文字数 4,265文字

 じいちゃんの家のニオイだ。
 玄関に積んだ段ボールを奥へと運びながら、幼い頃はよく嗅いでいたニオイを再確認する。本当に久しぶり。
 古い家だからか一歩踏み出す度に床板が軽く軋み、呻きにも似たその音は薄暗い廊下の奥へと呑まれてゆく。
 どの部屋を使ってもいいとは言われているが、なんとなく玄関から一番近い客間へと荷物を運び込む。

「腹、へったな」

 思わず声に出していまい、苦笑する。母の予言が当たったからだ。そうだな。言っても出てこない。今日からは自分で作らないといけないんだ。
 台所へと向かう。冷蔵庫を開け、その暗さに一瞬たじろぐ……コンセントを抜いてあるのか。じいちゃんが入院してからもう三週間だもんな。

 伯母さんがこの家にちょいちょい顔を出していたおかげで、倒れていたじいちゃんにすぐに気付けたし、手術も成功したけれど、それでもじいちゃんは人工呼吸器を外せない状況が続いている。

 カチカチカチ……ボッ。

 ガスは来ているし、水道も大丈夫。やかんに水を入れて湯を沸かす。カップ麺を買ってきておいて良かった……いや、毎日じゃないから。今日はほら、引っ越し当日だから。家を出る前に告げられていたまた別の予言に、心の中で言い訳する。

 バスン!

 どこかで大きな音がした。なんだ今の。箪笥でも倒れたのか?
 台所と居間、それから仏間は一続きになっていて、特に変化もない。となると廊下……の奥?

 いったんコンロの火を止め、廊下へと出た。奥にあるのは、確かじいちゃんの部屋。耳を澄ませながら廊下を進むと、自分の出す足音が、わずかばかり先から鳴っているような気がしてくる。まるで奥へと誘うような……いけないいけない。変に弱気になっちゃってるな。少なくともあと三年、学生のうちはここに住むつもりなんだから。

 じいちゃんの家と実家とでは、大学からの距離はドア・トゥ・ドアで20分ほどしか変わらない。それでも自由に友達を呼べる環境は貴重なんだ。彼女が出来た時だって……よし、元気でてきた。気を取り直して廊下を奥へと進もう。

 とは言っても、気分はアゲたが廊下は薄暗いまま。天井の蛍光灯が古いのかな。次のバイト代が入ったら取替えようかな。そんなことを考えているうちに廊下の突き当たりまで着く。
 突き当たりは何もない壁で、脚立が立てかけてある。じいちゃんも蛍光灯取り換えるつもりだったんだな。

 突き当たりを正面にして両側に古びた木製のドア、鈍い金色のドアノブは真鍮製。右側がじいちゃんの部屋で、左は……これ、位置的には多分居間につながるっぽいけど、居間の側は……確か背の高い箪笥で塞いじゃってたような。

 左のドアノブに手をかけて軽く回す。ドアノブ自体は回るが、扉は数ミリ開くかどうかってとこ。あー、こりゃ箪笥の裏で間違いないな。
 となるともう、じいちゃんの部屋しかないか。この脚立が倒れてたとかなら納得できるくらいの大きな音だった。じいちゃんの部屋から?

 深呼吸をゆっくりと一回。
 きっと、たいしたことないはずさ……意を決してから、ドアノブを回した。

 昼間だというのに、部屋の中は本当に暗い。窓ないのかな。あと、灯りのスイッチは……指先でドア横の壁をまさぐって……これかな。パッと点いたその瞬間、自分でも驚くくらいの大声が出た。
 灯りがついてもまだ尚薄暗い部屋の真ん中に脚があったから。部屋の中央、天井を突き破って一本の脚がぶら下がっていたのだ。

 え、なにこれ。

 じいちゃんの家は平屋で二階がない。天井裏に置いてあったオブジェか何か? いや、天井裏にそんなもの置くか? そもそも天井裏にそんなスペースあるのか? しかもこの脚、やけにリアルだぞ……え、天井の上に誰か居て、天井を踏み抜いちゃったとか? それどういう状況? 泥棒? でも、生足で裸足で……思考が現実に追いつかない。

「足、洗え!」

 なんて?

「足、洗え!」

 部屋の中に声が響く。じいちゃんの声じゃない……口調こそ乱暴なものの、女性の声。しかも、足を洗えって言ってる?

「足、洗え!」

 その声には妙に色気があって、おかげで恐怖がどこかへ飛んだ。
 落ち着いて脚を今一度見つめると、女性の左脚だろうか、ほぼ脚の付け根までがまるまる一本、とにかくとんでもない美脚。ムダ毛など一本もなく真っ白いその肌は淡い光を纏っているのかと思うほど神々しく、近くで見上げると、きめ細かさがものすごい。というか俺はいつの間に、脚にこんなに近づいちゃってるんだ。ジャンプしたら脚のつま先に頭がつくんじゃないかってくらいの距離。

「足、洗え!」

 頭上から降ってくるこの艶のある声は、間違いなくこの脚の持ち主からだろう。ああ、仄かにいい香りがする。甘いが、くどくはない香り。この香りもきっと脚の……もっと近くで確かめたくて、せめてもと手を伸ばし、脚のつま先の甲にひたりと触れ、背筋が震えるほどの衝撃を受けた。自分の手のひらが吸い付いたのだ……そう、錯覚するほど、俺の手のひらは悦んでいる。
 指を何本か浮かせて、再び触れる。手を放すことに不安を覚えるほどの充足感と安心感。自分の皮膚呼吸は、この脚の香りだけで生存しているとさえ思えるほど。

「足、洗え!」

 先ほどまでよりも大きな声に、我に返る。そうだよ。俺は何やってんだ。ボーっとしちゃって。こんなにも求めてもらえているのに。慌てて台所へと戻り、沸かしかけだったあのやかんを持って戻ってきた。

 じいちゃんの部屋に置いてあるタライにやかんの中身を移す。指先で触れると、ちょうどよいぬるま湯。タライの横にあった日本手拭いをタライの湯に浸してから、絞って水気をきり、ほんわりと温まったその手拭いで、そっとつま先に触れた。

 脚は、親指と人差し指とをなまめかしくすり合わせる。その仕草が嬉しがっているように感じられて、俺も嬉しくなる。
 指と指との間を一つずつ、丁寧に拭いて行く。
 それから指も一つずつ、優しく包み込むように拭き、まずは足の甲、それから足の裏……いやしかし本当に綺麗な脚。

「ああ、そうか」

 俺は廊下の突き当たりから脚立を持ってきた。じいちゃんの部屋だけは不自然に天井が高く、俺でさえ背伸びして両手を伸ばしても、脚のふくらはぎまで届くか届かないか……俺より背が低いじいちゃんは脚立がなければとてもじゃないけれど拭けやしなかっただろう。きっとこの脚を拭くために使っていたんだ。

 脚立に登ると、脚と俺の顔との距離があまりにも近すぎて気恥ずかしさを覚えてしまう。しかもこの甘い香り。ヤバいな……意識をしっかりと持ち、出来る限りの優しさで、慈しむように脚を拭く。この脚に感謝されたい、そんな想いで。

 くるぶしから足首、続けてふくらはぎを拭こうとして手を止め、深呼吸する。
 脚を拭くだけでこんなにもドキドキするものだろうか。
 脚立を下りてタライで手拭いを濯ぎ、固めに絞ると、ほんのり立ち上る湯気が届くよりも早く脚立を登り、脚へと近づいた。ふくらはぎの片側に俺の左手を添え、手のひらに伝わる柔らかさと弾力とに心を乱されないよう息を止め、手拭いを持った右手でふくらはぎの描くラインをなぞる。

 ああ、心が落ち着く。
 俺は、この脚を拭くために生まれて来たんじゃないかと思うほど。

 手拭いを裏返しつつ左手に持ち替え、今度は右手でふくらはぎに触れる。それだけで、心が泡立つほど踊る。

 脚立を降り、脚立の位置を変えたあと、また手拭いを濯ぎ、脚立を登る。
 今度は膝こぞう……今、眼前にあるこの膝こぞうは、生まれてこのかた見たどの膝こぞうよりも気高く魅惑的だ。仔猫の頭を撫でるように優しく拭うと、脚はぴくんと動いた。

 幸せだ。

 ああ、こんなに幸せでいいのだろうか……奥歯をぎゅっと噛みしめる。

 落ち着け自分。
 俺は今よりももっと幸せになるんだ。
 だって、少しだけ見上げると、そこには細すぎず太すぎず、俺にとっての理想の太股が……その時俺は気付いた。太股が、じわりと汗ばんでいることに。

 太股まで拭いちゃって……いいんだよね?

 初対面の脚の……いくら向こうがプリーズしているとはいえ、太股に触れるってのは勇気がいる。今更ながら緊張してくる。
 でもさ、汗ばんでいるもんな。拭いてあげなきゃだよね……で、そのあとは? どこまで拭いてあげればいいの?

 俺の顔の近くには膝こぞうともう一つ、天井から吊り下げられた古い照明。ただでさえ薄暗い部屋の中で、上部がシェードに覆われているせいか、膝上何センチかより上は影に隠れ、天井を突き破っているあたりはよく分からない。もしも明るかったとしても、申し訳なさからまじまじとは見上げられないだろうけどさ。

 俺の背なら、脚立の上から二段目に立っても手を伸ばせば天井に手が届く。だからこそ改めて自問する。どこまで、拭いていいのだろうか。

 深呼吸を三回して、手拭いを再び濯ぐ。

 とにかく今は太股を拭いてあげよう。その先は……今は考えない。目の前の拭くべき場所に心を傾けずしてどうするんだ。ほら、こんなにも汗ばんでいるんだし、何度か濯がないとだろ。

 俺は心をこめて太股を拭くことに専念した。少しでも気をぬくと、脚を押さえているほうの手のひらが伝えるその感触に心を持って行かれてしまう。
 職人であれ、俺はプロの職人であれ。
 わけのわからないテンションで、俺は一心不乱に太股を拭いた。

 集中していると、時が過ぎるのはあっという間だ。気が付いた時には、俺の手拭いはほとんど天井すれすれの所まで近づいていた。
 ため息が漏れる。
 この先はどうしたら良いのだろう。この脚はどこまでが脚なのだろうか。この先も脚なのだろうか。
 拭うことをまだ止めたくない。葛藤が俺の心を惑わし揺らす。その震えを抑え込もうと、太股を両手でぎゅっとつかんだ。てのひらの内側に、脚がぴくりと動くのを感じる。その動きが、なぜか同意のように感じられて、俺はつい左手の指先を太股の奥へと、天井を突き破っているそのスキマへと、伸ばしてしまった。

 湿った声が聞こえた、気がした。

 と同時に脚がかき消えたのは覚えている。脳がぐるんぐるんと揺れる感覚。俺は手を必死に伸ばし、先ほどまで脚があった虚空を掴もうとした……それも覚えている。でも、それ以外は何も覚えてなくて、医者や家族に伝えられても、実際に自分で触れようとして触れられない今でも、発見された時に脚立に挟まれた俺の左足が切断するしかなかったという事実を、いまだに受け入れられないでいる。



<終>
足洗邸
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