第31話 夜間飛行

文字数 2,787文字



マーカス・アドラーは、エセーニン文学博物館から、リャザン空挺(パラシュートやグライダー)軍大学の飛行場まで車で40分ほど飛ばし、そこのまだ40歳の口ひげをたくわえた若い教授と会って、潮見を紹介した。折しも太陽が沈む頃であたりは赤く染め上げられていた。

「ズドラーストヴィチェ(こんにちは)」
潮見は覚えている僅かなロシア語を口にしながら、教授と握手した。なんでも、この教授は二十歳(はたち)過ぎのマーカス・アドラーが二番目に飛行を教わった先生だという。その後もずっと、航空機を使って世界中で人助けをするアドラーの活躍を追っていた。そして新聞やテレビで報道されると、あのパイロットを私は指導したんですよ、と誇らしげに語るのだった。
マーカス・アドラーには、世界中にこのような友だちがいて、それらの人の協力なしに任務を遂行することはできなかった。

今回教授が用意した機体は第二次大戦中の古い複座機で、フィンランドとの冬戦争中に活躍していた代物だった。マーカス・アドラーは最新鋭の自動操縦機に飽き飽きしていた。それは、コックピットで、プログラムされた航路が入ったカセットをガチャッと装填すると、飛行機の中で眠っていても、ネルーダの詩を読んでいても、99.9パーセント自動運転で目的地に運んでくれた。そこで、今回の、製薬会社研究員の長尾聡(ながおさとる)幻想(ビジョン)を追うというやや文学的な使命に、車で言えばマニュアル車を希望したのだった。

潮見はもちろん戦闘機に乗るのは初めてで、訓練したこともなかった。リャザンから空路になるとは聞いてもいなかったので、心構えもしていなかった。しかし、相手はあまたのミッションをこなしてきた伝説のパイロットである。こういう展開がないとは言えなかった。それに宇宙に出るわけでもない。ちなみに萌原の宇宙センターで、宇宙で活動する飛行士には、戦闘機の操縦という訓練があることを聞いた。聡のために、普通の人である潮見はこんな経験をすることを面白がってやろうと決意した。

二人は軽い食事を採り、トイレを済ませて(これは大事、空で尿意を催し、地上に着くなり大放出に至ったフィンランド人飛行士の話を読んだ)、小さな部屋で飛行用スーツに着替え、ハーネスを着け、ヘルメットと飛行用ブーツを装着した。
「潮見さん、気分はどうだね? 初フライトにワクワクしているか?」
マーカス・アドラーはいたずらっぽく聞きながら、僚友のハーネスの締め具合を少し直してやった。
「有名なパイロットである君が操縦する飛行機の後ろに乗せてもらえるのは、このうえない光栄だ。こんなこともう二度とないかも知れないから、一瞬一瞬を味わおうと思う」
と潮見は答えた。
その素直な答えにアドラーはニッコリとほほえみ、機体に向けて歩きだした。潮見は大股で歩くパイロットに遅れないよう着いていった。

飛行機脇のはしごの下に、マーカス・アドラーの恩師が立っていて、教え子の操縦士は立ち止まって先生に軍隊式に敬礼した。潮見は僚友の師匠に、日本的に会釈をしてから乗り込んだ。先生は、潮見が後部座席に自分を固定するのを手伝ってくれた。

マーカス・アドラーは、障害物のまるでない空洞に向かって、赤から夜の紫色に変わる滑走路上を滑走する。第二次大戦中の古い機体なのに、ある瞬間に大きな振動もなくジェット旅客機みたいにふわっと浮上した。

「気分はどうだ?」
ヘルメットの通信装置にマーカス・アドラーの声が響いた。
「素晴らしい離陸だ」
と潮見はヘルメットのマイクに向かって感想を述べた。まるでかげろうが飛び立ったみたいだと思った。
「ダンケ(ありがとう)」
とアドラーは答えて機体を旋回させた。

飛行機は静かに夜の闇を飛ぶ。こんな真っ暗の中を、マーカス・アドラーは機体のナビゲーションライトを点灯し、頭にたたき込んだ地形と今日の天候を勘案しながら、各種計器と昼と同様に外の目標物標を見て、自機の位置を確認しながら飛行している。

潮見はマーカス・アドラーの滑らかな操縦に身をゆだねながら、(さとる)のことを思った。

聡、早く会いたいよ。萌原でひょんなことから深い仲になり、ドイツのベルリンまで来て幸せだったのに、不明な組織に拉致されるなんて!

君の声はかげろうみたいに(かす)かだったが、この飛行機もかげろうよろしく静かに飛び立ったので、君のいるところへ飛んで行くだろうか。

夜の女王が星々をまとった黒いドレスを空いっぱいに広げている。そのドレスの中をマーカス・アドラーの操縦する航空機は静かに飛んでいく。

機体はリャザンからシベリアのクラスノヤルスクへ飛んでいた。約5時間のフライトである。

クラスノヤルスクは地図で見ると、ユーラシア大陸の真ん中、その南に位置する。

クラスノヤルスクは、帝政ロシア時代から流刑地として有名だった。
例えば、12月に起きた「デカブリストの乱」で、8人がサンクトペテルブルクからクラスノヤルスクへ流刑になった。
デカブリストたちは、ツァーリズム(皇帝専制)打破と農奴解放を要求した。

スターリン体制下でも、強制収容所(グラグ)の中心地となり、クラスノヤルスク水力発電所が建設され、ソビエト連邦の重工業のメッカであった。

また、第二次大戦中ソビエトに捕まった日本人で、このシベリアのクラスノヤルスクに流刑になった人々もいる。

現在のクラスノヤルスク市(ロシア語: Красноярск〔クラスナヤールスク〕)は、ロシア連邦シベリア中部の都市。エニセイ川の河畔に広がる。人口は約109万人で、シベリアではノヴォシビルスク、オムスクに次ぎ3番目に大きな都市。シベリア連邦管区の本部が置かれている。シベリア鉄道が通っており、モスクワからは約4,100 km離れている。

ヨーロッパを旅行して日本に帰ってくると東に飛ぶことになるから、だんだん夜が明けてくるように、マーカス・アドラーが操縦する機体も、夜を飛んでいたが、しだいに朝に近づいていた。

眼下の光景は亜麻色の光線に育まれている。夜は消えつつあった。潮見は感嘆して、後部座席から機体が金色に染まるのを見た。

「カーク・クラシーヴァ(なんと美しい)!」
と叫ぶマーカス・アドラーの声が、通信装置を通じて潮見のヘルメットに送り込まれていた。

エンジン音と風切り音に阻まれて、飛行中に細かいことは言えないし、言っても聞こえない。

しかし潮見は、マーカス・アドラーがこのような瞬間のために飛んでいることを肌で感じた。潮見もこんな美しい光景は見たことがないと思ったからだ。説明しようのない飛行の歓びを体験した者だけが、いま正に飛んでいるアドラーと潮見の気持ちを理解するはずだ。

シベリアの冷たい大地が近づいていた。そこに飛行場はない。バイカル湖を通り過ぎるとき、バイカルアザラシの黒々とした身体を一瞬見たと思ったら、機体はたくさんのバラックが立ち並ぶ永久凍土の地に着陸した。

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