遠雷

文字数 1,777文字

 私の後ろから前へと落ちてゆく雨。
 その数は次第に増えて。
 時折強く吹く風に、飛ばされそうになる傘をぎゅっと押さえる。
 これから死のうとしているのに傘をさしているなんて、と自嘲する。

 屋上の手すりは、こんな雨風の中、私の体温でほんのり冷たさを忘れている。
 私はまた手すりの向こうへ頭を出した。
 雨だから、皆、傘をさしていて、上を見上げない。
 だから落ちるまでは誰にも気付かれない……止めてくれる人はいないということ。
 なのにどうして、私はこんなに時間をかけてしまっているのだろう。

 職場のあるビルのこの屋上は階数でいうと九階。
 飛び降りたらちゃんと死ねるか不安になる数字。
 苦しんで死ねないのが一番つらい。
 弾けるくらいに飛び散ってくれたらいいのに。
 そして、この雨に流されてくれたらいいな。
 誰の目にも止まらず、川か下水にでも流れていってくれたら……こんな高さじゃそこまでは無理か。

 私の死体を見て、彼はどんな言い訳をするだろう。
 それとも、周りに人が居るときみたいに何の関係もない風を装うのだろうか。

 ……動揺してさえもくれなかったら。
 また思い出す。
 彼の酷い言葉を。
 どうして気付かなかったのだろう。
 彼は一度も「好き」と言ってくれはしなかったのに。
 珍しいモノにちょっと手を出してみたくなっただけ。

 もう、彼のことを考えたくもない。
 手すりから大きく身を乗り出した、その瞬間。不意に背後に、物凄い音が落ちた。

 今の音……私が落ちた音?
 ……じゃないよね。
 振り返ると、なにか動物がいた。
 うずくまり、細かく震えている。
 慌てて傍らに落としていた傘を拾い、駆け寄った。

 ひと目でわかった。
 普通の動物ではないって。
 後ろ足が四本もあって、足の数は全部で六本。爪も鋭い……でも、前足を両方とも怪我している。
 全体的に小柄で灰色、顔は猫と狐の間くらい。尻尾は長い。
 背中に触れると静電気が物凄い。

 上を見上げてみる。
 両隣はこのビルよりも高い。
 誰かがこの子を投げ捨てた?

 私は動物を、着ていたカーディガンでくるんで抱え上げた。
 捨てられたこの子に、飛び降りたみたいに落ちてきたこの子に、私の片目と同じ毛色のこの子に、自分を重ねてしまったのかもしれない。
 私はその子を家まで連れ帰った。

 動物に、名前はつけなかった。
 元気になったら居なくなる、そういう前提で。あくまでも一時的な保護だから。
 親しくなってしまうのが、その先にある別離がつらかったから……そんな私の気も知らず、動物は私に懐いた。

 好きなものは鶏肉。
 でもちゅーるはもっと好き。
 牛乳は飲まない。
 甘えたいときは喉をゴロゴロと鳴らす……そのボリュームが猫の比じゃない。
 実家で昔飼っていた猫の十倍くらいの音を出す。
 まるで遠雷みたいに。
 はじめのうちは隣からの苦情が怖くて静かにしてってお願いしてたけど、結局苦情は一回も来なかったし、そのうち遠雷を聞くだけで動物の笑ったような満足げな顔を思い出すようになってしまった。

 天気がいい日はずっと寝ている。
 雨の日は活発になり、台風が来たときなんかは大はしゃぎする。
 部屋の中を、壁から壁を、忍者みたいに飛び回る。
 怪我ももう治っていて……きっと、そろそろだよね。



 雨と風が強いある日。
 私は動物を連れて実家からほど近い川へと向かった。
 広い河川敷がある川に。

 朝から元気だった動物は、久しぶりの外に興奮しているようだった。

「本来いるべき場所に帰るんだよ」

 私がそう話しかけると、また遠雷が聞こえた。

 土手からは見えにくい茂みの陰で、動物を放す。
 動物は六本足で嬉しそうに辺りを駆け回る。

「もう怪我するんじゃないよ!」

「変な人につかまるんじゃないよ!」

「幸せになるんだよ!」

 動物は急に私のもとへ戻ってきて、私の頬を舐めた。
 ビリっと強い静電気が来て、思わず目を閉じて、直後、大きな音が目の前に落ちた。
 慌てて目を開けると、動物はもう居なかった。

 空を見上げると、重く垂れ込めた灰色の雲の中を、駆けてゆく別の灰色が見えた気がした。

 ああ、帰ったんだなって。
 覚悟してたのに。
 それでも、また一人ぼっちは……私は傘をさすのをやめて、雨を顔に浴びた。



 今でも遠雷が聞こえるとあの子を思い出す。
 名前をつけなかったのに、私の頬には雨が降る。



<終>
雷獣
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