第19話 過
文字数 1,908文字
倭文子さんが、どんとわたしを突き飛ばした。
あの細い腕から出たとは信じられないほどの力で、わたしはよろよろと後ろに下がり、そのまま尻餅をついた。
倭文子さんは、一本だけの長い三つ編みをうなじから前に回して、右の胸の前に垂らしていた。白い指がゆっくりと髪の先のリボンを解 く。
紫のリボンが、風に飛んだ。
倭文子さんは、何かをふり捨てるみたいに首を振った。その途端、地の底から吹きあがってきた風が、倭文子さんの髪を逆立てた。
噴火口は、御神火 という名前とは裏腹に、地獄の業 火 そのものに見えた。渦巻く炎が、倭文子さんの髪に燃え移ったかのようだった。
「だめ!」
腰に力が入らないので、わたしは這 った。いざり寄りながら、倭文子さんに向かって腕を差し伸ばす。
だめよ、倭文子さん。そこで後ろを見ないで。振り返ってしまったら、もう間に合わない。そのことを、わたしは知っている。なぜなら、
わたしはよろよろと立ちあがった。まるで深い沼から這いあがろうとしているかのようだった。
ああ、もうすぐ倭文子さんが後ろを向いてしまう。止めなくては。あの美しい髪を引っ張ってでも連れ戻さなければ。それでも間に合わないなら、今度こそわたしも倭文子さんの後を追おう。倭文子さんを、ひとりで行かせはしない。わたしたちは、どこまでもどこまでも一緒なのだ……。
その時、ぐっと強い力でわたしの身体は後ろに引かれた。
「何やってるのよ、文枝さん。しっかりしてっ」
急に視界が開けた。荒野のただ中に、わたしは立っていた。
草一本とてなく、火山岩が黒々と地表を覆い、その割れ目から覗く土の肌は血のような赤茶色に爛 れていた。
腕が、また強く引かれた。思わず
そこに、和子さんがいた。
和子さんは、金輪際 離すものかといった必死の形相で、わたしの腕にしがみついていた。
「文枝さん、あなたは死神どころじゃないわ。まるで反対よ。死神に憑 りつかれているのよ。目を覚まして! それ以上行ったらだめ、引き返して。あなたまで死んではいや!」
どうして和子さんがここにいるのだろう? わたしは、倭文子さんとふたりで三原山に登っていたのに。そして今日は、二回目の〝二月十二日〟の朝のはずなのに。
倭文子さん。そうよ、倭文子さんはどこ? ぐずぐずしていると、倭文子さんは
「振り向いちゃだめだったら!」
がくっと視界が揺れ、同時に頬の高く鳴る音が、わたしの耳に響いた。
打たれた頬を手で押さえながら、わたしはぼんやりと、和子さんを見つめた。
和子さんは、ひどい顔をしていた。女王の気品はどこにもなかった。涙と鼻水が混じり合い、顔中を覆っていた。それでも和子さんは、手で顔を拭おうともしないのだった。
「誰を探しているの? あなたの後ろには、誰もいやしないわ。そっちにあるのは噴火口よ。跳び下りたら最後、二度とは戻ってこられない地獄の釜よ。ねえ、しっかりして! どうしちゃったのよ、文枝さん。昨日から、わたしがどれだけ怖かったかわかる? 電車の中でも船の中でも、あなたはひとりでぶつぶつ呟いて、まるで誰かと話し続けているみたいだった。わたしが何を言っても、ちっとも耳に入らない様子で……」
この人は、何を言っているのだろう。わたしの隣には倭文子さんがいて、ふたりで話していたのではないか。
倭文子さんはわたしに、やり直す機会を与えてくれたのだ。過 ちを償 うことを許してくれたのだ。今度こそ、わたしは間違えてはいけないのだ。
「文枝さん、落ち着いてよく思い出して。倭文子さんは亡くなったの。もうこの世にはいないのよ」
和子さんは、わたしの肩を両手で激しく揺すぶりながら叫ぶように言った。
――倭文子さんが亡くなった?
うそよ。
おかしいわ、和子さんこそどうしちゃったの? わたしと倭文子さんは、あの〝二日間〟をもう一度辿り直しているだけなのよ。わたしの世界を変えてしまった〝二月十一日〟と〝二月十二日〟を。
和子さん、お願い。もうわたしたちの邪魔をしないで。わたしは、倭文子さんの後を追わなければいけないの。わたしは一度、過ちを犯した。倭文子さんがこの世から消えてしまう〝二月十二日〟の朝を、絶対に繰り返してはならないの。
「ねえ、文枝さん。あなたは昨日から何度も、〝二月十一日〟と〝二月十二日〟の日付を呟いているのよ。その二日間に、いったい何があったっていうの?」
――ああ、思い出したわ。
和子さん、あなたはそれが知りたかったのよね。いいわ、順を追って話してあげる。そういう
あの細い腕から出たとは信じられないほどの力で、わたしはよろよろと後ろに下がり、そのまま尻餅をついた。
倭文子さんは、一本だけの長い三つ編みをうなじから前に回して、右の胸の前に垂らしていた。白い指がゆっくりと髪の先のリボンを
紫のリボンが、風に飛んだ。
倭文子さんは、何かをふり捨てるみたいに首を振った。その途端、地の底から吹きあがってきた風が、倭文子さんの髪を逆立てた。
噴火口は、
「だめ!」
腰に力が入らないので、わたしは
だめよ、倭文子さん。そこで後ろを見ないで。振り返ってしまったら、もう間に合わない。そのことを、わたしは知っている。なぜなら、
一度見ている
から。わたしはよろよろと立ちあがった。まるで深い沼から這いあがろうとしているかのようだった。
ああ、もうすぐ倭文子さんが後ろを向いてしまう。止めなくては。あの美しい髪を引っ張ってでも連れ戻さなければ。それでも間に合わないなら、今度こそわたしも倭文子さんの後を追おう。倭文子さんを、ひとりで行かせはしない。わたしたちは、どこまでもどこまでも一緒なのだ……。
その時、ぐっと強い力でわたしの身体は後ろに引かれた。
「何やってるのよ、文枝さん。しっかりしてっ」
急に視界が開けた。荒野のただ中に、わたしは立っていた。
草一本とてなく、火山岩が黒々と地表を覆い、その割れ目から覗く土の肌は血のような赤茶色に
腕が、また強く引かれた。思わず
たたら
を踏んだわたしは、ようやく声の方へ視線を向けた。そこに、和子さんがいた。
和子さんは、
「文枝さん、あなたは死神どころじゃないわ。まるで反対よ。死神に
どうして和子さんがここにいるのだろう? わたしは、倭文子さんとふたりで三原山に登っていたのに。そして今日は、二回目の〝二月十二日〟の朝のはずなのに。
倭文子さん。そうよ、倭文子さんはどこ? ぐずぐずしていると、倭文子さんは
また
ひとりで行ってしまう――「振り向いちゃだめだったら!」
がくっと視界が揺れ、同時に頬の高く鳴る音が、わたしの耳に響いた。
打たれた頬を手で押さえながら、わたしはぼんやりと、和子さんを見つめた。
和子さんは、ひどい顔をしていた。女王の気品はどこにもなかった。涙と鼻水が混じり合い、顔中を覆っていた。それでも和子さんは、手で顔を拭おうともしないのだった。
「誰を探しているの? あなたの後ろには、誰もいやしないわ。そっちにあるのは噴火口よ。跳び下りたら最後、二度とは戻ってこられない地獄の釜よ。ねえ、しっかりして! どうしちゃったのよ、文枝さん。昨日から、わたしがどれだけ怖かったかわかる? 電車の中でも船の中でも、あなたはひとりでぶつぶつ呟いて、まるで誰かと話し続けているみたいだった。わたしが何を言っても、ちっとも耳に入らない様子で……」
この人は、何を言っているのだろう。わたしの隣には倭文子さんがいて、ふたりで話していたのではないか。
倭文子さんはわたしに、やり直す機会を与えてくれたのだ。
「文枝さん、落ち着いてよく思い出して。倭文子さんは亡くなったの。もうこの世にはいないのよ」
和子さんは、わたしの肩を両手で激しく揺すぶりながら叫ぶように言った。
――倭文子さんが亡くなった?
うそよ。
おかしいわ、和子さんこそどうしちゃったの? わたしと倭文子さんは、あの〝二日間〟をもう一度辿り直しているだけなのよ。わたしの世界を変えてしまった〝二月十一日〟と〝二月十二日〟を。
和子さん、お願い。もうわたしたちの邪魔をしないで。わたしは、倭文子さんの後を追わなければいけないの。わたしは一度、過ちを犯した。倭文子さんがこの世から消えてしまう〝二月十二日〟の朝を、絶対に繰り返してはならないの。
「ねえ、文枝さん。あなたは昨日から何度も、〝二月十一日〟と〝二月十二日〟の日付を呟いているのよ。その二日間に、いったい何があったっていうの?」
――ああ、思い出したわ。
和子さん、あなたはそれが知りたかったのよね。いいわ、順を追って話してあげる。そういう
約束
だったのだもの……。