第4話  血

文字数 2,195文字

 皆の視線が集まるだけの間を取って、壮一郎さんが言った。
「ダンスでもしようや」
「いいわね」
 真っ先に賛同したのは和子さんだった。でも、壮一郎さんが気取ったしぐさで和子さんに腕をさし伸べると、
「ごめんあそばせ。わたしのお相手は文枝さんに決まっているの」
 つんと澄ました顔を壮一郎さんに向けると、和子さんはわたしの手を取って引きよせた。「ね、文枝さん」
「え」わたしはびっくりして首を横に振った。「壮一郎さんと踊っていらして。わたし、できないの」
「じゃあ、教えてさしあげるわ。簡単よ、ダンスなんて」

 和子さんはわたしの手からグラスを取って卓の上に置くと、そのままわたしを客間の中央へ連れ出した。

「タンゴはだめよ、はやすぎて難しいから。スローワルツにして」
 蓄音機のところでレコードを物色している壮一郎さんに向かって言うと、和子さんはわたしの真正面に立った。

「わたしが男役をやるわね。これがクローズドポジションっていうの。まずナチュラルターンから教えるわ。はい、ワン、ツー、スリー」

 和子さんの左手はわたしの右手とつなぎ合わされ、その右手はわたしの背中に回されていた。身体に余計な力を入れちゃだめ。わたしのリードに合わせるの、よくって?

 意外なことに、和子さんの教え方は丁寧で、細やかだった。言われた通りにすると、くるっと身体が回転した。お腹の熱さも手伝って、魔法にでもかけられたみたいに、頭がぼうっとした。

 和子さんにリードされながら夢中で踊っていると、
「文枝さん、あなたの髪って天然パーマなの」
 不意に和子さんが訊いた。
「そう。少し」
「今ターンした時、耳のところで髪がふわっと波打って素敵だったわ。ヨーロッパの貴婦人みたい」
「うそよ。揶揄(からか)わないで」
「あら――」
 和子さんが何か言いかけた時、
「和っ子、男役も似合うなあ。宝塚少女歌劇みたいだぜ」
 姉妹のお姉さんの方と一緒に踊っていた壮一郎さんが、擦れ違いざまに和子さんにウインクした。外国の映画ではあるまいし、ウインクする男の人なんて初めて見た。こういうところが〝札付き〟なのかもしれない、とわたしは思った。

「そんなら、今度思い切って断髪にしようかしら。文枝さん、わたし、断髪似合うと思う?」
「似合うわ、きっと」
「文枝さんがそう言うなら、わたし本当に断髪にしてよ」

 和子さんの顔が少し近すぎた。わたしは手汗をかく方だから、そちらに気を取られ、うっかり和子さんの足を踏んでしまった。

「ごめんなさい」
「いちいちあやまらないで。あなた、真面目すぎるわ。もっと気楽に楽しめばいいのよ」
「ううん、もういいの」
 わたしは、和子さんとつないでいた手を離した。
「どうしたの。ご気分でもお悪い?」
「ちょっと頭が痛くて。騒がしすぎるせいかしら」
 失礼なことを言ってしまったかと、はっとした。頭が少し痛いのは本当だったが、理由は白葡萄酒を一気にグラスの半分も飲んでしまったせいに違いなかった。和子さんは別に気にするふうもなく、
「うちに初めていらした人は皆、そうなるの。ごめんなさいね、がさつな人たちばかりで」
 他の人にわからないように、ちろっと舌を出してみせた。
「少しお庭を散歩なさらないこと? きっと頭の痛いのもすぐに治るわ」

 ※※※※※

 客間から直接下りられるお庭には、よく手入れされた芝が絨毯(じゅうたん)のように広がっていた。

 月の光が降りそそぐお庭を歩いていると、客間の喧噪(けんそう)が遠い潮騒のように感じられた。そんな連想から、
「まるで絶海の孤島にいるみたい」
 ふと、そんな言葉がわたしの唇から零れ落ちた。
「いいわね。孤島に文枝さんとふたりきりなんて」
 ちょうど大きな棕櫚(シュロ)の葉陰に入って、月の光が(さえぎ)られた。
「わたしたち、いいお友だちになりましょうね」
 和子さんは組んでいた腕を(ほど)くと、さっきのダンスの時のようにわたしの正面に回った。息がかかるような近さに、わたしはなんだかどぎまぎしてしまった。

「わたし、あなたの友だちにふさわしい人間じゃないわ」
「それ、どういう意味? どうしてそんなふうにお思いになるの」
「だって……」
 わたしの額に、雨のような細かい粒が当たった。月が出ているのに、どうして雨が降るのだろうと訝りながら言った。「わたしは、死神よ」

 級友たちに陰でそう呼ばれているのは知っていたが、自ら声に出した途端、呪いをかけられたみたいに悪寒が走った。

「五月の死神ね。わたしは、怖いことなんかなくってよ」
 風で棕櫚の葉がそよぎ、月の(しずく)がしたたった。和子さんの(ひとみ)があやしく輝いた。

 わたしは口にすべき言葉が見つからなかった。何を言っても、まるで意味がないような気がした。すっと、和子さんの指がわたしの指に絡んだ。その指はちょっと冷たくて、しっとり湿っていた。わたしは、黙ってされるがままになっていた。

 庭を再び横切って母屋の方へ戻ると、客間から洩れる光の中で、自分の白いピケの袖口に粉のようなものが付いているのに気づいた。

「あ、それ、棕櫚の花粉よ。今はまだ花が咲き出したばかりだけれど、もう少し経つと樹の下が黄色く染まるくらいになるの」
 和子さんが言った。

「そうだったのね。さっき額に何か当たったから、雨かと思ったの」
 指で軽く(こす)ると、花粉は落ちずに、かえって布に染みこんだ。光線の加減か、黄色というより茶がかって見えた。なすった血の跡のように、それはわたしの袖口を汚していた。
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