第11話 鬼
文字数 1,743文字
電車は、既に品川駅を過ぎた。
冷たい冬の雨が相変わらず、窓の外の闇を埋めている。
こちらの肩に顔を凭 せるようして眠りこんでいる倭文子さんを、そろそろ起こさなければと思いながらも、その眠りを妨げるのが躊躇 われた。
一週間。たった一週間で、倭文子さんの変わりようと言ったらどうだろう。あれほどつややかなうるおいを帯びていた肌は無惨に乾き、粉を吹いたように荒れていた。
今浅い眠りの中にたゆたっているこの身体には、苦痛が砂みたいにびっしり詰まっている。そう思うと、一秒でも長く休ませてやりたかった。
蒼白い額には、汗で前髪がはりついている。わたしは、そっと指で倭文子さんの前髪を整えてあげた。この髪も、心なしか薄くなったような気がする。微かな呻きが唇から洩れたのではっとしたが、しばらくするとまた静かな寝息に戻った。僅かに開いているその唇も乾き、罅 割れていた。
二月六日の月曜日、倭文子さんが学校を休んでいることを知った時は、まだ事態がこれほど深刻だとは夢にも思っていなかった。その前の週の土曜日、せっかく半ドンの日なのに、倭文子さんはちょっと風邪ぎみだと言って、放課後まっすぐ家に帰ってしまった。大きなマスクをして咳をする姿が痛々しかった。
流行性感冒でなければよいのだけれど、と心配しながらも、すぐにお見舞いに行かなかったのは、倭文子さんにはおうちの問題があって訪ねていくのが憚 られたからだ。でも、お休みが二日、三日と増えていくに従い、わたしの不安も増した。思い切って休み時間に倭文子さんの教室を訪ね、級友に尋ねてみたが、
――お具合が悪いそうで、わたしたちも心配しているのですが、詳しいことはわかりません。
という話だった。
四日目の木曜日。ついに居ても立ってもいられなくなって、幡ヶ谷本町にある倭文子さんの家にまで行ってみた。ところが、出てきた倭文子さんの母親に、わたしは門前払いを食わされてしまった。
――ただの風邪です。わざわざお見舞いにきていただいてすみませんが、おうつしするといけませんから玄関先で失礼します。
倭文子さんとは生 さぬ仲である母親の表情や声音には、取り付く島もない冷酷さが籠もっていた。
――倭文子さん、わたしよ。文枝が来てるのよ。
そう奥に向かって叫びたかったが、舌が引き攣 ったようで何の言葉も出てこないのだった。
わたしは母親に向かって頭を下げると、黙って玄関を出た。暗澹 たる気分だった。あの継母の態度が、そのまま倭文子さんを閉じこめている家の冷ややかさ、よそよそしさに思われた。
――わたしなら、ちゃんと看病してさしあげるのに。
不意に道の風景がふくらんで、流れた。
わたしは道ゆく人に見られないように、コートの袖で目尻を拭った。鼻の奥がつんとした。倭文子さんが不憫でならなかった。でも、その時の自分の想像がいかに甘かったかを、わたしはその僅か二日後、胸をかきむしる思いで知ることになった。
※※※※※
紀元節の十一日。
紅白饅頭をもらって下校しようとしていたわたしは、廊下から何気なく運動場を眺め、思わずあっと叫んだ。見間違えるはずはなかった。今にも降り出しそうな暗い空の下、桜の樹の傍のベンチに俯きがちに座っているのは、なつかしい倭文子さんだった。
靴を履き替えている間に、倭文子さんがどこかへいなくなってしまいそうで、わたしは上履きのまま運動場を横切って走った。
わたしの近づく気配を感じたのか、倭文子さんが顔を上げた。妙にのろのろとした動作だった。途端にわたしの足は、竦んだように動かなくなった。
人 気 のない運動場の隅に、幽鬼を見た気がした。
僅か二歩の距離を隔てて、わたしたちは見つめ合った。
「お姉さま。わたし、ひどい顔をしているでしょう」
ちょっと小首を傾げて、倭文子さんは微笑んだ。窶 れ果ててはいても、その微笑みは確かに倭文子さんの匂いがした。わたしは金縛りが解けたように二歩の距離を埋め、ふらふらと立ち上がった倭文子さんをしっかりと抱きしめた。
――何が……いったい、何があったの。
――鎌倉へ連れて行ってください。お姉さま、倭文子は鎌倉の海が見たいのです。
囁くようにそう言うと、後はわたしが何を訊いても、倭文子さんは弱々しく首を振るばかりだった。
冷たい冬の雨が相変わらず、窓の外の闇を埋めている。
こちらの肩に顔を
一週間。たった一週間で、倭文子さんの変わりようと言ったらどうだろう。あれほどつややかなうるおいを帯びていた肌は無惨に乾き、粉を吹いたように荒れていた。
今浅い眠りの中にたゆたっているこの身体には、苦痛が砂みたいにびっしり詰まっている。そう思うと、一秒でも長く休ませてやりたかった。
蒼白い額には、汗で前髪がはりついている。わたしは、そっと指で倭文子さんの前髪を整えてあげた。この髪も、心なしか薄くなったような気がする。微かな呻きが唇から洩れたのではっとしたが、しばらくするとまた静かな寝息に戻った。僅かに開いているその唇も乾き、
二月六日の月曜日、倭文子さんが学校を休んでいることを知った時は、まだ事態がこれほど深刻だとは夢にも思っていなかった。その前の週の土曜日、せっかく半ドンの日なのに、倭文子さんはちょっと風邪ぎみだと言って、放課後まっすぐ家に帰ってしまった。大きなマスクをして咳をする姿が痛々しかった。
流行性感冒でなければよいのだけれど、と心配しながらも、すぐにお見舞いに行かなかったのは、倭文子さんにはおうちの問題があって訪ねていくのが
――お具合が悪いそうで、わたしたちも心配しているのですが、詳しいことはわかりません。
という話だった。
四日目の木曜日。ついに居ても立ってもいられなくなって、幡ヶ谷本町にある倭文子さんの家にまで行ってみた。ところが、出てきた倭文子さんの母親に、わたしは門前払いを食わされてしまった。
――ただの風邪です。わざわざお見舞いにきていただいてすみませんが、おうつしするといけませんから玄関先で失礼します。
倭文子さんとは
――倭文子さん、わたしよ。文枝が来てるのよ。
そう奥に向かって叫びたかったが、舌が引き
わたしは母親に向かって頭を下げると、黙って玄関を出た。
――わたしなら、ちゃんと看病してさしあげるのに。
不意に道の風景がふくらんで、流れた。
わたしは道ゆく人に見られないように、コートの袖で目尻を拭った。鼻の奥がつんとした。倭文子さんが不憫でならなかった。でも、その時の自分の想像がいかに甘かったかを、わたしはその僅か二日後、胸をかきむしる思いで知ることになった。
※※※※※
紀元節の十一日。
紅白饅頭をもらって下校しようとしていたわたしは、廊下から何気なく運動場を眺め、思わずあっと叫んだ。見間違えるはずはなかった。今にも降り出しそうな暗い空の下、桜の樹の傍のベンチに俯きがちに座っているのは、なつかしい倭文子さんだった。
靴を履き替えている間に、倭文子さんがどこかへいなくなってしまいそうで、わたしは上履きのまま運動場を横切って走った。
わたしの近づく気配を感じたのか、倭文子さんが顔を上げた。妙にのろのろとした動作だった。途端にわたしの足は、竦んだように動かなくなった。
僅か二歩の距離を隔てて、わたしたちは見つめ合った。
「お姉さま。わたし、ひどい顔をしているでしょう」
ちょっと小首を傾げて、倭文子さんは微笑んだ。
――何が……いったい、何があったの。
――鎌倉へ連れて行ってください。お姉さま、倭文子は鎌倉の海が見たいのです。
囁くようにそう言うと、後はわたしが何を訊いても、倭文子さんは弱々しく首を振るばかりだった。