー!」

 廊下で楽器をしまった舞莉がケースを持って準備室に入ると、司から呼ばれた。

「さっきは助かった。もう、公開処刑になるところだった。ありがとう。」
 司は胸を撫で下ろしている。

「あ、うん。独り言で言ったつもりだったんだけど、聞かれちゃったみたいで。」

 持ってきたケースを、古崎先輩のケースの隣に滑らせるようにして入れこむ。

「そうだったんか! ホントに助かったよ。」
「まぁ、あの要求は無茶すぎたからね。」

 ため息混じりで舞莉は言った。

「カギ閉めるよー!」
 音楽室から部長の急かす声が聞こえた。

「やべっ、閉められる。じゃ。」
「うん、また明日ねー!」

 互いに手を少し振ると、別々の扉から準備室をあとにした。

 ――堤防決壊まであと六日――


 二日後、スイメイモールでの発表 本番。

 楽器をトラックに積みこみ、歩いてスイメイモールへと向かった。
 今日は午前と午後の二回の演奏がある。

「スイメイモールの裏側ってこんな感じなんだ。」

 水明駅と歩道橋でつながっている、まさに駅前のショッピングモール。舞莉も小さいころからよく来ているところだ。
『関係者以外立入禁止』のドアの向こうに、舞莉たちは入っていった。

 持ち運びができる人はトラックに積まず、ケースを持つなり担ぐなりしてここに来ている。舞莉のバリサクは、当然持ち運びできるものではない。

 重たく大きい楽器たちをトラックから下ろすと、舞莉は管楽器の人についていかず、またトラックの中へと入る。

「手伝うよ。」

 司がシロフォンに手をかけている。

「大丈夫。羽後は楽器置きに行っていいから。」
「人手不足でしょ?」
「……よろしく。」

 舞莉は司とは反対側を持ち、司の「せーの」の合図でシロフォンを持ち上げる。トラックと搬入口の床との段差を越えると、ゆっくり下ろした。

「ありがとな。」
「いいえ。他はない?」
「あとは一人でも持っていける。」
「わかった。」

 舞莉は、そこに置いてあった自分のケースを持つ。

「羽後、手伝ってくれたのか!」

 向こうから、ドラムを置きに行った大島先輩がトラックに戻ってきた。

「シロフォンだけですけどね。」
「いやぁ、ありがとう。」

 会釈をすると、舞莉は重たそうにバリサクのケースを持って暗がりへと消えた。


 楽器置き場にケースを置き、他の人より遅れて控え室に入った。外に出て喋っている人も多いが、何せ舞莉は精霊以外に話す人がいない。

 狭い六畳くらいの部屋の奥に長机が置かれてあり、机に埋めるようにして細川先輩が座っていた。

「志代、大丈夫?」

 数人の先輩は細川先輩を心配しているようだが、ほとんどの先輩は見向きもしない。
 細川先輩が顔を上げる。顔は青白く、とてもこれから演奏できそうではない。

 舞莉は声をかけようとした、が。

「パーカスにいらないから。」

 まさにその本人から言われたことが頭をよぎり、舞莉の歩みが止まる。

「……。」

 誤魔化すように壁に寄りかかった。

『散々私をいじめてきて、私がパートを移動したとたんに休み始めて。……なんなんだろ。』

 そう舞莉の声が聞こえても、スティックに宿るカッションとストラップに宿るバリトンは、バッグの中に閉じこめられているので状況が分かっていない。

 精霊たちの声は聞こえてこなかった。

 時間になり、舞莉たちは楽器置き場に戻って、音出しを始めた。


『関係者以外立入禁止』から、吹奏楽部員たちがゾロゾロと出てきた。すでに用意されている椅子に座り、位置の微調整をする。

「舞莉、今日もやっていいのか?」

 必死に楽器を温めている舞莉に、弾んだ声が聞こえてきた。

『いいよ、カッション。だけど……細川先輩にだけ、耳に届く音をちっちゃくできるかな? 無理して来たっぽいから。』
「……おう、わかった。やってみる。」

 等身大のカッションは、ちらりとパーカスの方を見やってうなずく。

『あ、バリは佐和田先輩のフォローよろしく。』
「うん。オッケー。」

 バリトンはスっとストラップから離れて、片足を立ててしゃがんだ。カッションはパーカスの方に移動した。

 目の前の客席は満席、その後ろには分厚い人垣、二階からもこちらも見下ろしている人がたくさんいる。
 そして、客席の一番前に高良先輩の姿が。

『宣言通りに、高良先輩いるね。』

 スタッフの人が、森本先生にどうぞと促した。

 カッションは両腕を交差させて浮き上がり、バリトンは霧状になって姿を消す。精霊たちの準備もできた。

 舞莉たちの演奏が始まった。
 初っ端から、叩いてもいないのにシロフォンの音が鳴り、メロディとともにグロッケンの音も鳴り始めた。

 今日もトランペットのソロは成功し、とりあえず出だしの調子が狂うことはなかった。

「みなさん、こんにちは! 南中学校吹奏楽部です。」

「今年もまた、スイメイモールさんで演奏させていただけること、部員一同 心より感謝申し上げます。」

「ただいまお送りした曲は、矢藤学 作曲の『マーチ・スカイブルー・ドリーム』でした。」

 この後、お決まりの司会の自己紹介があり、「どうぞ、よろしくお願いします!」の言葉で拍手が起こる。

「さっそくですが、ここで超イントロクイズ!」
「「「イエーーーーイ!」」」

「これから、次の曲の最初の部分だけを吹きます。何の曲か分かった人はーー」
「「「ハイっ!」」」
「ーーと手を上げてください。それではスタート!」

 冒頭は伴奏なしのクラリネットだけのメロディ。イントロの始めの四音だけ吹いた。

「分かった人、いますか?」

 お客さんがガヤガヤしだす。誰の手も挙がっていない。

「これでは分かりませんよね。それではもう一度!」

 今度は最初の二小節を吹いた。

「分かった人、いますか?」

 お客さんがまたもやガヤガヤしだす。どこからか「あー、何だっけ?」という声も聞こえた。
 すると、客席で聴いていた小学校低学年くらいの女の子が手を挙げた。

 高松先輩は無線の方のマイクを持って、駆け寄った。女の子は少し恥ずかしそうに言った。

「『アンダー・ザ・シー』。」

「おおっ、正解です! おめでとうございます!」
「「「イエーーーーイ!」」」

 でも、あめ一つもあげられないんだけどね。

 司会以外の部員たちは、フェルト製の、魚のヒレつきポンチョを頭からかぶった。舞莉のはフランダーを模した、水色の背びれがついた黄色いポンチョである。

「それでは、次の曲、映画『リトル・マーメイド』で有名な『Under The Sea』です。映画に出てくるキャラクターをイメージした衣装にも、ぜひご注目ください。」

と言っても、舞莉はその映画をしっかりと観たことはないのだが。

 耳栓をした細川先輩は、スティックを打ち鳴らしてテンポを示した。

 曲が始まり、五小節目からカッションのシロフォンが入ってきた。

 二番に入ると、まずはトランペットとトロンボーンが席を立ってステージから下りた。次にホルンとユーフォニアムが、その次にクラリネットのセカンド・サードとバスクラリネットとサックスと低音が、最後にフルートとクラリネットのファーストが、客席を囲むように移動した。

 三送会の時より移動距離は短い。舞莉は客席と人垣との間に歩いていく。

 ちなみにチューバは移動せず、座ったまま吹いているのて、踊っている人の中ではバリサクが一番重い楽器である。

 舞莉のバリサクを見た人が、「おぉ、デカい。」とつぶやいた声が聞こえた。

 人や床、客席の椅子にぶつけないように、舞莉は吹きながら踊れる極限のダンスをした。デカい楽器を吹きながら大きく踊っていたら、それはそれは見応えがあるだろう。

「すごい。」

 舞莉がバリサクを持ち上げてベルアップをすると、後ろの人垣からため息混じりの驚嘆の声がした。

 吹き終わると、舞莉は後ろを振り返る。溢れんばかりの拍手をもらい、会釈をして元の席に戻った。

「次の曲は、スキマスイッチの『全力少年』です。ここにいるみなさんに、全力でエールを届けます!」

 あの時私が言わなければ、ここで司は歌わなければいけなかった。
 あの時私が吹かなければ、今も間違ったリズムで吹いていたかもしれない。

 まぁ、どれもちっちゃなことだけど。

 今度のカッションの担当は、ボンゴとカスタネット(いずれも持ってきていない)だ。

「メロディもあるし、低音もつまらなすぎず難しすぎない、この編曲、僕は好きなんだよね。」
 なんて、バリが言ってたっけ。曲数吹いてない私には分からない。

 舞莉が指摘したところの楽譜は、低音パートのみんなが蛍光ペンで色をつけている。
 しかし、もう正しいリズムの方で吹き慣れたので問題ない。しっかり難所を突破した。

 大島先輩のドラムはどこか危なげな感じだが、三送会の時よりテンポが安定してきている。それでもテンポがだいぶ走りやすいのだが。

 要注意のアーティキュレーションも、体にすりこませたおかげで低音パートがひとつにまとまっていた。

 フェルマータののばしは、特にピッチに注意し、大島先輩のドラムの合図で吹ききった。

 明石先輩と大島先輩が舞台裏へと消える。

「最後の曲は『前前前世』です。この曲の途中で――」

 部員たちは手拍子しながらCメロの部分を歌う。
「「「オー、オオオーオー、オーオオオーオーオー」」」
「……というふうに歌ってもらえると嬉しいです。それでは、どうぞ。」

『君の名は。』のCMから引用した、瀧のセリフを佐和田先輩が、三葉のセリフをクラの先輩が読み上げた。

 司のスティックの合図――インテンポより少し速めになってしまった――で、吹き始めた。

 細川先輩はずっとグロッケンやシロフォンを叩いている。大島先輩がいなくなってしまえば、タンバリンでさえやる人がいない。

 今度は、ティンパニ(持ってきていない)、タンバリン、トライアングル(持ってきていない)、カウベルの四つを、カッション一人で奏でている。

 ドラムの細かいリズムは、司が叩ける範囲で簡略化しているらしい。無理に叩こうとしてテンポが乱れるよりはいい。

 大サビに入る前に演奏を止めた。

 ここで寸劇が始まる。
 瀧役が大島先輩で、三葉役が明石先輩。瀧の声役が佐和田先輩で、三葉の声役がクラの先輩である。

 映画の中の、『カタワレ時』にやっと出会えた二人の場面を、小説から引用・朗読する。それに合わせて大島先輩や明石先輩が演じるわけだ。

「あなたの名前は……!」
「俺の名前は、た、た……思い出せない!」
 大島先輩(瀧)は頭を抱える。

「吹部のみんななら知ってるかも!」
 明石先輩(三葉)は後ろを向いて両腕を広げる。

「「「瀧くーーーーん!」」」
「そうだ、思い出した! 吹部のみんな、ありがとう!」

 部員全員から呼ばれた大島先輩(瀧)は、調子に乗り始める。

「やっぱ、俺って人気者だよなぁ。今日ここに来てくれたみなさん、俺のためにきてくれてありがとう!」

「待って、あなたは瀧くんじゃない!」
 ここで、三葉(明石先輩)は自分の知る瀧と違うことに気づく。

「イェェェェエエイ!!
 一呼吸置き、大島先輩はお客さん側を向いて足を肩幅に開いて大声を出した。その場で制服を脱ぎ、下に着ていた体育着の格好になる。

「瀧くん、どこにいるの? 瀧くーん!」
 明石先輩(三葉)は走って、本当の『瀧』を探しに行った。

「空前絶後のぉぉぉぉおお! 超絶怒涛の牛乳好きぃぃぃぃいい!」

 大島先輩は『あの自己紹介』を自分流のアレンジで、のどが枯れる勢いで叫ぶ。

「牛乳を愛し、牛乳に愛された男ぉぉぉぉおおー!」

 お客さんから笑いが起こる。

「成分調整牛乳、加工乳、乳飲料! すーべての牛乳の生みの親ぁぁぁぁああ!」

 直前まで何を言おうか迷った、牛乳三段活用を駆使する。

「そう、わーれこそはぁぁぁぁああ!」

「サンシャイーーーーン お・お・ボコッ・し・ま」

 大島先輩は体を仰け反らせる。

「イェェェェエエイ!! ジャァスティース!!

 起き上がって例の決めポーズをすると、客席からも人垣からも2階からも拍手喝采が起きた。

 大サビから演奏を再開し、最後まで演奏が終わった。全員が立ち上がる。

「ありがとうございました!」
「「「ありがとうございました!」」」

「アンコール、アンコール!」
 一番前にいる、高良先輩がアンコールの先陣を切った。

「アンコール、ありがとうございます!」
 いつものセリフで司会が進行し、『ユーロビート』の演奏が始まった。

 細川先輩がドラム、制服に着替えた大島先輩がシェーカー、司がヴィブラスラップとトライアングルを演奏している。
 カッションの担当は水明祭よりパワーアップして、それ以外のティンバレス(持っていない)、タンバリン、グロッケン、マリンバ(持っていない)、シロフォンだ。

 これには吹奏楽経験者であろう、お客さんの数人が反応している。
 そして、一番前でよく見える高良先輩も。

『ああ、混乱してる、してる。』

 とてもパーカス三人とは思えないにぎやかさに、舞台裏で待機していた森本先生までも出てきた。

 最後まで演奏が終わった。

「これからも、南中吹奏楽部をよろしくお願いします!」
「「「お願いします!」」」

 そういえば、カッションが奏でた音って、スマホとかビデオに録音されないんだっけ。
 生でしか聴けない音、か。

「!」

 うっ……お腹が空いて……胃が痛い……! ……我慢、我慢。くっ……!

 舞莉はお客さんに背を向け、下を向いて歯を食いしばる。演奏して踊ったからか胃痛のせいか、汗だくで前髪が張りついている。

 ――堤防決壊まであと四日――


 次の週の水曜日、三送会からちょうど一週間後の三月十五日。三年生は卒業式を迎えた。

 カッションとバリトンは、吹部バッグの中でおやすみ中。二人なしで、舞莉は退屈の極みである卒業式を乗り越えられるはずがない。

 二年生は、門出式の時にBGMとして演奏する。昨日はその練習に関係ない一年生までも居残りさせられ、おかげで舞莉は寝不足である。
 
 寝不足でない時であっても、このような静かで退屈な式ではウトウトしてしまうだろう。それに寝不足が重なって相乗効果を作ってしまっている。
 今の舞莉は、水泳の授業でめいいっぱい泳いだ後の、国語の授業並のだるさであった。

「卒業生が入場します。拍手でお迎えください。」
 これは自分の手が動いているので、まだ耐えられる。

 国歌斉唱や校歌合唱(この学校は珍しく合唱)も、立ち上がって自分が歌うため、平気だ。

「卒業証書 授与。」

 第一の難関がやってきた。ここから三十分ほどは在校生の出番がないので座りっぱなし。退屈なのだ。

『起きないと。寝ちゃだめ。』

 何とか一組が終わるまでは耐えきったが、二組からはきつかった。

 舞莉のまぶたが重くなる。気づくと目が閉じていた。
 しかし、名前を読み上げる声はしっかり聞こえていた。目を開けようとするが、開かない。

 声も途切れる。

 ハッ……

 寝落ちた感覚に自らが驚き、一気に目が覚める。

 それが幾度となく繰り返された。

 金縛りとは逆で、目を開けたいのに開けられない。寝落ちしないと目が開かない。

 クラスの奴らが見てる。ルイザが監視してる。また言われる。今日もまた寝てたって……。

「校長式辞。」

 第二の関門がやってきた。この後立て続けに『お偉いさん』の話を聞かなければならない。自分たちにはほとんど関係のない話など、ただの子守歌になってしまう。

 卒業証書授与の時点でウトウトしていた舞莉は、校長先生の話から限界を迎えつつあった。

「卒業生、起立。」

 その声に目を覚ます。
 話を聞く、寝る、目を覚ます。もう話し終わっている。

『もうダメだ……。』

 さっきから続く胃の痛みが、腹部へと広がった。痛みが増しても眠気が勝り、また意識が飛んでいく。
 起きても朦朧とする意識で、三年生の合唱が聴こえた。


 卒業式が終わった。ひたすら自分との闘いだった。
 卒業生と保護者が退場すると、在校生は一気におしゃべりモード全開になった。

「あー、くっそ眠いー!」
「校長の話、長すぎて寝ちゃったよ。」
「それな! 私も寝ちゃった。」

 疲れ果てた舞莉だが、地獄耳は健在である。
 なんだ、他の人も寝てんじゃん。……それなら大丈夫だよね。


 三年生の教室から昇降口までの道を、在校生や先生たちが両端に並び、卒業生を見送る。

 特に思い入れのある先輩はいないので、舞莉はただ拍手して見送っただけだった。
 他の人は手紙を渡したり、ハイタッチしている人もいたが。

 給食を食べ、清掃と帰りの会をして部活に行った。
 楽器の用意をしようと、舞莉が準備室に入った時だった。

 そこにはまるで待ち構えていたかのように、ルイザがいた。

「ねぇ。」
 低い声とともに、ガンを飛ばしてくるルイザ。

「何で卒業式の最中に寝てた?」
「何でって……。」
「あんだけ『寝るな』って散々言ったのに、まだ分からない?」

 怒鳴り声を聞いたのか、向こうに置いてある吹部バッグから、三頭身のカッションとバリトンが出てきた。

「保護者とか先生が見てる卒業式で、何で寝てたんだか聞いてるんだよ!!

 至近距離で詰め寄られ、息が止まる勢いである。

「……分からない。必死に起きてようとしたけど、ダメだった。」
「寝不足なんでしょ! それなら帰って寝たら? 部活中寝られるとこっちの迷惑なんだけど。」

 舞莉は、言い返そうとしていた言葉を飲みこんだ。

「ま、前にも言ったけど、部活やってる限りは……。」
「だったら、部活辞めれば? そうしたら治るんでしょ。そしたら授業中も寝なくて、クラスの人にあれこれ言われなくなるんじゃない?」
「!」

 確かに、そうかもしれない。
 でも……部活は辞めたくない。

「ルイザの言いたいことは分かるけど、じゃあ、何でクラスの人たちは私にうるさく言ってくるの?」

 国語の授業とかは、特に寝てる人多いのに。何で私ばかり。

「さぁ? 私は舞莉が寝てると目障りだから、集中できないんだよね。」
「他の人は? 他にも授業中寝てる人いるじゃん!」
「あのさ……他の人のことじゃなくて、舞莉のことを話してんの!」

 無意識に後ずさりする舞莉。

「部活で疲れてる、は言い訳にならないからね! 部活やって疲れてるのはみんな一緒。その後塾行ってる人もいるんだから、舞莉より忙しい人だっているんだよ! そうじゃないんでしょ? だったらできるよね。」

 どうにも分かってもらえず、話も聞いてもらえず、涙があふれ出す。

「そんなにひどいなら、病院行けば?」
「いつもいつも部活あるのに、行けないよ!」
「休めばいいじゃん。」
「ただでさえみんなより遅れをとってるのに、休めるわけないでしょ!」

 舞莉は体調を崩さない限り、学校や部活を休むことに極度な抵抗を感じていた。

 すると、部長が準備室に入ってきた。が、ルイザはきまりが悪そうに、無言で準備室からチューバを持って立ち去る。

「どうしたの?」
 そう聞かれても、今の舞莉には誰も信じられなくなっていた。

「……何でもないです。」

 どうせ部長も、向こうの味方。

「ひばるん、気にしなくていいよ。私もよく寝ちゃうし。」
 浅木先輩の励ましの言葉も、今の舞莉には届かない。

 二人の精霊は卒業式に出ていないため、舞莉を援護するすべがなかった。
 しかし、これを見た精霊たちは、舞莉が二人に話さず隠していた『本当のこと』を目の当たりにしたのだった。


 その夜、舞莉はついに隠しきれなかった。

 何事にも笑えなくなっていた。テレビを見ても、何も感じなくなった。
 お腹は空いているはずだが、炊飯器から立ち上るご飯の匂いだけで吐き気をもよおした。

「ご飯、後で食べる。」

 自分の部屋に行っても、吹部バッグを見るだけで過呼吸になりかけた。
 明日のことを考えるだけでもつらい。

 舞莉は倒れこむようにベッドに寝転がる。

「舞莉、大丈夫か……?」
 話しかけたカッションの言葉にも、どこかうわの空である。

「バリ……。どうしたら……。」
 助けを求められたバリトンだが、首を振った。

「僕にはどうしようもできない。専門外だし、舞莉がクラスの人からも言われてるのは知らなかった。」

 カッションにもバリトンにも心配をかけさせた罪悪感が、重くのしかかる。それ以上心配をかけさせないために隠していたことが仇となった。

「ごめん……カッション、バリ。私、もう無理。」

 高良先輩や細川先輩からいじめられた時は、「部活に行きたくない」だった。しかし、今回は「部活に行きたくない」を通り越して、「生きるのがつらい」になっている。そう、カッションは感じていた。

 舞莉は胸をさすってトイレに駆けこんだ。
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登場人物紹介


○羽後 舞莉(ひばる まいり)

主人公。1年生。クラリネットを吹きたくて吹奏楽部に入ったが、パーカッションパートになる。

先輩からいじめられ、サックスパート(バリトンサックス)に移動した。


○カッション

舞莉に音楽の楽しさを知ってもらうため、パートナーになった。舞莉のスティックに宿る音楽の精霊。

○バリトン(第二楽章〜)

カッションに頼まれ、舞莉にバリトンサックスを教えることになった。

舞莉のストラップに宿る音楽の精霊。

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