第10話 シス(SISU)

文字数 1,746文字



「あの白いTシャツとスラックスを着て子どもたちに囲まれてる男性は誰?」
30代過ぎのベテランの女性保育士さんが聞いた。
「さあ、新しい保育士さんかな? ずいぶん若いけど」
少し若い女性保育士が答えた。
クレセント製薬の研究開発者、長尾聡(ながおさとる)は、香子(こうし)の調査で取り上げた項目をアプリにして、タブレットで詳細に記録しようと思ったが、一日目であきらめた。
多かれ少なかれADHDの障害を持つ子どもたちは聡を見るなり、新しく遊んでくれる人が来たと思って、ある女の子はお人形の家に招待したし、別の男の子は積み木のお城に連れて行った。
そういうおとなしい子ならまだしも、まとわりついて離れない子や、髪の毛をいじる子などもいて、聡はまずタブレットをしまって、その場にいる子どもたちを観察することに切り替えた。

僕はパンダか何かに見えるのだろうか…
たくさんの子どもたちを見ながら、聡は途方に暮れた。一人でたくさんの子といっぺんに遊ぶのは難しいので、絵本を読んでみた。すると落ち着かなく動き回る子は少なくて、大部分がお話を聞いてくれた。

最初の施設でそれが成功したので、聡は図書館で何冊か子ども向けの本を見繕って、子どもたちに読むことにした。それで聡は「際限なく遊んでくれる人」ではなく、「本を読んでくれるときどき来る人」になった。

統計的観察なんて無意味かも知れない、と聡は思った。みんな結構熱心に聞いてくれるし、ウクライナ民話『てぶくろ』や、『ぐりとぐら』など、すてきな絵本、懐かしい童話に出会って心が和んだ。毎日いろんな本を見て、さまざまな年齢の患者の子どもたちがいる施設を回っていると、どの子もお話を楽しみにしてくれて、患者として見たり、ましてや自社の薬を服用させる対象として認識するのは難しかった。

午前中に子どもたちの観察をした後は、会社に戻って候補物質の探索にかかった。コンピュータ技術者でもある(さとる)は、この点でAIも導入し、検索を効率化することができた。多くの場合、コンピュータの検索は自動化させておき、同時にワークベンチでマウスを使ってさまざまな物質を実験した。マウスが過剰反応して死ぬこともよくあり、聡はこの仕事の暗い面を痛感した。各種物質を少しずつ変えて候補を作製し、それを命ある者にさまざまに試す。
一週間に一度、聡はそうしたマウスたちを研究室の裏手に埋葬し、石を積んで供養した。

就業時間後、そんな埋葬をしていたある日、一匹のやせた白猫が、マウスの小さな墓の後ろを横切った。
「この猫は別の会社で実験に使われていたけど、お払い箱にされた猫なの」
と研究員の有吉恭子さんが言った。彼女が製品化への道筋をつけた薬は、人を対象に行う臨床試験前の非臨床試験に入っていた。だから、有吉研究員が動物実験を行うことも多かった。
「私がある会社に実験動物を購入しに行ったとき、安楽死のガス室で殺されるところだったのでもらってきたの」
と有吉研究員は言った。
聡がひざをかがめて猫と同じ高さの目線になると、猫がやってきた。嫌がらないので抱き上げると、そのやせ具合が顕著だった。腹の下を見ると雌だった。
「この子、ガリガリですね」
聡は猫の目を見ながら言った。
「元気にしようと思ったけど、なかなか食べないのよね」
と有吉さん。
「この子、僕にくれませんか?」
「長尾さん、忙しくないの?」
「忙しいのは有吉さんのほうでしょう、僕は独りぼっちだから、猫がいたら嬉しいな」
ということで、有吉さんからやせこけた白猫をもらった聡は、猫砂や餌を用意して、この雌猫を飼うことにした。
念のため、寮の管理人さんにも聞いてみたが、小動物なら飼ってもよいとのことだった。

餌を食べて、猫砂でトイレも済ませた猫は、やっぱり独りぼっちだから、(さとる)の小さなベッドに入ってきた。
「ぼっちの僕のベッドへようこそ。君の名前を決めなきゃいけないな…」
聡はやせた白猫の頭を撫でた。
「僕は…潮見さんに愛してもらうには、実績を上げなきゃならない。それには負けじ魂が必要だ。君は、フィンランドという北欧の小さな国が、かつて巨大なソビエト連邦に歯向かった歴史を知ってるかい? 今でも人口550万人くらいのフィンランドは、負けじ(シス)を持っていた」
白猫はニャアと小さく鳴いた。
「決まった、君の名前はシスに決定だ」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み