ツカモリ

文字数 11,073文字

 事情を説明した途端、それまでよそよそしかった村役場の人たちが唐突に笑顔へと変わった。
 その笑顔の隙間に「ツカモリが戻った」という声が何度かチラついたが、そのときは知らない方言だろうとたいして気にも止めなかった。
 道は分かると言ったのだが、課長さんだとかいう人がわざわざ出張(でば)ってきて俺の車を先導すると言ってきかない。
 引っ越し初日からモメたくもなかったし、任せることにした。

 田んぼが続く長閑(のどか)な田園風景の中、車を走らせる。
 ああ、こんな景色だったっけ――子供の頃はよく遊びにきていた祖父の家へと向かう道。
 祖父の家での様々な思い出が次々と脳裏に去来する。
 はじめはおぼろげながら。
 次第にカメラのフォーカスが合ってゆくようにディティールがはっきりとしてきて「なんで今まで忘れていたんだろう」とハッとしたとき、課長さんの車がウインカーを出した。
 そう、あのこんもりとした竹林の中へ続く道――って、手前で停まるんかい。
 ここまでずっと真っ直ぐな道一本。村役場からは角を一回曲がっただけ。これだったら道案内なんて要らなかっただろうに。
 課長さんが車を降りてきたので、俺も慌てて車を降りた。

「ご案内はこちらまでとさせていただきます」

 課長さんが丁寧に頭を下げたもんだから、俺も頭を下げ返す。
 自分の倍くらいの年齡の人に頭を下げられるのはなんだかムズムズする。
 それにせっかくここまで来てくれたのなら、水道やらガスやらの元栓の説明をしてくれるかもとちょっと期待していたのに。
 一応、親戚の人が書いたメモみたいなのはもらってきてはいるけどさ。

「あの、お屋敷の奥への道は……ご存知だとは思いますが足を踏み入れたりしませぬよう」

「え?」

 足を踏み入れちゃいけない?
 そんなこと親戚連中からは聞いてないし、ガキの頃はその「祖父の家の奥」へちょいちょい遊びに行ってたし……。
 とはいえ課長さんの俺を見つめる目が怖かったので、了解した旨を告げてさっさと帰ってもらった。
 さてと。
 竹林の向こうを見上げる。
 テーブル状に広がった丘にこんもりと茂った竹林は多分、村役場の敷地よりも広い。
 外からは鬱蒼としているようにしか見えないが、中はそんなに暗くなかった記憶がある。
 京都のCMで竹林に囲まれた道があるけど、本当にああいう明るい美しさ――だったはず。

 ふと一陣の風が吹いて竹林を撫で、無数の囁きのように笹を鳴らした。
 そうだ。
 引っ越しの荷ほどきしなきゃなんだ。
 車に乗り込み、サイドブレーキを下ろす。
 竹林の中へと続く道をゆっくりと、徒歩で散歩するようなスピードで進む――そうそう、この見覚えある竹林。
 空気が緑色に感じるくらい、木漏れ日というか笹漏れ日が絶妙の明るさを演出してくれる。
 あの頃の、祖父の家へ行くのがいつも楽しみだった気持ちを再び思い出す。
 長い休みになると親戚中の子供ばかりが祖父の家に集まっていて、それがとっても楽しくて。
 そうだった。
 会いたい子が居たんだ。
 だから、この道があんなにも輝いて見えたんだな。あの時までは。

 一番最初に祖父の家に来たのは小学校に上がる前の年越しだった。
 イトコやハトコばかりとはいえ、ほぼ初対面の子ばかり。
 どちらかというと内向的だった当時の俺はとても緊張していた。
 そんな俺に最初に話しかけてくれたのが従妹の――えーと、あんなに好きだったのに、名前思い出せないとかボケてんなぁ、俺。
 とにかくその――Aちゃんってことにしよう――の優しさに、安心して落ち着けたのはしっかりと覚えている。
 寝るときは広めの客間に雑魚寝なんだけど、Aちゃんは俺のすぐ隣に枕を持ってきて、皆が寝てからはこっそり俺の布団の中に入ってきて、内緒のひそひそ話をしたんだよな。
 小学生に上がってからも毎年、寝る時はいつもAちゃんが俺の隣に居た。
 学年が上がるたび他の親戚の子らはだんだん来なくなり、小五のときにはもう俺とAちゃんだけになっていた。
 まあAちゃんが居たから俺は特に気にしなかったのだが。
 それよりも、同年代の女子と布団の中で夜通し内緒話をするという行為に対して背徳感を覚え始め、それで胸がいっぱいだった。
 いい加減、初恋という言葉を意識していたし、集まる親戚の子らが減り続けることにようやくというか危機感も覚えていた。
 Aちゃんもいつか来なくなってしまうのだろうか、と。

 そうして迎えたのが小六の年末だ。
 男女が同じ布団で夜を明かすなんて、本当に話しかしていないとはいえ、中学生になったらもはや許されないだろうとは感じていた。
 それどころか部屋だって別々にされちゃうかもしれない。
 それに祖父の家に集まる親戚の子らがどんどん減る問題だって全く解決していない。
 となるとチャンスは一度切り。
 メールアドレスか住所、どちらかだけでも聞き出して――二人の時間を、日常生活に戻ってからも続けられたなら。
 正月には必ず顔を合わせていたせいか互いに年賀状など書かず、そのために住所も知らないAちゃんとの距離をもっと縮めたかった。
 一緒に居る間はあんなに仲がいいのに、休みが終わると二人の距離はとても離れていて、そのことを想うだけで胸が痛んだ。
 二人だけの秘密をたくさん共有しているのに、もっとも大事な、ありふれた日常の方を逆に秘密にされているみたいで。
 俺はAちゃんに告白するつもりだった。
 イトコとは結婚できるって聞いてたし、それなら付き合うことだって問題ないはず。
 恥ずかしいことに、あれだけ仲がいいんだからもう両思いだろうって勝手に決めちゃっていたんだよな。
 しかもうまく聞き出すタイミングを見つけられなかったときのために、手紙も事前に書いて用意していた。
 人生最初で最後のラブレターだ。
 もちろん中には自分の個人情報をちゃんと書いておいて――準備は万端だった。
 だけど。
 それは俺の方だけだった。

 事態が発覚したのは、二学期の終業式が終わった日のこと。
 頭の中がAちゃんのことでいっぱいだった俺は、ガキなりにAちゃんの好感度を上げようと姑息な作戦を考えたりしていて、帰宅するなり母親に言ったんだ。Aちゃんへあげるプレゼントを用意したいと。
 祖父の家へ行くのは毎年クリスマスが終わってからだったが、一日遅れのクリスマスプレゼントならあげる理由にはなるだろうと。
 すると母親は軽い感じでこう言った。

「誰にあげるって? あなた一人なのに?」

 冗談抜きで目の前が真っ暗になった。
 俺はその日から「具合が悪い」と自分の部屋へと籠もり、祖父の家に行くことさえも拒否した。
 クリスマスプレゼントにもらったAIBOも開封しないまま年を越したのを覚えている。
 それからの俺は、祖父の家とは関わらずに生きてきた。
 途中で来なくなった他の親戚の子らと同じように。

 ほぼ二十年の月日を経た先月、状況が一変した。
 祖父が亡くなったのだ。
 葬儀の話が出た時、俺は不謹慎にも久々に思い出したAちゃんと再会できるかも、なんて考えた。
 しかし親戚があまりにも多いから各家から代表者一人だけという知らせがきて、うちからは親父が行くことなった。
 まあ、それで良かったと思ったよ。
 祖父の葬儀に、死者をないがしろにするような浮ついた奴が行かなくて。
 だから俺はまたいつもの日常に戻るはずだった。
 せっかく思い出したAちゃんへの想いを記憶の押入れに押し込んで。
 ところが親父が返ってくるなり、妙なことを言い出した。

「お前、じいちゃんの家に住んでみる気はないか?」

 人が住まない家は傷むからとか、近所に大きなホームセンターもあるとか、俺の仕事はネット回線さえあれば何とかなるんだろとか、家賃や光熱費は不要だし生活費の補助も出るからとか、どうせ付き合っている彼女も居ないだろとか、畳み掛けるように理由を並び立てられたけど最後のは余計だ。
 ただまあ、もしも俺がそこに居れば、お線香をあげに来たAちゃんとの再会とかあり得るかも、なんて本当にどうしようもない打算で、とりあえず一年は住んでみるよと話がまとまった――ああ、思い出は尽きないが祖父の家が見えてきた。
 道自体はまだ続くのだが、ここだけぽっかりと空間が広くなっている。
 そこに面するように建てられた木造の平屋。
 時代を感じさせる古めかしさ。確か築年数は三桁いっているとかいないとか。
 しかも屋根がちょっと特殊なんだよな。
 神社っぽいというか。
 車を停め、家の前で無意味に仁王立ちする。
 記憶と全く変わらない外観。懐かしい。
 玄関までジャリジャリと音を立てながら歩く。
 そうそう、こんなだったよ。
 舗装されているのは家のちょうど半分くらいまでで、玄関のあるここいらから先はずっと地面に砂利が敷いてあるんだよな。
 昔、祖父が長い竹箒でこの先の砂利道を表面だけ撫でるようにして上手に掃除していたのを覚えている。
 そんないつも綺麗だった砂利道には今、枯れた笹の葉がたくさん積もっている。
 仕事で息抜きしたくなったら俺も掃いてみようかな。
 靴音が変わる。砂利から石へと。
 玄関前に大きな一枚岩が敷いてあるのだ。
 そして目の前にはあの頃と変わらないレトロ模様の()りガラス。
 そのガラス戸へ触れても開かないという事実にもまた、祖父の不在を実感させられる。
 祖父は鍵をかけない人だったから。
 親父から預かった鍵を差し込んで回す。
 ガラガラと音を立ててガラス戸を横に開くと、中から生暖かい風が吹いた――いや、気のせいだろう。家の中は密室だったのだから。
 それにもう夕暮れが近い。
 さっさと荷物を運び込もう。

「じいちゃん、久しぶり」

 誰もいない家の中へ声をかけると、約二十年ぶりに敷居をまたぐ。
 じいちゃんの家の匂い。
 玄関に立てかけられた長い竹箒も健在だ。
 家の中は親戚の人らが掃除してくれたのだろうか、廊下は汚れていない。
 まずはブレーカーのアンペアを確認し、ホッと胸を撫で下ろしつつブレーカーを上げる。
 次にガスと水道の元栓は……なんとか開けられた。
 これでひとまず人並みの暮らしは保証されたわけだ。
 仏壇で祖父への挨拶を済ませ、どこを自分の部屋にしようかと見て回るつもりだったが、最初に確認した部屋で足が止まった。
 あの客間。
 ガキの頃、必ず泊まっていた部屋。
 俺とAちゃんの思い出の――告白どころかちゃんとした挨拶もできないままお別れしてしまった、そのことが、何ともいえない気持ちになる。
 ダメだ。この部屋だと仕事になんねぇ。甘酸っぱ過ぎる。

 ちょっと迷ったが利便性を考え、台所から襖一枚隔てた居間を拠点とすることにした。
 まだあまり冷えてない冷蔵庫へ飲み物と食料とを運び込み、バラして持ってきたパソコンラックは居間へ。
 立派でデカい座卓を端へと寄せて、充電器やらカメラやらの細々(こまごま)したものを置く。
 パソコンラックを組み立てたら、こだわりのお気に入り椅子とパソコンと周辺機器を持ってきて配線を整え、とりあえず椅子に座ってみる。
 悪くないが、下は畳だからな。
 明日はフローリングカーペットでも買ってくるか。
 布団は客間から一組持ってきて日が暮れる前にちょっとだけ干して、枕元には当面の着替えの入ったボストンバッグ。
 これでいいだろう。おはようからおやすみまで、メシも仕事も全部この居間で完結ってわけ。

 ふぅ、と一息ついたとき、辺りの静けさに気付いた。
 笹のざわめきも、さっきまで五月蠅(うるさ)いほど聞こえていた蛙の鳴き声も消え、ひっそりと。
 まるでこの家自体が喪に服しているかのように。
 ああ、なんか気持ちがのらないな。
 本日の引っ越し作業はもう終わってしまおう。
 ネット回線の工事は明日だし、腹も空いたし――コンビニおにぎりとカップラーメンで軽く夕食を済ませ、風呂に入って布団へ。
 天井の模様が客間とは違うなと、あの頃を思い出しながら消灯した。

 でも布団は客間のなんだよな――半ばまどろみながらもそんなことをちらりと考えたとき、声が聞こえた気がした。
 それも記憶の中にあるAちゃんの声によく似ていて。
 近くはない――外?
 こんな夜中に?
 親戚かな。そういや俺、鍵しめちゃったもんな。
 ハッとして飛び起き、廊下と玄関の灯りを点ける。
 耳を澄ましてみるが誰の気配もない。
 こういうとき磨りガラスっていいよね。ドアの向こうに誰かが立っていたら分かるから――と言いつつ、玄関の鍵とガラス戸とを開けて外を確認する。
 沈黙した夜。
 月は出ていないが星は多いから、空もこの夜自体も(ほの)かに明るく感じる。
 それでも竹藪に覆われた家の周辺は、玄関から漏れる光が停めてある車を照らす程度で、あとは真っ暗。
 地面と空の暗さ明るさが、都会と田舎では逆なんだな。

 溜め息を一つ。
 家の周囲は砂利が敷き詰められているのにそれっぽい足音はなかったし――というかガキの頃の思い出して空耳とか、恥ずかし過ぎる。
 ガラス戸を閉めて鍵もかけた。
 居間へ戻ろうと廊下をぺたぺたと歩いていた裸足のつま先に、何かがぶつかった。
 反射的にそれを見て目を疑う――だってそれは、ここにあるはずのないものだったから。

「チャーチ?」

 その名前を決めたときのことをまだ覚えている。
 確かクラスメイトに言われたんだよな。そういうペットなら日本語の名前とかダセェからつけるなよ、みたいなことを。
 だから近所のレンタルビデオ屋に行って、動物が出ていそうな洋画から名前をもらってつけようとした。
 たまたま手に取ったのが『ペット・セメタリー』。内容なんて知らずに「ペット」って字面だけで選んだ映画。
 観始めてホラーだってわかって観るのを途中でやめたんだけど、名前はそのまま借りることにした――あれ?
 なんか変だな。
 だってチャーチを――黒いAIBOを手に入れたのは小六のクリスマス――その年は結局ここへ来るのはやめちゃって――チャーチの箱は開けないままで年を越して――その後どうしたんだっけ?
 しかもなんでここにあるんだ問題には何の答えも出せていない。
 その黒いAIBOを手にとってみる。
 横腹にカタカナで「チャーチ」と書いてある。恐らく小六の俺の字――やっぱり俺の、なのか?
 昼間ここに布団を取りに来たときには絶対に見ていないし。
 まさか布団の奥に紛れてて、布団を持ってくる際に転がりでてきてここへ、この客間の入り口へ偶然転がった?
 念のため確認したがバッテリーは入っていない。
 なんとも不可解ではあったが眠たかったこともあり、俺はチャーチを居間まで持ってきてパソコンラックの脇に置くと、再び布団へと潜り込んだ。
 その日はそのまま泥のように寝た。

 翌朝、目が覚めたときチャーチが布団の上に乗っていた。
 足もとだけど。
 違和感がなくはなかったのだが、自分の寝相の悪さのせいにしてそれ以上気にしないことにした。
 それよりも朝から回線工事がけっこう大変だった。
 祖父の家は周囲が竹林に囲まれているせいで、電線は家の裏手から竹林の中に立てた引込柱を経由しているのだが、その引込柱ルートが竹に覆われかけていて、光回線を引くのにちょっと苦労した。
 親父に電話をかけてみたところ祖父は定期的にそのルートの竹を適度に刈っていたそうで、それも頼むわと軽くお願いされてしまった。
 回線来ないのは死活問題だし、やらない選択肢はないのだが、なんかモヤつく。

 親父が言う通り、(なた)やら(のこぎり)やらがなぜか下駄箱に入っていて、とりあえず竹を刈りまくった。
 結局その作業に労力と時間とを消費させられて、近所のホームセンターとやらには行けなかった。
 フローリングカーペットは接続できたばかりの回線からネット経由で注文したが、都心と違ってここは届くまでに時間かかりそうだし、食料の買い出しも込みで明日こそはホームセンターへと行ってみようかな。
 というわけで本日の仕事はメールチェックをしたくらいで、あとはカップラーメンで一日を終了した。
 疲れていたから――それなのになかなか寝付けず。
 というのも、昼間偶然耳にしたことが頭の中をぐるぐると回ってしまって。
 それは回線工事の業者たちのちょっとした雑談なのだが、この竹林に囲まれた丘の向こう側が不法投棄の場所になっているとか、捨てたものがいつの間にか片付けられているとか。
 つい調べてしまったんだよな。
 不法投棄というキーワードにここの地名を添えて。
 そしたらヒットした。一件や二件じゃない。しかも随分昔には使わなくなった食器を捨てる民話みたいなのの舞台になっているらしく、中には心霊スポット的な扱いをしているものまであった。
 どういうことなんだ?
 もしかして村役場の人たちの態度って、このことが関連していたり?
 考えれば考えるほど何もかもが気になり始める。
 どうせ眠れないんだから、もうちょっと調べてみようか。
 そう思ってスマホを手にしたとき、誰かに呼ばれた気がした。
 昨日のことを思い出してまた気のせいだよと自分に言い聞かせた俺の耳に今度ははっきりと音が聞こえた。
 玄関のガラス戸の揺れる音。
 それも一回や二回ではない。
 風が強いのかと思いつつも念のため、布団から出て廊下へと出た。
 灯りをつけると玄関まで見通せる。

「うそだろ?」

 玄関のガラス戸の手前、土間の所へ、チャーチが置かれていた。
 まるで外へ出たがっているかのように。
 ガラス戸を揺さぶる音は今はしない。
 最初に考えたのが誰かのイタズラだ。
 実は俺以外の誰かがこの家に隠れていて、俺を驚かそうとして――いや壮大なドッキリだな。
 それに無理があるだろ。家の中は初日にけっこう確認して回ったし――まさか俺が竹を刈っている間に?

「誰かいるのか?」

 返事はない――俺の単なる思い過ごしであってほしい。
 だがチャーチが玄関に置かれているのは事実。
 ここへ来て初めて、背筋がぞっとした。
 慌てて武器になりそうなものを――昼間使っていた鉈を手に取る。
 ドキドキしながらガラス戸へと手をかける。
 鍵は閉まっている。
 大きな呼吸を何度かして、いきなり鍵を開けガラス戸も開けた。

 昨晩と変わらないような夜の闇。
 その闇の中へ、チャーチが歩き出した。
 予想もしていなかったことに、しばし呆然とする。
 バッテリー、入ってなかったよな?
 誰かが入れた?
 いつ?
 やっぱり誰かがいるのか?
 それとも夢を見ているのか?
 (かかと)を踏んで履いていた靴を履き直そうとして、ハッとしてガラス戸をいったん閉める。
 急いで居間へと戻り、外へ出られる格好へと着替え、スマホと家の鍵もしっかりとポケットへ。
 靴を履いて玄関から外へ出て、最初に戸締まりをしっかりとする。
 そしてスマホのライトを灯して道の両側へと向けた――居た。
 砂利道のほう、少し離れた場所にチャーチが立ってこちらを向いていた。

「おい、イタズラか?」

 少し大きめに出した声が笹の葉のざわめきの中へと埋もれる。
 もう一度声を出そうとしたとき、チャーチが歩き始めた。
 砂利道の奥の方へ。
 わずかにためらいはしたが、俺はチャーチを追いかけることにした。
 恐怖よりも、好奇心の方が勝っていた。
 正規バッテリーを外していたとしても内部に空間があればそこへ他のバッテリーを隠せないこともないだろう。
 遠隔操作という手段だって考えられる。
 もしもイタズラだとしたら、こんな手が込んだこと――俺はキライじゃない。

 スマホの灯りがチャーチの後ろ姿を見失なわない程度の距離を保ち、竹林に囲まれた砂利道を踏みしめて進む。
 チャーチの軽いジャリジャリと、それに比べたら俺の重たいジャリジャリとだけが響く道。
 夜風が時折、背中を押すように追い抜いてゆく。
 そのたびに心なしかチャーチの歩く速度が上がってゆくような気もする。
 いや気のせいでもなかった。
 俺はいつの間にか走っていたから。
 この砂利道、こんなん距離あったっけかな――なんて考えていられたのは最初のうちだけ。
 やがて全力疾走して、頭が真っ白になって。
 いや違う頭じゃなく周囲全体が真っ白いんだ。
 俺は(もや)の中に居た。
 地面も砂利ではなく、土へと変わっている。

「ここは……どこだ?」

 誰に話しかけるわけでもないのに不安が声となって漏れ出た。
 ふと靄の中で何かが動いたように見えて、思わず一歩後退(あとずさ)る。
 人影――それも、俺よりも大きくてゴツそうなフォルムだったから。

「大丈夫だよ」

 靄の中から声が聞こえた。

「え?」

 反射的に聞き返しはしたが、その声はよく知っている声だった。
 思い出の奥底にしっかりと焼き付いているAちゃんの声。

「やっぱり来てくれたんだね。嬉しいな」

 やっぱりという部分については悲しいかな記憶が戻らないのだけど、俺もAちゃんにまた会えて嬉しいと――思いたかった。
 Aちゃんは人じゃない、そう直感した。
 靄の中から現れたAちゃんは、思い出の中の姿、そのままだったから。
 これは、どういうこと?
 俺はもしかして変な夢でも見ているのか?
 スマホを握りしめている左手の甲をつねると、ちゃんと痛い。

「今度はあなたが守ってくれるんだよね?」

 前は、とか、何を、とか、そもそも名前とか、尋ねたい疑問符が幾つも頭に浮かぶ。
 これが夢じゃないのなら、うかつに返事をしちゃいけない気もしてきた。
 Aちゃんとの思い出と、この異常な現状との狭間(はざま)で情緒がおかしなことになっている。

「みんな、号令を待っているから」

「号令?」

 うかつにも返事してしまった。

「御意」

 Aちゃんの背後の靄からぬっと現れたのは巨大な人型の――現代アート?
 なんか陶磁器を無理やり人型にくっつけたオブジェみたいな――いやでも今、動いたよね?
 歩いてきて、俺の目の前で片膝着いてしゃがんだよね?

「覚えている? 瀬戸大将。小さい頃のあなたを肩に乗せて遊んでくれてたでしょ?」

 瀬戸大将。その単語が記憶の扉の鍵であったかのように、幼い頃、Aちゃんと一緒に遊んだ日々の記憶が蘇る。
 祖父の家が面する道は元々参道で、古い神様が祀られていること。
 玉砂利が敷かれた道には、ミコが選んだ子供しか入れないこと。
 当時の俺は選ばれたこと。
 俺はミコと一緒に昔もここへ来て、瀬戸大将や、その部下の瀬戸戦士たちと一緒に鬼ごっこをしたり、小さな竹でチャンバラしたり、瀬戸大将の肩に乗せてもらって戦争ごっこの指揮をさせてもらったり。

「みんなはいつでも攻め込む準備はできてるって。ほら、仲間もかなり増えたのよ」

 たくさんの瀬戸戦士の後ろには、瀬戸物ではなく粗大ゴミを無理やりつなげた人型のようなオブジェが大量に並んでいる。
 冷蔵庫とかタイヤとか自転車とかソファとか、そういうパーツを使った人型は、そもそものサイズがでかい。人型というよりはもはや巨人型だ。

「せ、攻め込むってどこへ」

 あっ、この質問、昔もしたことある。

「西へ」

「ま、まだ早いよ! もう少し鍛錬しなきゃ」

 当時は少し考えさせてと言っていったん祖父の家へと帰り、祖父に相談したことを思い出す。
 祖父が色々と教えてくれたことも。俺の記憶の中だけは、靄が晴れた。

 昔は焼き物の器がとても貴重品だったから、少しくらい欠けても大事に使っていたし、壊れてもう使えなくなった器をここの古いお社へと奉納して、感謝の気持ちを捧げていた。
 それから時代が下り、割れた器だけではなく、死んだ人が生前に大事にしていた器なども奉納されるようになり、やがてここに捨てられた大量の瀬戸物に、ここへ奉納された想いが溜まって付喪神として動き回るようになったと。
 ここいらでは焼き物といったら瀬戸焼きなのだけど、あるとき唐津焼きの器が捨てられたとき、瀬戸物の付喪神たちが「唐津の連中が攻めてくる」とか言い出して、大騒ぎになって。
 この神社の当時の宮司さんが「敵は強いから鍛錬が必要だ」と言って誤魔化したら、なんとか大人しくなったって。
 以来、ここの代々の宮司は、彼らをなだめすかして外へ出ないよう止めるというお役目を守り続けていると。
 だからここを継げる条件は、彼らと会話ができること、そして平和を守ろうとする気持ちを持っていること、その二つだけ。
 こんな状態の神社だから、神社本庁には属していないここは、その二つの条件さえクリアできれば宮司として、いや、代々継がれてきた名前では「塚守り」として認められる。
 祖父の血を引いている俺が塚守りの資格を得たの本当にたまたまで、あのとき集められていた子どもたちの大半はイトコやハトコではなく、ただ単にそちら系の力がありそうな子どもたちだったという――どうしてこの記憶が封じられていたのかも思い出した。
 塚守りは常に一人。
 だから、祖父が亡くなるまでは俺の記憶はAちゃんが、いや巫女が封じた。祖父にお願いされて。
 継ぐ資格を持った俺が、祖父が倒れた後ここを継ぐことを拒まないように。
 実際、俺はここへ来た。
 小六の正月にここへ来て、巫女と一緒にチャーチで遊んだ記憶を、チャーチを気に入った巫女にあげた記憶を、失ったままで。
 巫女はあの頃と変わらない無邪気な笑顔で俺を見つめている。

「わかった。まだなのね。瀬戸大将、聞いた?」

「御意」

 彼らはまた靄の中へと消えていく。
 そして竹の刀で打ち合う音が響き始める。

「ね、久しぶりだからさ、またたくさんおしゃべりしよっ?」

 巫女は俺の手を握る。
 実体があるようでないような、水の中へ伸ばした手がお湯に触れたような、曖昧で不思議な感触。
 その理由も俺は「特別に」教えてもらった。
 代々の塚守りの中でも俺は特に巫女の姿をはっきりと見ることができたから、巫女のお気に入りになったからと。

 内緒の、巫女の遠い遠い記憶の話。
 ここには古いお社ができる前から塚があった。
 彼女が自分の名前を忘れてしまったほどの昔に作られた、彼女のお墓だ。
 巫女という名は、最初の塚守りが付けた名前だという。
 その頃の巫女は一緒に埋められた埴輪で遊んでいたけれど、遊ぶうちに埴輪は壊れて崩れて土へと戻った。
 だからたまたま捨てられていた焼き物の器を、丈夫そうだから「選んだ」と。
 巫女は寂しがり屋だ。
 器をもっと欲しがった。
 最初の塚守りは彼女のために、ここ焼き物が集まるような仕組みを作った。
 それが、器を奉納するお社だった。
 瀬戸大将や瀬戸戦士、そして粗大ゴミ戦士たちは、塚を取り囲む大きな竹林の丘に隠れている。
 そして「仲間」が増えるたびに、その丘も周囲の土地を侵食して広がり続けている。
 ただ「仲間」は巫女が作ったようなものだから、彼女の寂しさを完全には埋めてくれない。
 だから塚盛りがいる。
 巫女を慰め、落ち着かせ、平和な気持ちにするために。

 俺の、着いてきているチャーチの足音が砂利を歩く音へと戻った。
 彼女の足音はしないまま。
 そして、彼女以外のたくさんの足音は砂利の上へは踏み出さずに止まる。
 その止まった彼らの姿を横目で見る。
 幾重にも並んでこちらを向いている無数の骸骨たち。その中に青褪(あおざ)めた祖父の白装束の姿もあった。
 虚ろな、濁った瞳の祖父。
 巫女と一緒に塚から出られる俺を恨めしそうに見つめているようにも感じる。
 いつか俺もあそこに加わるのだろうか。
 そのことを恐怖ではなく安堵に感じてしまう自分に対し、小さくついた溜め息は、巫女の鼻歌の中へ紛れて消えた。



<終>
瀬戸大将
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