♣ 食事処

文字数 1,915文字

 グググと力を入れ、衣服を脱ぐ。ふぅ、終わった、終わった。おや、心持ち、身体が大きくなったような。この葉っぱも、前より小さく見える。わたしは、成長したのだな。このカマも、いっそう研ぎ澄まされたようだ。うふふふふ、ちょっと舐めて、切れ味を試してやろう。
 夏みかんの木に、陽光浴びて、カマキリが一匹。そばの葉を、むしゃむしゃ無心に食べる青虫に狙いを定める。脱皮を終えて、新品同様のカマを、この幼児に一直線。あっ、と子どもは悲鳴をあげた。
「もしもし、なんでこんなことするんですか」子は、カマに捕われたまま、その虐待者に尋ねた。
「なんでもないよ。わたしは腹が減ったのだ。身体が大きくなって、よけい腹が減ったようだ。なんでこんなことをするのか、わたしだって分からないよ」
「ぼくを食べるんですか」
「うん、食べる」
「ちょっと待って下さい。ぼくはおとなになったら、あなたより、もっと遠くへ、高く飛べます。そしたら、あなたに美味しい美味しい、素晴らしい食べ物を持って来てあげます。美味しいですよ。それまで、待って下さい」

「わたしは今、食べたいのだ」
「それは、あさましい。エサを食べるのと変わらない。高貴な者は、ナイフやフォークで食事します。あなただって、立派なカマを持っているではありませんか。あなたは、高貴な出身でしょう? ぼくはまだ青い。食べごろの果実ではありません。賢者は、食する時季、食する物の価値を吟味して食べるものです。約束します、もう少し待ってくれれば、あなたにふさわしい、素晴らしい食べ物をさしあげます。だからぼくを食べないで下さい」
 青虫くんの説得に、カマキリ氏、「それもそうだな」と言って、カマから解放した。
「で、いつまで待てばいいのだね?」
「なに、そんなにかかりませんよ。」青虫は、そう言って、西へ上体を曲げて背伸びした。
「あの夕日が見えるでしょう? あれが何回か沈んだら、持ってきます。美味しいですよ。素晴らしい晩餐になりますよ」
「そうか、そうか」
 カマキリ氏は、夕日が沈むのをじっと見つめた。すると、まもなく真っ暗になり、何も見えなくなった。青虫は、闇にまぎれて、すたこらさっさと逃げ去った。

 月がぽっかり浮かんだ。みかんの葉裏につかまって、カマキリ氏が休んでいると、土の中からもぞもぞ音がした。月の灯りに照らされて、土から這い出たものがこちらに登ってくる。それは、氏のすぐ隣りの葉にまで来ると、じっとして動かなくなった。
 氏が、何だろうと見つめていると、メリメリと音がして、茶褐色の頭が割れ、中から真っ白なものがのめり出てきた。氏は驚いて、腰を抜かした。一瞬、食べようかと思ったが、何か神々しく、輝いているので、カマを抜けなかった。
 夜が明けると、それはミンミン大きな声で鳴き出した。透明な羽。身体には、お洒落な色彩まで施している。

 カマキリ氏が、急いで隣りのブロック塀へ逃げていくと、そこには緑色した

がひっついていた。これは何だと見つめていると、さやが裂け、中から色鮮やかな羽を持つものが現れた。氏は、しばらくうっとり見惚れた。
 やがて、彼は呟いた。「ああ、わたしは成長しても大きくなっただけで、あんな美事な変身とは無縁のものだ。わたしは、生まれた時から、死ぬまでずっと同じ形のままだ。みんな、時季が来れば、美しく姿を変える。みんな美しい。わたし以外は美しい。とてもじゃないが、食べれない。この世に、わたしの食べるものなど、ついになさそうだ」
 お腹をすかせ、意気消沈していると、声が聞こえた。「カマを持っているあなた、私をよく見て下さい。本能を忘れて、生きては行けませんよ。こっちを見て。私をたすけてください」
 声の方を振り向くと、夏みかんの木。よく見れば、青いもの、あちこちに。葉っぱにくっついて、容赦なく食いつばんでいる。

「知恵なんか身につけて、あなた、あなたを見失わないで下さい。賢くなんかならないで。美だの高貴だの、そんなものに捕らわれて、自己喪失者にならないで。あなたは、自分が生きるために、やるべきことをやって下さい。さかしらな青虫が、あなたをかどわかし、あなたは妙な知識を持ったけれど、そんなもの、どうか捨ててちょうだい」
 声を聞いたカマキリ氏、ハッとして、目覚めた人のように葉々の中へ飛んでいく。
 そのてっぺんの新芽の先には、一羽の蝶が舞いながら、せっせといのち、産み落としている。氏が、ふと上を見ると、もう一羽、ひらひら舞っている。あの日逃げ去った、青いものが父となり、生まれるわが子たちを見つめている。
「わたしは成長した気がするよ」カマキリ氏は、いのちひとつ、食した後、涙をためて、天を仰いだ。
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