※エピローグ

文字数 3,308文字

「何を読んでいらっしゃるの」

 いきなり声をかけられて、わたしはびっくりして振り返りました。

 放課後、家に帰りたくなかったわたしは、運動場にある桜の(そば)のベンチに座って本を読んでいたのでした。本を読んでいる間だけ、わたしは自分の家で起こるいやなことの数々を忘れていられるのです。

 その上級生の姿を見て、わたしは思わず、あっと声をあげそうになりました。気が動転したあまり、なぜか読みかけの本を鞄の下に隠してしまったほどでした。

 枝に散り残った桜の花びらが、ちらちらと舞い落ちて、その(かた)の左の耳の上の髪に留まりました。まるで軽くパーマをかけたように、その方の髪は耳のあたりで波打っていて、とても素敵でした。桜の花びらが髪飾りみたいだと思いました。

 でも、わたしを見つめているのは、ちょっと怖い目でした。もしかしてこのベンチはこの方の特等席だったのではないか、一年生のわたしが厚かましく腰かけているのを咎められているのではないか、そう思うと全身に冷や汗が吹き出しました。

「すみません」
 わたしがいきなり立ちあがったせいか、その人はびくっとしたように肩を震わせました。まさかそんな反応をされるとは思わず、わたしは慌ててまた、すみませんと頭を下げました。

「どうしてあやまるの」
 不思議そうな顔で、その方はお尋ねになりました。
「あの、お座りになるのかと、思いまして……」
「違うの。わたし、本を読んでいる人を見ると、何を読んでいるのか知りたくなってしまうのよ。それでつい声をかけてしまったのだけれど、びっくりさせてしまったわね。ごめんなさい」
「いえ、そんなことは……」

 びっくりさせてしまったのはむしろこちらのようですし、考えてみれば、本を隠す必要なんてなかったのです。

「あの、よろしければ御覧になりますか。これは――」
 ベンチの上に屈んで鞄の下の本を取ろうとすると、柔らかな声で制せられました。
「いいえ、見せないで」
「え」
 言われた意味をはかりかね、わたしは中途半端な姿勢で、その方を見つめました。
 すると、その方は、ひとつ空咳(からせき)をなさいました。なぜかちょっと顔が赤くなったようでした。
「明日のお昼休みに、またここへ来てくださらない? お手紙をお渡ししたいの。その中で、あなたが読んでいた本を当ててみせるわ」

 わたしが読んでいたのは、吉屋信子の『暴風雨(あらし)の薔薇』でした。同時期に『少女の友』に連載されていて大評判だった『紅雀(べにすずめ)』は、もちろん毎号雑誌の発売を待ちかねて貪るように読んでいましたけど、『暴風雨の薔薇』の方は『主婦之友』の連載だったため、わたしは単行本になって初めて、この作品を読んだのでした。

 もし表紙が見えていたのなら――わたしの指の間から題名の一部でも見えていたのなら、文学少女が同じように本好きらしい下級生の読んでいた本を当てたからと言って、さして驚くべきことではないかもしれません。

 でもわたしは、三越百貨店の包装紙で作った手製のカバーを本に掛けていました。その方が立っていた位置と角度からは、開いた頁も見えなかったはずで、確認できたのは本の厚みくらいだったはずなのです。

 言いべきことは言ったという感じで、その方はくるりと(きびす)を返し、そのまま立ち去ろうとなさいました。

「お待ちください」
 どこから出た勇気なのかわかりません。わたしは、そう呼びかけてしまっていました。

 その方は、ゆっくりと振り返りました。

「よろしかったら、少しお話させていただけないでしょうか」
「わたしと?」

 ちょっと意外そうな顔をしながらも、その方はまた、ベンチに腰を下ろしてくださいました。ふたり掛けのベンチでしたが、身体が触れたら失礼だと思い、わたしは無理に隅に寄って座りました。

「あ、あの……。わたしの、名前は――」
「朝比奈倭文子さんよね? 一年B組の」
 舌を(もつ)れさせながら自己紹介しようとしたわたしは、思わずぽかんと口を開けてしまいました。

 上級生の方々は、新入生が入ってくると、エスの契りを結ぶのにふさわしい相手がいるかどうか、名前を調べたりするという話は聞いていました。

 実際、体操の時間の後、一年生が一列に並んで運動場から教室へ戻ってゆく時など、教室の窓から上級生が何人も身を乗り出すようにして、こちらを見ていたりするのでした。

 級友の中には、上級生に見られることを喜んでいる人もいましたけれど、なんだか品定めでもされているようで、わたしは正直、あまりいい気分ではありませんでした。

 そして、わたしたち下級生の(うち)の誰かが、お姉さま方のお眼鏡にかなうことがあると、靴箱の中にお手紙がしのばせてあったりするのです。

 実はわたしも数日前、杠和子さまからお手紙をいただいていたのですが、女王のような上級生がわたしのためにお手紙を書いてくださったという誇らしさより、なぜわたしなどに、と困惑する気持ちの方がずっと強うございました。

 ところが、今隣に座っている方の口からわたしの名前が発せられた瞬間、ぱっと心に光が燈るような喜びを感じてしまったのですから、人間なんて現金なものだとつくづく思います。

「誤解なさらないでね」
 その方は、なぜか焦ったように手を振りました。「別にわざと調べたわけではなくってよ。今ここで会ったのも、まったくの偶然なの。廊下であなたを見つけて後をつけてきたとか、そういうことでは――」

 瞬間、しまったという表情がお顔に浮かびました。わたしは失礼とは知りながら、ついくすっと笑ってしまいました。さっきから怖い目をなさっていた理由(わけ)が、ようやくわかった気がしたからです。

「佐伯さまに名前を呼んでいただけるなんて光栄ですわ」

 え、と佐伯文枝さまは目を(みは)りました。「あなたこそ、どうしてわたしの名前を……」

 今度はわたしがびっくりする番でした。この方は、ご自分が下級生たちからどんな視線を向けられているか、まるでご存知なかったのでした。

「だって、有名でいらっしゃいますもの。わたし、〝梓ゆみ〟のファンなのですわ」

 今でもよく覚えています。わたしがそう言った途端、文枝さまはまるで悪戯が見つかった子供みたいな顔をなさったのです。

「でも、雑誌には〝東京〟としか書いていなかったでしょう? どうしてここの学校の生徒だってわかったの」
「それはわかります! なんてったって、〝緑の(おへや)〟ですもの。こういう噂は、燎原(りょうげん)の火のごとく広がるのですから。同じ小学校からこの学校に入ったお友達の間でも、入学前からその話で持ち切りでした。〝佐伯文枝〟というのは、わたしたちが初めて覚えた上級生のお名前だったのですわ」
「燎原の火のごとくって……。あんまり大袈裟ではなくって」

 わたしはすっかり興奮しておりましたから、文枝さまが困惑し切った表情を浮かべているのもかまわず、新聞記者みたいに質問を重ねていました。

「梓ゆみという筆名(ペンネーム)は、やっぱり枕詞の〝梓弓(あずさゆみ)〟から取られたのですか」
「そうよ。『万葉集』に、梓弓引かばまにまに寄らめども――」
「――後の心を知りかてぬかも。石川(いしかわの)娘女(いらつめ)の歌ですね」
「あら、すごい」
 文枝さまが感心したように目をしばたたいたので、わたしはすっかり有頂天になってしまいました。

 こんなに楽しい時を過ごすのは、生まれて初めてのような気がしました。この時間がいつまでもいつまでも続けばいいのに、と願わずにはいられませんでした。

「ごめんなさい。わたし、もう帰らないと」
 傾きかけた日差しを見て、文枝さまはせわしなげに立ちあがりました。

 後で知ったのですが、文枝さまのお母さまはお亡くなりになっていて、文枝さまがいつも学校からの帰りに夕食のお買い物をされているのでした。

「ごきげんよう。じゃあ、また明日ね」
「はい、明日の昼休みに。ごきげんよう、



 最後の言葉は、ふっと口を突いて出たのです。わたしは思わず、自分の顔が赤くなるのを覚えました。



                                       (了)



※本文中、吉屋信子『讃涙頌』を引用した部分は、吉屋信子『返らぬ日』(ゆまに書房、二〇〇三年、一九九頁~二〇一頁)を参照した。
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