第15話 力

文字数 1,792文字

 菊丸には船室の等級がなかった。家族連れなどが貸し切りにできる和室と洋室が一つずつある他は、皆一様(いちよう)に一般客室に入るようになっていた。

 乗客たちの多くは床に直接ザコ寝をしていた。起きているものもいたが、誰もが静かにしていた。しわぶきの音一つにも、気を遣っているかのように。

 わたしたちは、寝ている人をうっかり踏んだりしないように注意しながら、奥へと進んだ。アルミの水筒の蓋に何かを注いでちびちび飲んでいる香具師(やし)みたいな男がいた。わたしたちが傍らを通り過ぎようとすると、ちらりと目だけ動かしてこちらを見た。なんだかいやな目つきだった。むっとお酒の匂いがした。通り過ぎてからも、男の目がわたしたちを追っているような気がしてならなかった。

 なんとか客室の隅の壁際に隙間を見つけ、わたしたちは背中を壁に凭せる形で座を占めることができた。

 わたしはコートを脱ぎ、それを夜具のように倭文子さん身体に掛けてあげた。わたしたちの前には、行商人らしいおばあさんがいた。でっぷり太った体格で、大きな風呂敷包みに身体を預けてうつらうつらしていた。このおばあさんと風呂敷包みの陰に隠れる形になって、先ほどの男の姿が視界から外れたので、わたしは思わずほっとした。

 倭文子さんはわたしに寄りかかっていた。倭文子さんの匂いが鼻腔をくすぐった。しっとりした髪の匂いには、僅かに海の香が混じっているようだった。

「電車の中でもそうでしたけれど、お姉さまの体温を感じていると、すぐ眠くなりますの。このところずっとちゃんと眠れていなかったのに、不思議ですわ」
 わたしの耳にだけ届く声で、倭文子さんは言った。

「目をおつぶりなさい」わたしも倭文子さんの耳に唇をつけるようにして囁いた。「眠るの。何も考えずに」
「はい」倭文子さんは素直に瞼を閉じかけたが、ふっと顔を上げた。「もし倭文子が怖い夢の中で泣いていたら、お姉さまは助けに来てくださいますか」
「モチモチよ」
 女学生たちの間で、〝もちろんよ〟の意味で、〝モチよ〟とか、〝モチモチよ〟と言うのが流行っていた。

 わたしはあまり使ったことはなかったけれど、なぜだかちょっと、お道化(どけ)てみたくなったのだ。それがよほど似合わなかったのだろう、倭文子さんは声をしのばせて笑った。正確には笑い声にまでならない、微かな空気の揺れだった。その揺れが(しず)まったと思うと、倭文子さんはもう、すとんと落ちるように眠っていた。

 わたしは倭文子さんが少しでも楽に眠れるように身体の向きを調整した。柔らかい重みがわたしに密着し、倭文子さんの匂いが少し濃くなった。

――生きている。

 と、わたしは思った。

 倭文子さんは、生きている。鎌倉から東京へ戻る電車に乗っていた時は、倭文子さんがどんどん透明になっていくようで、そのままどこかへ消えてしまいそうで、わたしは気が気ではなかった。

 でも、今こうして倭文子さんの重みを支え、その匂いに包まれていると、美しい命そのものを抱きしめているような気がした。

 倭文子さんの薄い胸はやさしく息づき、その奥では心臓が規則正しい鼓動を刻んでいた。それは両手で包んで、そっと口づけしたくなるほど愛おしい音だった。

 ちっとも眠くなんかなかった。わたしは薄暗い船室の片隅で、何かを睨むように目を開けていた。男になりたいと思った。もしわたしに男の力があれば、倭文子さんを理不尽な暴力から守ってやれたかもしれないのに。

――いや、違う。

 違う。わたしが欲しいのは、男の力なんかじゃない。そんなものではないのだ。女の人でも、男の人のようになることがあるんです。さっき甲板の上で倭文子さんの口にした言葉が耳に(よみがえ)った。あの時、倭文子さんが目を凝らしていた闇の奥にあったもの。それがようやく、わたしにも見えてきた気がした。

 倭文子さんはきっと、力の強いものが力の弱いものを支配する関係について話していたのだ。相手を自分の足下に組み敷き、意のままにしようとすること。そんな理不尽を、受け入れてしまうこと。支配と服従。そうした(いびつ)な関係は、確かに異性との間だけでなく、同性同士の間にも起こり得るに違いなかった。

 わたしはまた、激しい吐き気を覚えた。胃が搾り上げられるような痛みを必死で(こら)えた。由比ヶ浜海岸で倭文子さんが語ったこと――先週の日曜日に起きたという凄惨な事件が、わたしの頭を、そして身体を、蹂躙(じゅうりん)した。
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