02 少女ニュートン、もうひとりの「フシギちゃん」に出会う

文字数 3,814文字

「セーボーバ、ラーアレー、シーニョーコン、ティーノー。セーボーバ、ラーアレー、シーニョーコン、ティーノー」

 われらが主人公(しゅじんこう)葛崎美咲穂(かつらざき みさほ)は、道場(どうじょう)でのドタバタ(げき)のあと、身支度(みじたく)(ととの)え、小学校へ初登校(はつとうこう)するべく、モーツァルトのオペラ・アリアを(くち)ずさみながら、(おか)(くだ)っていた。

「イーキータ、リーイノー、レーソーネ、ロー」

 『フィガロの結婚(けっこん)』は彼女の好きなオペラだ。

 このときはちょうど、主人公フィガロが恋敵(こいがたき)のアルマヴィーヴァ伯爵(はくしゃく)(いか)りをぶつけるアリアを歌っていた。

 美咲穂がお気に入りの一曲だ。

「イーキータ、リーイノー、レーソーネ、ロッシ! レーソーネ、ロッシィッ! レーソーネ、ロー」

 歌い終わったところで、ちょうど下り坂も終わった。

「ふえふえ、計算どおりだわー。これなら物理学者(ぶつりがくしゃ)は大丈夫だわねー」

 そのまま合流(ごうりゅう)する道路を右折し、歩道を歩く。

 やがてその道は、商店街(しょうてんがい)に入る。

「おや、美咲穂ちゃん。おはよう」

 商店街のいちばん手前にある金物屋(かなものや)店主(てんしゅ)が話しかけてきた。

のオヤジさん、おっはよんだぶるでぃーっ!」

「わはは! 馬力(ばりき)がすごそうだねー!」

「わたしはいつでも、トップ・ギアだわよー」

「わーはは! リチャード・ギアより強そうだー!」

 オヤジはにわかに(うす)()みを()かべて、こう()ちかけた。

「ところで美咲穂ちゃん、いいネジが入ったんだけど、どうかな?」

「それならオヤジさんの(はず)れたところに、はめるといいよー」

「あちゃ! 一本取られたねえ!」

 オヤジは少し、(くや)しそうな顔をした。

「でもねえ、オヤジさんの頭はあいにく、右回りには対応してないんだよー」

「それならネジの()けたところに、花でも()けるといいよー」

「わちゃあ! またもや一本、取られちゃったねー。なんだか美咲穂ちゃん、一休(いっきゅう)さんみたいだよー」

「ふぇふぇー、よくわからないけど、ほめられちゃったよー」

 このようにして二人(ふたり)は、しばらく愉快(ゆかい)なやり取りをしていた。

「それじゃわたしは学校があるから、またねー」

「たまにネジ、見ていってねー」

 美咲穂の背中に手を()るオヤジは、とてもさびしそうだった。

「いつもながら面白いオヤジさんだわー。ふぇふぇーっ」

 元気よく手を振り、足を上げて、美咲穂は商店街の中を闊歩(かっぽ)した。

「あーら、美咲穂ちゃん、おはよう」

「おはようございまーす!」

「美咲穂ちゃんはいつも元気だねえ」

「ふぇふぇーっ! わたしから元気を取ったら、なにが残るってゆーのー!」

「いや、それは……」

 彼女はこの界隈(かいわい)では、おなじみの人気者(にんきもの)なのだ。

 しばらく歩いて、もう少しで小学校というあたりに差しかかったとき――

「引ったくりよー! だれか、(つか)まえてー!」

「ふえっ!?」

 背後(はいご)から女性の悲鳴(ひめい)が聞こえた。

 そして次の瞬間、しけた中年男(ちゅうねんおとこ)がママチャリを立ちこぎして、美咲穂の横を走り去った。

「その人、引ったくりよー! わたしのバッグ、返してー!」

「はわわ! 引ったくりですってー!?」

 中年男はここで捕まってはあいならんと、全力(ぜんりょく)を込めてペダルをこいだ。

「こらーっ!」

「――っ!?」

 美咲穂はシマウマを思わせる脚力(きゃくりょく)でもって、中年男を追いかけた。 

「悪いことはやめてーっ!」

「わーっ!」

 しかし、彼女の野生的身体能力(やせいてきしんたいのうりょく)をもってしても、近代の利器(りき)・自転車には追いつけない。

 どんどん()(はな)されていく、そのとき――

「ワトソン、うしろにまわって! クリックはまっすぐ!」

 どこからか、少女の声がこだました。

「はわっ!?」

 美咲穂の両側(りょうがわ)を、二匹(にひき)茶色(ちゃいろ)大型犬(おおがたけん)が走り抜けていった。

「ひゃーっ!」

 いっぽうの犬がたちまち自転車に追いつき、中年男の進路をふさいだ。

 そしてもういっぽうの犬が、前の犬と連携(れんけい)して、中年男を『はさみうち』にしてしまった。

 美咲穂はその()物劇(ものげき)にびっくり仰天(ぎょうてん)した。

「なんと、あの大きな二匹の犬が、『下手人(げしゅにん)』をたちどころに、()()さえてしまったわ!」

 美咲穂は(おどろ)きながら、その犬たちに近づいた。

「ワトソン、クリック、よくやったわねー」

 ()(ぬし)らしい女の子が、美咲穂のほうへやってきた。

 栗色(くりいろ)(かみ)をした、いかにも上品(じょうひん)服装(ふくそう)の、おっとりした感じの少女だ。

 胸には美咲穂と同じ小学校の、一年生のネーム・プレートがつけてある。

「あなたがこの犬くんたちの、飼い主さんなのー?」

「そうだよー、ふしゅしゅ」

 美咲穂が話しかけると、少女は不思議(ふしぎ)なトーンで笑った。

「ひょっとして、わたしと同じ学校の、一年生じゃないのー?」

万鳥羽東小学校(まんとばひがししょうがっこう)なら、同じだよー」

「わっ、わっ! すごい偶然(ぐうぜん)だわー! わたし、葛崎美咲穂っていうのよー、よろしくね! えーと……」

「わたしは修善寺可南(しゅぜんじ かな)ですー。よろしくねー、ミサホちゃん。ふしゅしゅ」

「カナちゃん!? すてきな名前だわー! じゃあカナちゃん、いっしょに学校へ行きましょう!」

「いいわねー、行きましょう、ミサホちゃん。ふしゅっ、ふしゅしゅ」

 その後、御用(ごよう)となった中年男は、交番(こうばん)でとりあえずカツ(どん)が食べたいと(もう)()た。

 しかし、ドラマとは(ちが)うんだよと、却下(きゃっか)された。

   *

 美咲穂と可南は、仲良(なかよ)()()って、学校へ向かっていた。

 ちょうど小学校とは()()かいの、大きな公園の入り口にさしかかった。

「その犬くんたちの名前、面白いわねー。えーと、なんていったっけ?」

「青い首輪(くびわ)がワトソン、赤い首輪がクリックだよー。秋田犬(あきたいぬ)っていう種類なんだー」

「なにか、意味のある名前なのー?」

「ワトソンとクリックは、アメリカっていう国の、科学者のコンビなんだよー」

「ふえっ、カガクシャ!?」

「ワトソンとクリックは、DNAの二重螺旋構造(にじゅうらせんこうぞう)を発見して、ノーベル(しょう)をもらってるんだよー」

「ふえーっ! ノーベル賞ですてえっ!?」

「ミサホちゃんも科学に興味(きょうみ)があるのー?」

「ふえ! ノーベル賞は興味があって、調べたりしてるわねー。でもその、でぃーえぬ、とか、らせんなんとかは、さっぱりわからないわー」

「わたし、バケガクっていうのが好きなのよー」

「ふえっ、バケガク!?」

「正しくは『()ける』という漢字を使って、『化学(かがく)』と書くんだけれど、もうひとつの『科学』と言い方が同じだから、わざと『バケガク』って言ったりするのよー」

「ふぇふぇー、(むずか)しい……でも、すごく面白そうだわー。わたしは物理学に興味があるのよー」

「ふしゅる!? 美咲穂ちゃんは物理学が好きなのー!?」

「そうだわねー。おかげで小さいころから、『フシギちゃん』なんて呼ばれてたのよー」

「まあ、なんてこと! わたしもずっと、『フシギちゃん』って呼ばれてるんだよー!」

「はわわ! これはきっと、神さまのいたずらに、違いないんだわ! 『フシギちゃん』どうしが、出会っちゃうなんて!」

「たしかに、びっくりだわー。でもわたしは、神さまに『ありがとう』って、言いたいわー。だってこんなに、すてきなめぐりあわせを、してくれたんだものー」

「まったく、そのとおりだわねー。神さまー、ありがとーっ!」

「……ところでミサホちゃん、いま何時か、わかる?」

「ふえ……?」

 彼女たちは公園の時計を見た。

 8時50分――

「カナちゃん……」

「ええ、ミサホちゃん……」

 二人は顔を見あわせる。

遅刻(ちこく)だわーっ!」

 こうして二人の『フシギちゃん』は、学校へとダッシュした。

 そしてこれが、少女ニュートンにとって生涯(しょうがい)親友(しんゆう)となる、修善寺可南との出会いだったのである。
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