第8話  靨

文字数 1,791文字

「さっきあの中にいたと思うと、なんだか大仏さまのお顔に親しみが湧いてくるから不思議ね」

 境内の一廓(いっかく)(よし)()()りの茶店があった。わたしたちは茶店の縁台に並んで座り、ラムネを飲んでいた。風がよく通って、わたしたちのブラウスの袖口と襟を揺らした。肌に滲んだ汗が、たちまち引いていくのが心地よかった。

 和子さんの肌は白かった。まるで西洋人みたいな、はっきりした白さだった。倭文子さんも色が白かったが、和子さんとは異なる白さだった。倭文子さんには、肌の細胞が透き通ってしまったような(はかな)さがあった。

「美男におはす夏木立かな、ね」
「それ、あなたが作った歌?」
 反射的に笑いかけたわたしは、和子さんの顔を見て、笑いを引っこめた。
「本気で言ってるの?」
「じゃあ、誰が作ったのかしら」
「与謝野晶子の有名な歌じゃない」
「やだ、そうだったの。わたし、てっきり……」
 和子さんは、あははと口を開けて笑う。わたしは、呆れたような表情を浮かべないように気をつけて目を逸らした。

 ※※※※※

――鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな

 去年の夏のちょうど今頃、わたしは倭文子さんと一緒にここにいた。与謝野晶子の歌はどちらからともなく口を突いて出た。俳句の夏の季語に〝山滴る〟というのがあるが、本当に緑が液体となって滴っているように見えると、わたしたちは大仏の背後の後光山を眺めながら話したものだった。

 わたしたちは海で泳いだ後で、快いけだるさを()(うち)に抱えていた。倭文子さんは夏らしい水色のワンピースを着て、麦わら帽子を被っていた。わたしはふざけてラムネの瓶を、倭文子さんのうなじに押し当てた。身をよじって逃げるかと思ったら、

――肌が火照(ほて)っていたから気持ちいいわ。しばらくそうしていてくださいましな。

 うっとりと目を閉じて、倭文子さんは言った。

――ねえ、どうしてわたしを選んでくれたの。

 目を閉じている倭文子さんに、わたしは尋ねた。

――それは……

――だめ、目を開けないで。そのままで答えて。

――はい。

 倭文子さんは微笑んだ口元のまま、再び目を閉じた。

――お姉さまこそ、どうしてあの日、倭文子に声をかけてくだすったんですか。

――訊いているのは、わたしよ。

――あ、はい。

――倭文子さん、正直に答えて。同じ時期に、和子さんのお手紙も受け取っていたって本当なの?

――本当ですわ。

――でも、それなら……

――それなら、どうなんですの。あ、またわたしから訊いてしまいました。ごめんなさい。

――その質問には答えるわ。だって普通なら、和子さんの方を選ぶのではなくって? あちらは女王よ。

――もちろん、和子さまからお手紙をいただいたのは光栄でした。でも……

――でも?

――お姉さまのお手紙の方が、ずっとずっと素敵でした。わたしの読んでいた本をお当てになっただけでもびっくりでしたのに、「わたしの推理、当たっていて? もし正解だったら、ご褒美としてわたしにチャンスをください。わたしは、〝あなた〟という本を読んでみたいのです」と続いていて、倭文子はなんだか

としてしまいましたの。

――ちょっと、おやめになって。どうしてそんなの覚えてるの。

 自分が耳まで赤くなるのがわかった。

――お姉さまから初めていただいたお手紙ですもの。もちろん一字一句、覚えております。

 倭文子さんは、憎らしいほど落ち着いていた。めちゃくちゃにしてやりたくなるほど美しかった。

――お姉さまのお手紙からは、真摯なお心が伝わってきました。それが何より嬉しかったのですわ。わたしをひとりの人間として見てくださっているのがわかったものですから。

――人間って……、そんなの当たり前ではなくて?

 倭文子さんは、ふっと黙りこんだ。

 目を閉じたままの倭文子さんの顔に、波紋のように揺れた表情。いや、表情そのものというより表情を透かして垣間見た、決して触れることのできぬ倭文子さんの中の何かに、わたしはどきりとしたのだった。

 得体の知れない不吉な予感が、わたしを脅えさせた。今思うと、未来に起こるあの恐ろしい事件を、倭文子さんは予想していたような気がしてならない。

 次の瞬間、こちらへ向けられたふっくらした右頬には(えくぼ)が刻まれていた。そこに人差し指の先を軽く当てて、倭文子さんは小首を傾げた。

――もう目を開けてもよろしいですか、お姉さま。ラムネも、とうに(ぬる)くなってしまいましたわ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み