08 少女ニュートンと新しい命

文字数 1,857文字

 通りすがりだったはずの自称・物理学者である蘭田理砂(らんだ りさ)の機転で、救急車を呼んだわれらが主人公・葛崎美咲穂(かつらざき みさほ)は、産気(さんけ)づいた母・美咲子(みさこ)をひたすら心配していた。

 かけつけた救急隊員に理砂が事情を説明し、美咲子をストレッチャーで搬入(はんにゅう)したあと、彼女は美咲穂といっしょに救急車へ乗り込んだ。


「お(じょう)、気をしっかり持つんじゃぞ。蘭田さん、どうか奥様とお嬢をお願いいたします」

「お嬢、家のことは自分らに任せてください。奥様を頼みます」

 誰も覚えてはいないと思うが、サイレンを聞きつけて道場からすっ飛んできた師範代の真柴薫(ましば かおる)と、偉大なるモブ・藤木貴斗(ふじき たかと)が、混乱している美咲穂を元気づけた。

 理砂は薫の湿(しめ)った(くちびる)に生理的な嫌悪感(けんおかん)を示したが、そこには()れずに了承(りょうしょう)した。

「ママー、もうすぐ病院だからねー、大丈夫だからねー」

「う、う、う、産まれるんば……」

「おかあさま、しっかり!」

 冷静さを欠いている美砂穂と、こんな状況で小説のネタが憑依(ひょうい)しはじめた美砂子。

 理砂はそれに気が気ではなかったが、なんだかんだでこの母と子の(きずな)を痛感したのだった。

   *

 分娩室(ぶんべんしつ)に美咲子が搬入されたあと、美咲穂と理砂はその近くの長いすに腰かけ、術式(じゅつしき)の終了を待っていた。

 美咲穂はずっとうなだれていたが、理沙はあえて声をかけず、そっとしておいていた。

「ミーシャっ!」

「あっ、パパー!」

 仕事で遠出(とおで)していた父・征志郎(せいしろう)がタクシーですっ飛んできた。

 師範代の薫が連絡しておいたのだ。

「パパー、ママが、ママがー」

 美咲穂はおいおいと泣き出した。

 いままでがまんしていたが、父の登場に感きわまったのである。

 征志郎はすぐさま娘にかけよると、力強く抱きしめた。

「うんうん、よくがんばったね、ミーシャ。ママを守ってくれてありがとう」

「わたしなにも、先生がぜんぶ、やってくれたんだよー」

 美咲穂を支えながら、征志郎は理砂に深々(ふかぶか)と頭を下げた。

「蘭田さん、申し訳ない。あなたは妻と娘を助けてくださった。このお礼を、どう申し上げればよいのか……」

「いえいえおとうさま、お礼などと。わたしはただ、できることをしただけであって……」

「この葛崎征志郎、たとえ一生かかっても、このご恩をお返しする所存(しょぞん)です」

「そんな、おとうさま……」

 理砂は征志郎の誠実さに強く打たれた。

 そしてこの親子の深い結びつきに、涙を禁じえなかった。

「おぎゃあああああっ!」

 分娩室のドアの向こうから、けたたましい赤ん坊の泣き声が聞こえた。

「う、産まれた……」

「おお……」

 理砂と征志郎は思わず顔を見合わせた。

「ママーっ!」

 美咲穂がドアにかけよったので二人はあわてたが、そのとき――

「おめでとうございます! 元気な男の子ですよ!」

 ドアが開き、白衣の医師がそう告げた。

「ふえ、男の子……」

 美咲穂の涙腺(るいせん)崩壊(ほうかい)した。

   *

 産まれたばかりの赤ちゃんを看護師さんが抱き、ベッドに寝かされている美咲子をはじめ、美咲穂たちに見せた。

「男の子ですか、かわいいじゃありませんか」

「先生、ほんとうにありがとうございます。先生がいらっしゃらなかったと思うと、わたし……」

「おかあさま、お体に(さわ)ります。どうかゆっくり、休んでいてください」

 理砂と美咲子が涙ぐみながら会話をしている。

 いっぽう征志郎は愛娘(まなむすめ)の頭をなでた。

「ミーシャ、がんばったねえ。ミーシャがいてくれて、ほんとうによかったよ。ほら、ミーシャの弟だよ」

「ふえー、かわいいよー」

 美咲穂は弟を見つめながら考えていた。

 どうして?

 どうして命は、あるのかな……?

 そんなふうに思索(しさく)をめぐらせていたのだ。

 そしてこの赤ちゃんがのちに、『地上最強の物理学者』と呼ばれる神童(しんどう)葛崎征吾(かつらざき せいご)に成長することを、このときはまだ、誰も予想だにしなかったのである。
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