第16話 雫

文字数 2,051文字

 ご両親が揃って出掛けたあの日、倭文子さんは風邪を引いて寝こんでいた。

 その前の晩、酔って遅く帰ってきた征治が、昼近くにようやく起き出し、無遠慮にずかずかと倭文子さんの部屋に入ってきた。倭文子は思わず蒲団の中で身を縮めた。

――誰もいないじゃねえか、どうなってるんだ。

――お父さまとお母さまは、お父さまの上司の方のお宅にいらしています。

――何か食う物はないか。腹が減って(たま)らねえんだ。

――あの、お兄さま。わたし、少し熱があるものですから……。おさとはおりませんか。

――どこで油を売ってるのか知らんが、あいつの姿が見えないんだよ。おい、倭文子。お前が何か作ってくれ。それから休めばいいだろう。

 この兄に道理が通じないことはわかっていた。倭文子さんは相手にわからないようにため息をつくと、重くけだるい身体を無理に起こそうとした。

 その時、血走った征治の目が食い入るように自分を見つめているのに気づいた。熱にうなされていたせいで、浴衣の襟が少しはだけていた。はっとした時には、既に遅かった。男の身体が、荒々しく自分の上にのしかかっていた。柿の腐ったような臭い息が、間断なく顔に吹きつけられた。それから後のことを、倭文子さんはよく覚えていない。激痛のあまり気を失ってしまったからだ。

 ぐったりと動かない倭文子さんを見て、さすがに征治も青くなったらしい。その時、使いに出ていた女中のおさとが戻ってきた。

 聡いおさとは、ぐったりと意識のない倭文子さんの姿から、すぐに何が起きたかを悟った。どこまでも卑劣な征治は、脅迫的な方法で口止めをしようとしたが、おさとは暇を出される覚悟で、自分の見たことをありのまま、直接倭文子さんのお父さまに告げたのである。

 おさとはこれまでも、征治が度々、倭文子さんの小遣いを巻き上げたりするのを見て、腹に据えかねるものがあったらしい。

 征治は元々、勉強の嫌いな子供だった。倭文子さんのお父さまは継父としての遠慮があったのか、この義理の息子をあまり厳しくしつけなかった。征治もそれをよいことに、中学の時から不良仲間とつるみ、酒やたばこの味を覚えていた。

 中学卒業後、商業専門学校に進んでからも、征治の素行は改まらなかった。学業成績はひどいものだったが、学校のお情けで卒業させてもらった後、一年浪人してなんとかH大の経済学部に潜りこんだ。しかし、講義にはほとんど出ず、相変わらず中学以来の仲間と浅草六区などに入り浸り、自堕(じだ)(らく)な生活を送っていた。

 いくら義理の息子でも、長男に変わりはない。さすがに見かねた父親が意見をしたところ、開き直った征治が、大学を中退して満州で一旗揚げるなどと言い出したので二人は激しい口論になった。

 それが土曜日のことで、征治はそのまま家を飛び出した。と言っても、一晩の宿を探すあてもなかったらしく、夜遅く酔って帰ってきた。

 息子に甘すぎる母親がこっそり鍵を開けておいた裏口から忍び入り、まんまと父親に気づかれることなく自分の部屋に戻った。そのまま翌日の昼近くまで、両親が出かけたことも、妹が()せっていることも知らず、大鼾(おおいびき)をかいていたというわけだった。

 おさとの注進によって、事の次第を知った父親は、初めて征治に手を上げた。妻がどれだけ取りなそうとしても、この時ばかりは聞く耳を持たず、征治を離れ座敷に押しこめて謹慎を命じた。

 学校を休んでいる間、倭文子さんはどれだけ傷つき、苦しんでいたことだろう。せっかく家まで足を運びながら、わたしはあの継母の態度に萎縮(いしゅく)し、結局、倭文子さんの顔も見ずに帰ってきてしまったのだ。

 継母がわたしを倭文子さんに会わせなかったのは、愚かな息子の不始末が倭文子さんの口から洩れるのを恐れたからに違いない。

 今朝、倭文子さんが一週間ぶりに学校へ行こうとして玄関の引き戸を開けると、台所で息子の朝食の支度をしていた継母が、大きな声で〝独りごと〟を言った。

――真昼間からしどけない恰好をしてたそうじゃないか。わざとそうなるように仕向けたんだろ。まったく、虫も殺さぬ顔をして怖い子だよ。

 倭文子さんはぶるぶる震える手を懸命に抑えながら、引き戸を閉めた。この家には二度と戻らない。その言葉を、呪文のように繰り返しながら……。

 ※※※※※

 わたしは、強くなりたい。

 倭文子さんを傷つけるのではなく、守り抜ける強さが欲しい。

 ふと、自分の頬が濡れているのに気づいた。いつの間にか泣いていたのかと思ったが、そうではなかった。わたしに凭れて眠る倭文子さんの瞼から、涙が流れているのだった。

 怖い夢を見ているなら起こしてやらねばと思ったが、倭文子さんの顔は微笑みを含んだように穏やかだった。起こすかどうか躊躇(ためら)っているうちに、瞼が僅かにふくらむと、また新たな涙が溢れ、頬を伝い落ちた。

 わたしの頬なのか、それとも倭文子さんの頬なのか、もはや判然(はっきり)しなかった。触れ合った部分の皮膚が溶けて一つになっていた。月の(しずく)のような涙の粒を、わたしは唇で受けた。そっと、吸った。
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