第1話  杠

文字数 1,944文字

 佐伯(さえき)さん、あなたずいぶんね。せっかくお手紙さしあげたのに知らんぷりして。わたし、毎朝靴箱を開ける度に、がっかりしているのよ。お昼休みの教室(クラスルーム)で、わたしはいきなり(かず)()さんに肩を叩かれた。まるでピアノの鍵盤でも押さえるような、リズミカルな指の動きだった。

 あの一件以来、わたしは女学校の級友(クラスメート)たちとほとんど言葉を交わしていない。彼女たちの楽しげなおしゃべりは水の中の声みたいに――いや、それとはちょっと違う、言葉ははっきり耳に聞こえているのだけれど、わたしが幽霊になって彼女たちを(かたわ)らから眺めているような、そんな感じなのだった。

 あまり久しぶりだったので、他人に話しかけられた時、どうすればいいかを忘れていた。そうだ、お返事をするんだっけ。ようやく思い当たった時、和子さんがわたしの方へ身を屈め、耳元に唇を近づけた。今日の放課後、わたしに付き合っていただきたいの。約束よ、よくって。

 あっと思う間もなかった。踵を返した和子さんの背中を、わたしの視線が滑った。和子さんは教室の後ろの方に陣取っている六、七人の、いつも一緒にいるお仲間のところへ戻っていった。何をお話しになったの。ないしょ。和子さんは手を後ろで組んで笑っていた。

 (ゆずりは)和子さん。彼女を中心とするグループは、五年A組の中で軟派と呼ばれている。皆お洒落な人たちで、コティの棒紅なんかをこっそり鞄にしのばせて、休み時間に自慢したりしている。その中でも、和子さんは女王だ。まるで女学生の群に大人の女性がひとり混じっているような、コケットリーな雰囲気がある。グループの中には、もちろん整った顔立ちの人もいるのだが、和子さんと一緒にいると、どうしてもお腰元みたいに見えてしまう。

 お腰元たちは、敵意の籠もった目をわたしに向けていた。

「まあ! 和子さんからお手紙をいただいたのに、ご返事もさしあげないなんて」
「いったい、どういうおつもりなのかしら」

 聞えよがしに話す声と、セーラー服の背中を刺すいくつもの視線。お弁当はまだ三分の一ほど残っていたけれど、すっかり食べる気が失せて蓋を閉じてしまった。

 お昼休みが終わり、ミス・ハーパーのリーダーの授業が始まっても、わたしはまだぼんやりしていた。佐伯さん、あなたずいぶんね。わたしの靴箱に和子さんからのお手紙が入っていたのは、四日前の月曜日のことだった。わたし、あなたとお友だちになりたいの。(たか)(ばたけ)()(しょう)作画の美しいレターセットに、そう書かれていた。級のピカ一から手紙をもらったという晴れがましさはまったくなかった。わたしは、ただ困惑した。女王のきまぐれか、わたしを揶揄(からか)悪戯(いたずら)のどちらかだとしか考えられなかった。

 約束よ、よくって。わたしの耳元で囁いた和子さんの声は、高圧的というよりむしろ無邪気だった。ご自分の誘いが断られるなんて、夢にも思っていない人の態度だった。急に、石でも呑んだような重い痛みを胃に感じた。

 痛みは、わたしに自分の身体を思い出させた。

 女学校最後の年の新学期が始まってから、もうすぐ一か月になろうとしていた。四月の終わりの気温は、どんなに息を殺すようにして学校にいる間を過ごしても、わたしの身体を微かに汗ばませるのだった。家に帰って制服を脱いだ後、わたしは自分の腋の下に、そっと鼻を近づけてみることがあった。腋の窪からは、生きているもの特有の、いやらしい匂いがした。

 わたしは、生きている。現金なもので毎日お腹も空く。ごはんを食べれば消化され、排泄される。月のものも規則正しくやってくる。

――何のために、女ばかりこんな目にあわなければいけないのかしら。

 毎月の生理痛のうっとうしさが、つい声になってわたしの唇からこぼれたことがあった。

――良い子を産み、育てるためではありませんか。

 その時、倭文子(しずこ)さんは口元に微笑みを浮かべ、ちょっと小首を傾げるいつもの表情で言った。

 わたしたちは運動場の隅の、桜の樹の(そば)にあるベンチに並んで座っていた。倭文子さんはあぶらとり紙で、わたしの額ににじむ汗を吸い取ってくれていた。もうすっかり葉桜の季節で、薄い緑の葉に濾された光が、倭文子さんの白い顔やお下げの髪の上に(まだら)に揺れていた。

 髪を長く伸ばしている女学生は、おうちで日本舞踊でも習っていそうな、しっとりした雰囲気を漂わせているものだが、倭文子さんはとりわけそうだった。低学年は三つ編みを二本にする人が多いのに、倭文子さんの場合は一本で、それがよく似合っていた。腰のあたりにまで届くつややかな髪の先には、お気に入りらしい紫色のリボンが結ばれていた。そんな倭文子さんを眺めていると、脂汗が出るほどのお腹の痛みを、立っていられないほどの下半身のだるさを、その(たま)らない苦しさを僅かに忘れることができた……。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み