第9話  湯

文字数 2,064文字

「はがきにあった住所を頼りに、ようやくここまで来たっていうのに、鍵が閉まっているし、呼んでも誰も出てきてくれないし、わたし、途方に暮れちゃったのよ」

 わたしが鍵を回して、ちょっと建付けの悪い玄関の引き戸をがたがたさせながら開くのを、和子さんは傍らに立って眺めながら言った。

「よく海岸にいるってわかったわね」
「だって文枝さん、はがきにそう書いてあったじゃない? 毎日海を眺めているって」
「忘れたわ」
「あら、いい加減な人ね」
 和子さんはちょっとふくれて、日傘を手の中でくるくると回す。 

 お父さまとお母さまはまだ軽井沢にいるので、お宅のお車を勝手に使うわけにもいかず、東京から電車で一時間以上かけて鎌倉まで来て、それから江ノ電に乗って長谷駅で降りたのだという。まるで女王さまのお忍びだ。

 わたしが先に玄関の三和土(たたき)に入って、どうぞと言うと、
「お邪魔いたします」
 女王は日傘をたたんで、礼儀正しく一揖(いちゆう)してから敷居を(また)いだ。

 一旦家に上がってしまうと、和子さんはすっかり我が物顔で〝探検〟を始めた。
「文枝さんのお父さまって文士なんですってね。わたし、興味があるわ。お部屋を覗かせてくださらないこと?」
「だめよ。お待ちになって」
 わたしは慌てて、和子さんの後を追った。

 和子さんは、するすると廊下を滑るように歩いてゆく。小さな貸家だから、たちまち父が書斎に使っている部屋を探し当ててしまった。

「部屋の物を勝手に触ると、父が怒るの」
「見せていただくだけ。触りゃしないわ。ほら――」
 和子さんは背中で腕を組んで莞爾(にこっ)と笑ってみせると、忍び足で書斎の中に入った。
「あら、意外にきちんと片付いているのね。書き損じの丸めた原稿が、床にいっぱい転がっているかと思ったのに」
「それは、わたしが朝掃除するから」
「なんだ、触ってもいいんじゃない」
「紙屑だけはね。でも、書きかけの原稿や資料には絶対触っちゃいけないの」

 母が亡くなった後、部屋の掃除をするのはわたしの仕事になった。最初は紙屑と間違えて資料を捨ててしまったりして、よく父に叱られた。

 執筆中の父はひどく(かん)が立っており、わたしが小さかった頃も、ちょっと話し声が大きかったりすると、いきなり襖を開けて物を投げつけられたりしたものだ。あまりの剣幕に、わたしは決まって泣き出してしまうのだが、その泣き声がうるさいとまた怒られる。そんな時、母はわたしの手を引いて外へ連れ出したものだった……。

 どうにか好奇心の虫がおさまったらしい和子さんをお茶の間に引っ張ってきて、卓袱台(ちゃぶだい)の前に座らせると、わたしはお盆にふたり分の麦茶を載せて出した。

 和子さんのような方のお宅にはきっと氷箱があるに違いないが、うちの場合は東京の家にもそんな気の利いたものはない。それでも、朝はやく煮だしておいた麦茶は、風通しの良い台所に置いておいたおかげで、ほどよく冷えていた。

「おいしいわ。それに、いい風」
 畳の上にぺたりと横座りしている和子さんは、卓袱台に肘を突いた姿勢のまま、開け放した縁側の方を振り向いた。

 風鈴が、鳴った。

「和子さん」
 なあに、と言うように振り向いた和子さんの顔を、わたしは正面から見つめた。
「どうして、わたしなんかに興味を持つの」

 一瞬、和子さんは水のような表情をした。

「せっかく鎌倉に来るんだから、海水着を持ってくればよかったわ」
 和子さんは話を逸らすように言った。「文枝さん、海水着二つ持ってない? わたし海水浴したいわ」
「日中のこんな時間に泳いだら、後で大変よ。わたしみたいな地黒はいいけれど、あなたみたいに色の白い人は、皮を剥がれた因幡(いなば)の白うさぎみたいになっちゃうわ」

 ※※※※※

――そっとよ、お姉さま。そっとかけてくださいましね。

 前屈みになって、豊かな髪を垂らしている倭文子さんの裸身に、わたしはそろそろと桶の湯をかけた。

 海水浴をしたのは、朝まだはやいうちだったのに、倭文子さんの白い背中はまるで火傷(やけど)をしたように赤くなり、水着の跡がくっきりと付いていた。

 髪の中に砂が入っていたから、はやめにお風呂を沸かしたのだ。熱すぎると肌に沁みると思って、お湯は日向水(ひなたみず)とさして変わらぬほどのぬるさにしたのだが、それでも倭文子さんは痛がった。

 髪を揉むように洗っている倭文子さんの細い肩に、張りつめるような緊張があった。顔は髪に隠れて見えないが、倭文子さんが歯を食い縛っているのがわかった。わたしは細心の注意を払って、できるだけ静かにお湯をかけた。

 海水着で隠れていた部分の肌の白さは、赤らんだ部分との対比のせいか、ちょっと青みを帯びているようにさえ見えた。その上を流れていく澄んだお湯を見ていると、なぜだか桶一杯のお湯を、倭文子さんの背中に激しくぶちまけてやりたい衝動を覚えてしまうのだった。

 もし本当にそんなことをしたら、倭文子さんはどんな悲鳴をあげるだろう。涙の浮かんだ目を上げて、恨めしそうにわたしを睨む倭文子さんの顔を想像すると、なんだか身体の芯がじんと痺れるような、妙な気分になってくるのだった……。
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