第18話 決

文字数 1,183文字

 わたしは、お母さまが生前、ひどく恥ずかしそうに診療所に通っていたことがあるのを知っている。

 その時のわたしはまだ小さくて、お母さまの病気が何なのかを知らなかった。でも、なぜか尋ねてはいけないことだと理解していた。後になって、そこが〝花柳病(かりゅうびょう)及び婦人病専門〟の診療所だったこと、お母さまが父に性病をうつされたのだということを知った。

 花柳の(ちまた)に通じていなければいい小説は書けないと言って、父が毎晩のように遊んでいた時期だ。お母さまは嫁入り道具として持ってきた着物まで質に入れて、必死に家計を遣り繰りしていた。

 お母さまの人生が幸福だったとは、わたしには思えない。そもそも、お母さまが結婚後の人生に幸せを求めたことがあったのかどうかすらわからない。

 それでもお母さまは、わたしに愛情を注いで育ててくださった。お母さまが生きていらした間は、わたしにとって幸せな日々だった。

 でも倭文子さんには、それすらなかったのだ。倭文子さんの自由を奪い、虐げてきたのは、同じ女である継母であり、その継母に甘やかされて育った兄であり、家庭のことは女に任せておけばいいと信じこんでいる実の父親であった。娘が家の中でどんな仕打ちに耐え続けていたか、あんな事件が起こるまで、倭文子さんのお父さまはまったく気づいていなかったのだ。

――良い子を産み、育てるためではありませんか。

 女学校の運動場のベンチで、倭文子さんのあの言葉を聞いた時、だからわたしは頭を(なぐ)られたような気がしたのだ。倭文子さんがそれでも(なお)、良い子を産み育てる未来を思い描いていることに。そんな未来を微笑みながら語ることに……。

 月が、雲間から出た。

 氷のような光が、倭文子さんの全身を照らし出した。その姿は神々しいまでに清らかで、わたしは思わず身震いした。

「お姉さまはここに残ってください、とは言いません。だって、そんなことを申し上げたら、お姉さまはお怒りになりますもの。いいえ、怒られるのが怖いのではないのです。これはわたしの心からのお願い、お姉さまへの最後のわがままです。どうか三原山の噴火口まで一緒に登ってくださいまし。倭文子が立派に死んでみせるのを、しっかり見届けてくださいまし。実は東京へ戻る電車の中で、倭文子はまだ少し迷っておりました。でも霊岸島の発着所で、暗い海に掛けられた菊丸のタラップに一歩足を踏み出した時、倭文子の腹は決まりましたの。だからお姉さま、もうお止めにならないで」

 何ものかに祈りを捧げるような、静かな声だった。

 風が、渡った。

 一面の芒が身を震わせて月の光を零しながら、互いに何ごとかを囁き交わしているようだった。

「倭文子さん」
 わたしはそっと、美しい人に呼びかけた。「腹を決めたのは、わたしも同じよ。倭文子さんだけを、そんなさびしいところに行かせはしない。わたしは最後まで、あなたと一緒にいるわ」
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