小豆空

文字数 1,575文字

 歩きにくい道をどれほど歩いただろうか。
 足の裏にぬるりとした感触を覚え、足を止める。
 娘を座らせている背負子を降ろして靴を脱ぐ。
 血豆がまた潰れていた。
 ため息をついてから天を仰ぐ。
 渓谷に沿って割れた森。ここからなら空の色を見ることができる。
 山は暮れるのが早い。
 じきに空もこの足の裏と同じ色に染まるだろう。
 ああ。この血豆が小豆になればいいのに。
 ため息がまた出そうになり、呑み込む。
 私が信じないでどうするの。
 もう少しだけ探そう。
 消毒液を染み込ませた包帯を巻き、再び靴を履く。
 娘が落ちないようそっと背負子を背負い直すと、また歩き出す。

 音が聞こえたのは、それからそう経たずに。
 川の上流から、川音に混ざって――これはきっと小豆をとぐ音。きっとそう。
 私は急ぐ。遭えると信じて。
 近くなっている。きっといらっしゃる。
 恐らくこの大きな岩の向こうに――森を通って迂回する暇なんてない。一度でも離れればもう遭えないかもしれない。
 背負子の角度に気をつけなから、川の中へ足を踏み入れる。
 流れはキツくない。岸近くなら深さは膝くらいで済む。これなら先へ進める。
 足下の滑りやすさにも気をつけながら必死に進む。
 娘のために。
 なんとか想いを遂げさせてあげるために。
 大岩を回り込み、その先へ――不意に視界が開けた。
 砂利の河原。
 そこに、いらっしゃった。
 白い着物に黒い袈裟――お坊さんみたいな格好の、背が低い男の姿。
 無精髭に禿げ頭。ザルに入った沢山の何かをショリショリとといでいる――あの色、小豆だ。
 間違いない。聞いていた通り。
 小豆とぎ様だ。
 静かに、驚かしてしまわぬよう、恐る恐る近づいてゆく。
 小豆とぎ様はそこに留まってくださっている。
 ゆっくりと歩を進め、あと数メートルという距離まで近づいた。
 静かに、丁寧に、背負子を降ろす。娘を小豆とぎ様へ向けて――小豆をとぐ音が止まった。
 小豆とぎ様はじっと私たちの方をご覧になる。
 おもむろに小豆の入ったザルをお抱えになり、静かにこちらへといらしてくださる。
 足音は聞こえない。
 それどころか川の流れる音も、鳥や虫の声も、風が揺らす森のざわめきも。
 小豆とぎ様が手を伸ばされた。
 想像以上に長い手。
 そして、その御指が娘の鼻へと伸ばされた。
 小豆とぎ様は微笑まれた。
 娘の鼻から赤い雫が流れ出し、小豆とぎ様の御指の上を転がり、その御手の平の上で幾つかの小豆へと変わった。
 私は両手を合わせ、小豆とぎ様を拝む。
 ありがたや。ありがたや。ありがたや。
 これで娘は救われる。



 その翌日。
 娘の遺書に名が記されていた、とある有名バンドのメンバーが急死したというニュースが流れた。
 他所の小豆とぎは人を取って喰らうと聞くが、うちの辺りじゃ小豆とぎ様は幸運の象徴で、川べりで小豆とぎ様に出遭い笑っていただけたなら、娘は早く嫁に貰われる。
 それだけじゃない。
 ここいらの小豆とぎ様はもう一つすごいお力をお持ちで、死んで間もない娘の遺体を引き合わせることができれば、そしてその鼻から小豆を出していただけたなら、その娘の想い人があの世まで連れてきていただける、いわゆる冥婚の仲人も務めてくださるのだ。
 ああ、ありがたや。
 私は感謝の気持ちで娘の髪を切る。
 切った髪は和紙に包んで神社へと奉納する。
 そこまでが一連の決まりごと。
 小豆とぎ様に縁を取り持っていただいた娘は、大気津比売神(オオゲツヒメノカミ)様にお仕えする死に巫女へと就くのだ。
 死に巫女の死に装束はもちろん巫女姿。
 蚕の繭で作った髪飾りを付け、契りのための盃を持たせ、娘はようやく出棺できる。

 その後は慌ただしく葬儀と火葬とを終え、空を見上げる。
 娘の煙が天へと昇る。
 小豆を敷き詰めたような赤いうろこ雲の中へ。
 ああ、娘の門出に相応しい綺麗な小豆空。



<終>

小豆とぎ
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み