第1話

文字数 3,139文字

フランスのマエストロ(指揮者)と呼ばれた男が世界一を決める試合でボールじゃなく、人にヘディングをした時、彼は思った。やっぱりサッカーは面白い。そしてヒーロー(英雄)と謳われた選手もただの人間なんだと。ピッチの上は人間しかいない。なら僕にもそれが出来る。その時、初めて彼は夢を描いた。彼の代わりに自分が世界一になるという夢を。
 その出会いは衝撃だった。雷に打たれると言う表現があるが、まさにそんな感じ。やっと物心付き始めたが、まだまだガキ丸出しだった頃、TVを見ていたらそのまま、その世界に吸い込まれた。どのプレーも圧巻。子供だった彼の目は釘付けに。どの選手も輝いて見え、彼はそれになりたいと直感的に思った。サッカーという名の一生共にする永遠の恋人みたいな宝との出会いは、ワールドカップという人類が最も愛して止まない世界のそれだった。将来、何をやるにしても、石の上にも三年だよと、彼の祖母に言われ続け、純粋というか、単純なこの少年は、さじを投げる事もなく、その言葉通りにそれをずっとやり続けた。そして地元のサッカー少年団に入っていた彼は、ある日の練習が終わる時、コーチが皆のいる前で
「トレセンのことは皆知ってるな。今回、初めて我がチームから一人、送り出すことになった」
「えっ」
「翔太。お前がこのチームで初めてのトレセンに選ばれた。皆を代表していくんだ。頑張って、勉強して来い」
チームメイトから
“頑張れ、他の奴に負けんなよ”
と励まされたり
“いいなーうらやましいな”
“ズリーよ。翔太”
とか疎まれたりされながら、翔太はチームから送り出された。トレセンという名の戦場へ。
日本サッカー協会が底辺拡大とその強化の一環として始めた全国トレセン。日本中の優秀な選手を常時把握するというこの一種の連携によって生み出される競争の渦の中に彼は放りこまれた。いやこれは運命の力によって引き寄せられたかもしれない。そんな大袈裟な事ではないにしろ、子供の彼にとっては一大事だった。
未来に置いて成功する奴は、信じられないくらいに一つの事に夢中になれる。明けても暮れてもサッカー。足首を固定して、足の内側で正確にボールを蹴る。インサイドキック。子供は、この繰り返しの練習を酷く退屈に思うものだ。何事も基本が大事だというのに。当たり前だが選手のスキルアップなくしては、チームは決して強くならない。個が強くならなければ、強い集団とはならない。そりゃそうだ。例え、どんなに優れた監督を有するとも。現代サッカーでは、臨機応変なポリバレントな選手が重宝される。だからこそ、子供の頃は基本をみっちりやる必要がある。例えば、6~8歳でドリブル。9~10歳でヘディングやシュート。11歳~12歳でゲームが出来れば最高。ゲーム。例えば、7対7とか8対8でやれれば、監督やコーチの指示がなくても、ボールタッチが多ければ、その中で自分で考えてサッカーの本質を直感的に学べる事だろう。考える力。それが才能。だが、実践。それを鍛えるトレーニングがあればこそ。だが、この段階、少なくとも子供達にとって大事なのは、数多くボールに触る事。その中で、各ポジションの重要性を学んでいけばいいんだ。この年代では特にそう。昔、コロンビアにバルデラマという選手がいた。ポジションはMF。チームの司令塔。彼はインサイドキックで、弱肉強食のサッカー界を生き抜いてきた。インサイドキックの権化。きっと彼は、コーチに子供の頃からそれを徹底的に叩き込まれて来たのだろう。“サッカーの基本はインサイドキックだぞ”と。確かに基本の重要性は良く分かる。だが、右へ習え一辺倒の教え方では、時として才能を潰しかねない。それも事実。それが一つの危険性を孕んでいる。そんな画一的な教育だけでなく、例えば、良い選手の最高のプレーと最低のプレーを両方見せる。どんなに名人でも高を括っていると、大失敗するし、河童の川流れ。弘法も筆の誤り。猿も木から落ちるんだって事をガキの内から徹底して頭に叩き込むのも重要なんだ。他山の石。人のふり見て我がふり直せって奴だ。あと、単純に、子供が調子こかないようにする為の戒めでもある。天狗になるなと。それからグランドに出てれば、サッカーが上手くなるなんてのは、もはや古い考えだ。本当はどこにいたって、例えば家の中にだってヒントはある。サッカー教育に置いての哲学。18歳以下に勝利至上主義だけを持ち込んではならない。プロになれる子供は一握りだし、プロになれたとしても、成功出来るのはもっと少ない。大半の人間が夢半ばでサッカーとは違う世界で生きて行かなければならない。サッカーが人間形成をする上で良い影響を少なからず与えられるというのならば、一つ肝に銘じて置かなければならない。人生では、様々な経験をする。喜びや悲しみ。数多くの浮き沈み。“サッカー”ここで勝つ事だけを植え付けられた人間が、いざ人生の困難に直面したらどうなるのか。サッカー界で指導に携わる者は、プロの選手を育てる前に、自分は人間を育てている事を忘れてはならない。さて翔太の場合はどうか。
「シゲさん。これ、いつまでやるんですか?もういい加減飽きたんですけど」
「翔太。お前、これは全体練習だ。文句言うな。他のキックは個人練習でやれ」
ダメだ。俺はこんな所にいたんじゃ。翔太は思った。彼は一人。チームの中で浮いていた。監督の意に添えぬ奴は試合で使って貰えない。だからと言って、目の前の愚かな現実に従うのは、ゴメンだ。彼は理想が高い。それも、監督、コーチにそれを見透かされていた。翔太は、間違いなくこのチームで一番の実力者。テクニックは一番高く、上を目指す志も高かった。でもサッカーは集団でやるチームスポーツなんだ。残念ながら仲間という意識が彼の頭の中に存在していなかった。それを気付かせてやるのが、大人の務めだと監督、コーチ。首脳陣はいつも思っていた。でも彼はそんな事は露知らずに、Jリーグ。板橋ブルーウイングのJrユースの最終学年を迎えていた。
「なんで、俺が13番なんすかっ。去年は10番を付けさせてくれたじゃないですか。俺、納得いきません。頼みます。説明して下さい。監督」
納得のいかない背番号の付いたユニホームを貰って、翔太はその場で怒りを露にした。それもチームメイト全員の前で。明らかなKY行為。しかし、チームメイトは、プロの一つ前の“ユース”に上がる事で頭がいっぱい。今年が大事なシーズンだと思っているから、翔太の態度に驚いてはいるが、シーズンのファーストゲームに集中したいから、目を背ける仕草をする人間が大半だった。って言うか本音は、他人を気にする余裕はない。これから始まるシーズン。一戦一戦が、自分の未来を左右する。中学3年で彼らは当然、高校受験も頭にあるが、プロサッカー選手という大きくて、儚い夢に挑戦する事が、彼らのプライオリティ(優先順位)の一番上に来ていた。
「よし、いいかお前ら。特に3年生。今日からお前らのセレクションが始まる。残念だが、全員をユースに上げる事は出来ない。ユースに上がりたいと本気で思う者は俺にお前らの可能性を見せてくれ。これはテストだ。自分は将来プロに成れる人間だというところを示せ。俺に何かを期待させるプレーをしろ。非人道的なプレーは許さないが、お前らの必死さを見せろ。さあ、立て。みんな。戦いの始まりだ」
 戦々恐々。この状況は、一度経験している。翔太は思い出していた。地域トレセンの後、U―12日本代表に選出され、初めて日の丸の付いたユニホームを着た時の事を。
「次、杉山輝樹。ポジションはトップ下。そしてお前にはキャプテンマークを付けて貰う。頼んだぞ」
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