第3話  酔

文字数 1,831文字

 五月の最初の日曜日、わたしは、番町にある和子さんのお宅に招待された。

 和子さんのお父さまは貿易会社をなさっていて、(さき)の大戦景気で財をなした方だと聞いたことがある。和洋折衷(せっちゅう)の、厳めしいほど立派なお屋敷の前に立つと、わたしはすっかり気後れがしてしまった。

 でも、ようやく意を決して玄関で案内を請うと、出てきた女中が、
「佐伯様でございますね。先ほどからお嬢さまがお待ちかねでございます」
 と丁寧な物腰で言った。すぐに廊下をぱたぱたと走る音が近づいてきて、
「文枝さん、ようこそ! ずっとあなたを待っていたのよ。遅いから、来てくださらないのかと思ったわ」

 わたしが靴を脱ぐ間ももどかしげに、和子さんはわたしの手を取って、廊下を進んでいくのだった。

 客間らしい大きな部屋のドアが開いていて、そこから賑やかな声が()れ聞こえてきた。その中に男の人の声も混じっていることに、わたしは身体が硬く縮こまるのを覚えた。

謹聴(きんちょう)、謹聴。こちらが、佐伯文枝さん。すごい文学少女なのよ。わたしの大切なお友だち」
 和子さんが、そんなふうにわたしを紹介すると、男の人のひとりが口笛を吹いた。なぶられたような気がして、わたしはかっと顔が熱くなった。このまま回れ右をして帰ってしまいたかった。

「学校の方はいらっしゃらないの?」
 指を絡めるように手を握ってきた和子さんに、わたしは小声で訊いた。
「今日は身内のパーティーなの。こちらは、わたしの従兄の壮一郎。今はY大の文科予科にいるんだけど、(ふだ)()きの不良なのよ。文科にいるくせに、漱石と鷗外の区別もつかないんだから」
 和子さんが指さしたのは、今口笛を吹いた男の人だった。
()()、ひでえなあ。そんな紹介ってあるかい」
「文枝さんが騙されないように、最初に教えておくのよ。文枝さんは真面目な方なんだから、変な誘惑しちゃだめよ。何かあったら、わたし許さないから」

 従兄と言われれば、壮一郎さんは確かに和子さんと面立ちが少し似ているようだった。和子さんの言う〝札付きの不良〟が具体的にどんな意味なのかはわからなかったが、
「このお嬢さんが、和っ子お気に入りのご学友か。確かにシャンだな」
 軽薄な調子でそんなことを言いながら、にやにやとこちらを眺めてくる。ちょっと気味が悪かった。

 他には男の人がもうひとり、女の人がふたりいた。男の人は壮一郎さんと同じ予科に通う友人。ふたりの女の人は姉妹だった。目白の女子大に通っているというお姉さんは、頬紅や口紅も濃く、きびきびと話す方だった。妹さんは逆におっとりしていて、去年高等女学校を卒業したが上の学校には進まず、今は家事手伝いをしているそうだった。和子さんのおうちと姉妹のおうちは、お父さま同士が莫逆(ばくぎゃく)の友らしく、それぞれ一家を構えてからは家族ぐるみのお付き合いをしているという話だった。

 和子さんは〝身内〟と呼んでいたが、確かに皆ごく親しい間柄らしく、遠慮のない冗談が飛び交っていた。皆和子さんやわたしより年上だったが、中心にいるのはやはり和子さんだった。学校では女王然としている和子さんだが、ここではお姫さまのように振る舞っていた。

 和子さんは、わたしを長椅子(ソファー)に座らせると、
「お飲み物をお持ちするわね」
 (テーブル)の上から二つのグラスを取って、白葡萄酒を注いだ。自分のグラスを慣れた手つきで持ちあげ、もう一方のグラスをわたしに渡そうとするので、
「わたし、いただかないわ」
 びっくりして言うと、
「お酒、召し上がったことないの?」
 もし和子さんの口調に軽蔑が含まれていたら、その挑発の浅さにこちらも冷ややかな気分でいられただろう。でも、教室で初めて話しかけられた時のように、和子さんはいかにも虚心な表情で訊いてくるのだ。だから、こちらはかえってむきになって、
「飲んだことくらいあるわ。少しですけれど」
 などと答えてしまう。

 実は雛祭りの甘酒くらいしか飲んだことはないのだが、今更後に引けなくなって、和子さんの手からグラスを受け取った。勢いが良すぎて、和子さんに目を丸くされた。

 グラスの中の白葡萄酒は、お酢みたいに見えた。その連想から、唇をすぼめるほどすっぱい味を思い浮かべてしまったのだが、口に含んでみると妙に甘ったるい味だった。

「文枝さん、そんなに一気に飲んでだいじょうぶ?」
「だいじょうぶよ」
 お腹がかっと熱くなったが、無理に笑顔をつくってそう言った。

 その時、壮一郎さんがフォークでグラスを、まるで(ベル)でも鳴らすように叩いた。
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