■ 静かな世界

文字数 1,089文字

「匂いがないのが、もっとも良い匂いだよ」イタチが言った。
「音のない世界が、いちばん良い音を奏でている」コオロギが言った。
「言葉を発しない者が、もっとも雄弁に語る」ヒトが言った。
「そうだろう、そうだろう。最後のイタチっ屁を放つおまえは、それが火急の時だからな。そんな危険のない世界を良しとするだろう。
 恋を求めて鳴くおまえは、鳴く必要がなければ満たされているからな。
 喋らないおまえは、おまえと接する相手に多大な想像をさせる。そりゃ雄弁に匹敵するだろうからな…」
 フクロウが言った。
「しかし、匂いはあるものだ。音もある、言葉もある。それらは浮かび上がり、それをつかむ者によって良し悪しの判断をされる。
 悪臭を放って敵を退散させ、良い音を発して伴侶を呼び、言葉を選んで理解されようとする。
 何がそうさせているのだろう?」

「自分の身を守るため」イタチが答えれば、「交尾をするため」コオロギが答えた。
「理解されるため」とヒトが答えた。
「ヒトよ、おまえだけ、受動的だな」フクロウが言った、「おまえの主体はどこに行ったのだ?」
「受け身にできているんです」ヒトが言う、「相手や周囲のことを、考えるようにできているんです」
 フクロウはからから笑った。「他者のことを考えるふりして、自分のことしか考えていないのが実情だろう」
「でも、ほんとに考えているんですよ、自分以外の相手を」ヒトが抗議した。

「そこまでひねくれた性根は、どうして出来上がったのかね。本能でないものを、本能だとまでしてしまう、ねじくれまがった性根は。まわりのことを本気で考えられるなら、もっと平和な世界になったろうに。ヒトよ、おまえだけだよ、思いやりだの優しさだの言いながら、傷つけ合い、自死や殺傷、物騒な世界をつくっている生物は。なんでだと思う? 」
「そりゃ、」ヒトは、べらべら喋り出した。
 土を掘り、食べ物を探すイタチを、オオカミが身を伏せて見つめている。鳴き続けるコオロギを、ヤモリがじりじり見つめている。
 ヒトは、喋り続けている。フクロウは、ほうほう聞いている。月に照らされた、夜の森。

(森の支配者ぶったヒトは、自分自身を支配することを忘れているようだ)フクロウは思った、(外敵を失った種族は、内に敵をつくりだす。そうして自滅していった生物を、わしはずいぶん見てきたよ)
 思っているだけで、口にしない。相槌をうって、話を聞く。ほうほう。ほうほう。
 森の静けさ、平和の静けさに対する、せめてもの畏敬。
 静寂を、破り続ける、ヒトへの憐憫。
 生命に必要のない言葉、匂い、音ばかりをつくるものを、枯れ枝に立ってじっと見つめている。
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